campus life 10
遥から、メールが来たんだ。伊吹がそばにいてくれるから、私は大丈夫って。今日のこともあったし……そんなはずないって思ったんだけど、どうしても気になってさ。しおりちゃんにこんな電話するべきじゃないってわかってるんだけど。でも、確かめたくて。
伊吹は、今ここにいない。
でも、だからって、そんなメールが来たからって、絶対に遥さんのそばにいるわけじゃない。
もし、そばにいたとしても、それがイコールいかがわしい関係ってわけでもない。
河合さんから突きつけられた言葉に反発する感情も、不安に飲み込まれそうになる。
電話をきった後、伊吹にかけてみても繋がらなかった。
私はメールの画面を開いたまま、しばらくどうすることもできずにいる。
「しおり、冷めるぞ」
そうだ、せっかく川島くんがめずらしく用意してくれたんだから(って言っても伊吹が買ってきてくれたレトルトだけど)おかゆ食べよう。
きっと、ちゃんと連絡が来るはずだ。
私はケータイをベッドに置いたまま、リビングへ向かった。
「な……なに、これ」
「酒」
「って……」
見ればわかるけどっ!
テーブルの上には、おかゆの入った私専用のボウルと……一升瓶。
そして、ふたつある湯飲みのひとつを手にとって、満足そうに口を開いた。
「川島家に伝わる風邪の特効薬、玉子酒。子どもの頃はたぶん酒しっかり沸騰させてアルコール飛ばして卵入れてたんだと思うけど、もうしおりもオトナだし、テキトーに熱燗にしてあるからさ」
「……そう、なんだ」
川島くんはスナック菓子の袋を豪快に開けると、湯のみに入った玉子酒とやらをひとくちすする。
「やっぱ卵入るとお子様向けだな」
そう言うと、一升瓶を持ち、湯のみに日本酒を足した。
そんな童顔で、やってることはオッサンだよ。
「ほら、しおりもおかゆ食ったら飲めよ。酒は百薬の長ってな」
「あ、うん。ありがと」
テレビを観ながら湯のみで酒をあおる、オヤジ化した川島くんの横に並んで座ると、後ろをついてきたシロも並んで身体を丸くした。
行儀が悪いと思いながらも、ソファの上で膝を立て、その上にボウルをのせておかゆを食べた。
味覚がまだ戻ってないのか、おいしいとも感じられないけど、とりあえず食べなきゃ。
テーブルの隅には、私の名前が書かれた薬の袋が置いてある。
どうして、そばにいてくれなかったんだろう。
ふと、そんなわがままな想いを伊吹にぶつけたくなった。
もしも今、遥さんの隣にいたとして、それにはきっと理由がある。
帰ってきてから、ちゃんと話してくれるはずだ。
と、しんみりした気持ちになったのも束の間、隣から聞こえる川島くんのえげつない笑い声に、なんだか気が抜けた。
時間をかけておかゆをキレイに平らげて、いよいよ私は川島くん手作りの玉子酒なるものに手をつける。
あと数ヶ月でハタチになるし、一度だけお酒は飲んだことがある。
「でもね……」
湯のみを手に持ったまま、思わず苦笑すると、川島くんがなんだよと声を荒げた。
「俺の作ったのが飲めねーっての? ダイジョーブだって、美味いから、マジで」
「うん、でも」
「酒、飲めるんだろ?」
「あぁ、うん、それは……」
飲めないんじゃなくて、飲んじゃいけないのだ。
一度飲んだあの時から、伊吹には絶対飲むなと忠告されている。
でも、ま、ちょっとくらいは、いいよね。
ひとくち飲むと、甘い香りが鼻から抜けて、身体がほわっと暖かくなる。
「おいしい」
「だろ? 身体もあったまるし、絶対いーんだって」
よく言われるように、きっと少しの量なら薬になるはずだ。
これを飲んだら、またベッドに戻って眠ってしまおう。
朝になれば、伊吹も帰ってきてるだろうし、体の調子も良くなる気がする。
そう思って、私は勢いよく玉子酒を飲み干した。
……いいか、しおりには、絶対に酒を飲ませるな。
いつだったか、俺が一緒に暮し始めたころ、ぐったりしたしおりを抱えて朝帰りした伊吹にそう『警告』された。
何があったのか聞こうとしても、とても聞き出せないようなオーラを全身に纏い、あんなにも疲労困憊した伊吹を、俺は今まで見たことがない。
確かにあの時は、しおりが酒を飲んだら、この伊吹でも太刀打ちできないくらい、ハンパなくタチが悪くなるのかもしれないと想像したけれど。
けど。
「だから、さっきからそう言ってんじゃないのよぉっ!!」
「わかった、わかったから、な? と、とりあえず、もう飲むなっ」
「いーやっ、飲むわよ、今夜は、今夜こそは飲んだくれてやるぅ」
目をいつも以上に、そう、異常なまでにつり上がらせて、しおりは手加減なしに俺を押しのけ一升瓶を手に取った。
「お、おい、やめ……」
やーめーろーッ。
つーか、もう、ヤバイ、暴走止まんねぇ!
これはこれで面白い。今までに見たことがないしおりを知ったことも、その暴走具合も、俺も一緒になってどこまでも突っ走りたい。
でもな、やっぱな、帰ってきた……いや、もしかしたら、目が覚めたとき……伊吹に合わせる顔がない。
俺は両手で一升瓶を持ち上げ、ぐびぐびと思わず見とれてしまうほど良い飲みっぷりを披露するしおりを見ながら、暴走の一線を越えるべきか否か、真剣に迷っていた。
瓶から離れた赤い唇の横に、わずかに酒がこぼれて垂れた。
半開きのそこからわずかに姿を見せた舌が、器用にそれを掬い取る。
すっかり据わった瞳にくわえてその仕草、いつもじゃ想像できない艶っぽさに、忘れようとしていた感情が揺さぶられた。
時々、一緒に暮してしまったことを後悔することがある。
俺は、しおりのことが好きだった。うだうだした平たい意味なんかじゃなく、正真正銘愛情の「好き」だ。
でもそれが叶わないことは知っていたし、相手が伊吹なら、文句は無かった。
だから俺の「好き」は、いつしか伊吹に対するものと同じ、人としての尊敬を込めての言葉に変化した。
またあの時のように楽しく過したくて、この家で伊吹と暮すことを持ちかけた。
伊吹がここに住めば、必然的にしおりも遊びに来るだろうと思ったし、なんとなく、昔みたいに三人でバカみたいなやり取りができるだろうって。
それがしおりも一緒に住むとなって嬉しかった、はずだった。
離れていた一年なんて短い時間のブランクは、あっという間に埋められたし、ひとつ屋根の下で一緒に暮すことで、以前よりもっと、絆みたいなもんが深くなるような気がした。
それでも、その一年の間に、しおりと伊吹のふたりは俺の知らない次元に進んでいて、決して俺が追いつけない場所にいる。
恋人同士なんだから、当たり前だ。
でも、なんだか、それが時々……。
「ほら、次はオマエが飲め」
凶悪な目つきになって、俺にあと三分の一ほどしかなくなった酒瓶を差し出す。
思わず頬が引きつると、しおりはにっこり、気持ち悪いほどにっこり笑った。
「なーんて、今の伊吹みたいじゃなかった?」
「あ、ああ、そーだな」
あははと声を上げて笑うと、次には再びその瞳を光らせ、ぼそりと伊吹の名を呼んだ。
ずっとそばで様子を見ていたネコが、いよいよ逃げ出す。
またか? また、始まるのか?
その前に、俺もいっちょ酒をあおった。
「だいたい何で? 何なのよ、どーして病人の私を残して、遥さんのところに行っちゃったわけ? っていうか、それをわざわざ報告するみたいな河合さんも何なのよ! 男のクセに女々しいと思わない? 遥さんのことを忘れるために私のことを好きになるなんて、ホント都合よすぎよ。謝ったところで、もし、伊吹が……」
もう散々、態度が豹変してから何度も聞かされた話のくだりだ。
どうやら憧れていた先輩たちが別れて、仲の良かったしおりと伊吹が色恋のゴタゴタに巻き込まれてるらしい。
最初は噛み付くような勢いで怒鳴っていたくせに、言葉をつまらせた途端、露骨に不安そうな顔をする。
その表情がくしゃりと、まるで音を立てるように歪んだ。
「どーしよぅ……」
どうしてこう、女は簡単に泣けるのか。
それも、次から次へと涙をこぼす。
マジで、超ウゼェ。
もっと早いうちに、一緒になって記憶飛ばすほど飲めばよかった。
こういう時に置いてかれるほど、虚しいものはない。
「つーか、んなことありえねぇって、しおりが一番良く知ってんだろ」
「だって」
「大丈夫だよ」
「ホントに?」
ついさっきまでつり上がっていた瞳が、今度は真ん丸く潤んで俺を見上げる。
そんな顔、すんなよ。
もう、自分の感情も、目の前にいるしおりも、どーしたらいいのかわかんねぇ。
※お酒はハタチを過ぎてから! 未成年の飲酒は禁止されています。