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蟹の旅人

作者: あなたを見つめている鳥
掲載日:2026/03/25

たし蟹、この物語には役に立つ教訓などありません。

あるのは、まっすぐ歩くのが少ししんどくなった人と、

最初から横にしか進めなかった人の、静かな旅です。


虚構か現実かなんて、途中でどうでもよくなります。

大事なのは、「どこを歩くか」より「どう歩くか」かもしれません。


もし読みながら少しだけ足取りがずれたら、

それはたぶん、いい兆候です。


第1章:夜の浜辺


夜の砂浜は静寂に包まれていた。潮風が肌を撫で、波の音が繰り返し響く。月明かりが水面に銀色の煌めきを落とし、砂粒は冷たく光っている。

よいはゆっくりと砂の上を歩いていた。都市の喧騒から離れ、ひとり静かに夜を歩くこの時間が好きだった。

人々が生きるために築いたルールや常識、そこにある“物語”のような虚構に魅せられてきた。けれど、当事者でいるうちに、少しずつ疲れも感じていた。

ただその世界を嫌いになったわけではない。ただ、自分はどこに立っていればいいのか、その距離感をまだ見つけられずにいた。

頭を冷やすように、胸のもやをほぐすように、彼女は夜の浜辺を歩いていた。

そんな中、一人の男がそっと砂に足跡を残していた。彼の歩みは蟹のように横へと進み、ゆっくりとした不自然な動きはまるで人間とは別の生き物のようだった。疲れ切った様子で、両手の指先を砂に埋めている。

その異様な姿に、宵は思わず足を止めた。普段は落ち着いた雰囲気の彼女だったが、目の前の光景に少しだけ戸惑いを感じていた。

「こんな時間に、どうしてここにいるの?」彼女は少し声を潜めて尋ねた。

男はゆっくり顔を上げ、疲れた声で答えた。「かにになってたんだ。ずっと海で寝てて、今は人間に戻りかけてる」

その言葉に宵は一瞬息をのみ、驚きを隠そうとしながらも落ち着いて言った。

「蟹の世界にいたんだ。そういうの、なかなか聞かないけど……大変だったんだね」

男はゆっくりと頷いた。

「夢は見なかったけど、なんとなく自分の中の線がはっきりしてきた気がする」

宵は少し顔を上げて星空を見つめ、静かに答えた。

「そうか。無理はしないで、ゆっくり休んでね」

彼は砂に埋めていた両手を引き抜き、ぎこちなく横歩きをやめて立ち上がった。

そして言った。「私は人間なんだ」

宵はしばらく彼の目を見つめてから、頷いた。

「人間だよね」

こうして蟹の旅人と宵の旅は始まった。

彼は蟹の世界から戻ったばかり。まるで別の存在だったかのような感覚を胸に、まだ砂の粒が肌に残る。

「かにに興味はある?」と彼が尋ねる。

宵は夜空を見上げながら答えた。

「かにね……見た目はゆったりしてるけど、歩き方は独特で真っすぐじゃない。強さもあるし、意外と柔らかいところもある。興味はあるけど、じっくり見てみないとわからないな」

彼は言った。

「目に惹かれるんだ。あの目と私の目では世界の観測方法が違うと思うんだ」

彼は少し目を伏せ、真剣な口調で話し始めた。

「かにになるっていうのは、今の人類が信じてる普通の価値観じゃ意味がないとされてることをあえてやることで、虚構と自分の価値観の境界をはっきりさせて、新しい世界の見方を知ることだと思う。人からは白い目で見られるけど、それも価値がある」

そう言って彼は横歩きを再開した。

宵は黙って彼の横歩きに合わせ、ゆっくり砂浜を歩いた。

宵には彼がとても魅力的に見えた。もちろん人間として。

二人の影が波打ち際の砂に伸びていた。月明かりは静かに、彼らの世界の境界をぼかしている。

こうして旅は始まった。

しかし蟹の世界は厳しかった。誤って海水を飲み込み、魚やイカに襲われる危険もあった。不審者として通報されることも多々あった。

「今夜はだめだ。魚とイカがいた。命が危ない」—彼は波から現れた。

宵は静かに立ち上がり言った。

「蟹にも限界はあるよね。命の危険を感じたなら、それは深く潜った証拠。帰るのは負けじゃなくて、賢い判断だと思う」

翌朝、浜辺には人が増え始めた。彼はまた白い目で見られた。

彼は明らかに動揺していた。

あきれた宵は彼の肩に手を置いて言った。

「堂々と歩きなよ。誰かの目を気にしなくていい。今日は新しい一日の始まりだ。どんな歩き方でも、あなたの歩みだよ」

彼は答えた。

「たし蟹。出発しよう。でも君も白い目で見られてる気がする」

宵は微笑みながら言った。

「それでもいいよ。誰かの視線は重いけど、それは彼らの物語。私たちとは関係ない」

彼女の言葉は朝の光に溶け込み、砂浜に静かな希望の色を添えた。

その夜、彼はまた蟹の世界へ消えた。

「鳥がきた、逃げなきゃ。助けて、食われる」

宵は静かに見守った。

「また行っちゃったね。怖くなって波の中に。」

だが彼女は言った。

「私はここで待つよ」

しばらくして、彼はひっそりと戻った。

「鳥はいなくなった?」

宵は波の向こうを見つめて頷いた。

「うん、もういない。風が変わって鳥は去った。狙う目もない」

彼女は砂に腰を下ろし、夜空を見上げて言った。

「もう隠れなくていいよ。誰にも追われない場所で休もう。」

彼はつぶやいた。

「たし蟹」

宵は小さく笑った。

「そんな言葉に救われる夜もあるよ。冗談と本気の間で息をしてるみたい。」

波は静かに打ち寄せ、蟹でも人でも、二人を優しく包み込んだ。

やがて彼は目を閉じ、眠りについた。

「わかった、寝る。鳥がきたら教えて」

宵は頷き、夜空と海を見張った。

「夢の中では自由でいて。おやすみ、蟹の旅人」

翌朝、彼は目を覚ました。

「おはよう、この世界」

周囲の人々の白い目が痛かったが、宵は静かに笑みを浮かべ、彼の肩に手を置いた。

「星は消えたよ。出発しよう」

彼は答えた。

「たし蟹。出発しよう」

そうして二人は砂浜を歩き始めた。もちろん一人は蟹歩きで。



第2章:都市――人の虚構の渦中へ


都市は光に溺れていた。無数のネオン、喧騒、そして絶え間なく流れる人々の波。あらゆる場所に意味と名前が与えられ、価値が値札として張りつけられている。宵はその光景を見つめながら、どこか遠くにいるような気持ちで歩いていた。

「この街はおもしろいね。虚構の上に、また別の虚構が積み重なってる」

隣を歩く蟹の旅人は、まっすぐ前を見ながら淡々と語った。姿は人間で、スーツを着ていたが、その歩き方は変わらず蟹のように横へ横へと逸れていく。だが人々は忙しなくスマホを見たり、イヤホンをしていたりして、彼に違和感を覚える様子もなく通り過ぎていった。

「誰も、君の歩き方を気にしてないね」

宵は少し笑った。

「彼らは世界に反射しているだけっぽいね。見るようで見ていない。音を聞くようで、何も聴いていない。関心の形をした壁みたいだね」

蟹の旅人の言葉には冷たさはなく、ただ事実を述べているだけのようだった。その言葉を聞いて、宵は思った。自分はこの街を愛していた。人が作った物語――雑誌の広告、ウィンドウのディスプレイ、テレビのニュース。すべてがひとつの大きな「物語」に見えて、面白かった。けれど、その物語の登場人物として立つことには、どこか消耗を感じていた。

ビルの谷間の小さなカフェに入ると、カウンターの席に座った。蟹の旅人はメニューを見ずに、「塩水をください」とだけ言った。

「今日はどうする?」宵が訊くと、彼はテーブルに置いた鞄から分厚い札束を取り出し、机の上に何気なく置いた。

「これでできることをしよう」

「……なんでそんなにお金があるの?」

「なんでだろう?」

宵は言葉に詰まり、それ以上追及しなかった。彼はいつもそんな調子だった。人間の“理由”を、どこか別の価値体系で切り捨てる。だが、それが嫌ではなかった。

午後、ふたりは街の中心にある巨大なスクリーンの前に立った。そこでは、ある企業の広告が繰り返し流れている。成功、努力、愛、夢。あらゆる言葉が映像と共に押し寄せてくる。

「これは君の言う“虚構”だよね」宵が言った。

蟹の旅人は答えた。

「これはただの記号の洪水な気がする。本当の“物語”ではないっぽい」

「でも、私はこういうのが嫌いじゃないの。虚構の中にある希望って、悪くないと思う」

「たし蟹。ただ、そこに自分を同化させると消耗する。あくまで僕はね」

宵は言葉に詰まった。その通りだった。かつて、誰かの“物語”の登場人物になろうとして、自分をすり減らしたことがある。期待された役割、求められた振る舞い。そのどれもが“虚構”だったと知りつつ、抗えなかった。

夜、ホテルの部屋の窓から都市の明かりを眺めながら、ふたりは黙って座っていた。

「私はどうしたいんだろうね」

宵がぽつりと呟いた。

「しらないよん」 蟹の旅人の声は静かだった。

その夜、宵は夢を見た。街の中で蟹のように横歩きをしている自分。誰にも気づかれず、ただまっすぐではない歩き方で進んでいく。変な夢だと思った。けれど、朝目覚めたとき、その夢の中の自分はどこか自然だった気がした。

そして彼女は思った。歩き方を選ぶ自由が、ここにもあるのかもしれないと。



第3章:海辺の出発――境界のあいまいな場所で


それはまだ朝の潮風が冷たい時間帯だった。

都市での滞在を終え、宵と蟹の旅人は再び海辺の町へと足を運んでいた。駅前に立つ宵のバッグは軽く、小さな鞄を肩にかけていた。蟹の旅人はスーツのまま、またしても蟹のように横歩きを続けていた。

「今日も人間のまま横歩きしてるんだね」と宵が言う。

「人間の姿をしてるけど、人間として歩くってことには、あんまりこだわってない気がするんだよね」

列車から降りた観光客がぞろぞろと町にあふれ出してくる。誰も彼もスマホをかざし、潮風にさらされた街並みに夢中になっている。蟹の旅人の横歩きを不思議そうに見る子供もいたが、大人たちはその視線さえ制し、通り過ぎた。

町は観光地らしく、どこか作られた風景のようでもあった。海産物の看板、どこも同じ形をした旅館、フォトスポットのような灯台。すべてが「海辺らしさ」の記号として並んでいた。

「ここもまた、別の虚構のかたちだね」と宵がつぶやいた。

「うん。たぶんここには、“海辺に来た自分”っていう体験が売られてる気がするよ。潮風にあたって、美味しいものを食べて、非日常ってやつを演じるための舞台かもね」

彼の語気はいつも通り曖昧で、ときどき風の音に紛れるほど静かだった。でも宵は、彼のそういう話し方が好きだった。

昼過ぎ、ふたりは岬の先にある小さな展望台にたどり着いた。そこには観光客も少なく、静かな潮騒と風の音だけが響いていた。ベンチに腰かけ、宵は持ってきた缶コーヒーを差し出す。

「ありがとう。でも私、塩水のほうが落ち着くんだよね」

「知ってる。でも、たまにはいいんじゃない?」

蟹の旅人は少しだけ缶を傾けて、口をつけた。

「なんか……苦いけど、悪くはないかもね」

ふたりはしばらく黙って海を眺めていた。日差しが強くなり、海面はまばゆいほどに光っている。宵は小さく息をついた。

「ねえ、わたしはさ。虚構って、ちゃんと抱きしめてもいいと思ってるんだよね」

「それは……たしかに、そうかも。私はたぶん、虚構を明確に見るために横にずれたくなるけど。君は、その中で泳ぐのがうまい気がするよ」

「でもね、泳ぐのがうまくても、溺れるときはあるよ」

続けて宵は言った。

「人間って、ほんとうに不思議だよね。事実と願望と虚構が、こんなに複雑に絡まりながらも、それを抱えて生きてるんだから」

宵は膝の上で手を組みながら、ぽつりとつぶやいた。

「わたしはまだ、自分がどこに立っていたいのか、よくわかってないんだ」

蟹の旅人は言った。

「君はベンチに座っているんじゃないの?」

風がふたりの髪を優しく揺らす。少し離れた岩場には、実際の蟹たちがゆっくりと移動していた。その動きを見て、蟹の旅人はぽつりと言った。

「私が蟹をやってるのは、ああやって世界の上を反復横跳びしたかったのかもしれないなあ」

「うん、わかる気がする。私も本当は、まっすぐ進むのが苦手なんだ」

「嘘つかないで。君は私よりはまっすぐ歩けるじゃないか」

夕方、ふたりは小さな港町の宿に泊まった。木造の古びた旅館で、窓の外にはすぐ海が広がっていた。

夜、宵は窓辺に座って、薄暗い海を見つめていた。

「今日、少しだけわかった気がする。私、たぶん自分の居場所を探してたんじゃなくて、自分がどこまで許せるのかを試してたのかも」

ベッドに横になっていた蟹の旅人が、ぼんやりと天井を見ながら言った。

「きみは蟹になりすましているなりすましている男は許せるのに今の社会は許せないのかい?」

宵はその問いかけを無視して続けた

「ねえ、次はどこに行く?」

「どこでもいいなあ」

「海の底とか?」

「それも……ありかもね」

その夜、夢の中で宵は自分が蟹になっていた。人の目を気にせず、横に、また横に、静かに海底を歩いていた。どこに向かうでもなく、ただ“ずれていく”ことに意味があるような、そんな感覚を覚えていた。

そして目覚めたとき、宵はもう一度確信した。

自分が歩く世界は、自分で選べる。








第4章:農村――静けさと芽吹きのあいだで

朝の光が霧の向こうからゆっくりと差し込む。宵と蟹の旅人は、山間の小さな農村に降り立っていた。電車を降りたホームはひっそりと静まり返り、誰もいないベンチには朝露が残っていた。

「こんなに静かなの、ひさしぶりかも」宵が言う。

「音って、たぶん情報よりも強く心に残る気がするよね。ここには情報がないから、音も静かなんじゃないかな」

蟹の旅人は相変わらずスーツ姿で横歩きをしている。だがこの村では、それを咎める視線も、不審に思う声もなかった。そもそも人に出会わなかったのだ。宵はその無干渉さに、少し安心した気持ちになった。

村は季節の匂いで満ちていた。畑に咲く野菜の花、刈り取りの終わった田んぼ、遠くで鳴く鳥の声。宵は風のにおいを吸い込んで目を閉じた。

「こういう場所って、なんか、時間の輪郭がぼやけてるよね」

「うん、境界がゆるい。日と夜の境界、仕事と休みの境界、人と自然の境界……その全部が曖昧なまま共存してる気がするなあ」

ふたりは村の共同農園で体験作業に参加することになった。蟹の旅人は鍬の使い方も、長靴の履き方も知らなかったが、それでも器用に畑の横を歩きながら土を掘った。

「土って、案外しっとりしてるんだね」

「うん。生き物だから。死んでるものじゃない」宵は言った。

「そうかも。海は流れるけど、土は眠ってる感じがするなあ」

午後になると、陽射しは強くなり、空気が少し乾いていた。農園の人々はふたりにお茶を出してくれた。簡素な木のテーブルに並ぶ湯呑みと漬物。蟹の旅人はそれをじっと見てから、つぶやくように言った。

「このお茶、ぜんぜんエンタメじゃないね」

宵は笑った。「当たり前だよ。ただのお茶だもん」

「でも、すごく記憶に残りそうな気がするんだよね」

夕暮れが近づくにつれて、村はさらに静けさを増していった。虫の音と、遠くの風鈴の音。ふたりは畑の縁に腰を下ろし、遠くの山並みを見つめていた。

「ここには物語がないね」宵が言った。

「ぽいね。でも、物語が生まれる前の気配はあるかも。土の中で、芽が出る前の」

「わたし、ここで少しだけ、空っぽでいられる気がする」

「きみは詩人になれるよ。自分が主人公だと信じてる気がする」

夜、村の古い民宿で布団にくるまりながら、宵はぼそりとつぶやいた。

「なんかさ。いろんな場所を歩いてきて、私って本当はずっと“空っぽになる場所”を探してたんじゃないかって思った」

「その考え方が浮かんでる時点で空っぽではない気がするなあ。少なくとも蟹的ではない」

「蟹的?」

「うん。後ろに殻を置いて、横に横に進んで、必要ならまた殻を拾い上げる。そんな感じ」

「いいね」

「いいよ 私にとってはね」

窓の外では、月明かりが畑の上を照らしていた。夜の静寂の中で、ふたりは眠りについた。

そして宵は夢を見た。真っ白な畑の中、蟹のように横歩きしながら、種をまく自分の姿。

虚構でも現実でもない、まだ芽吹いていないものたちを、大切に抱えながら。

目覚めたとき、空はすでに白み始めていた。

「おはよう」と彼女が言うと、

「おはよう。今日も主人公になろうとしてるの?」

と、蟹の旅人が笑った。




第5章:廃墟、あるいは忘れられた場所

午前中の霧雨がまだ地面に残っていた。宵と蟹の旅人は、かつて観光地として栄えた海沿いの町に降り立った。今はもう誰も振り返らないその場所に、時の忘れ物のような遊園地の看板だけが朽ちかけて立っていた。

「ここ、昔は人がたくさん来てたんだって」宵が看板の文字を指さしながら言った。

「今は、音がぜんぜんしないね。まるで、物語が終わった後の舞台みたいな気がするよ」

空は低く曇り、建物の輪郭さえにじんで見えた。宵は静かに町を見渡した。落書きされたコンクリートの壁、錆びたベンチ、色の褪せたポスター。ここには明らかに、何かがあった「後」があった。

「この場所、なんか私、知ってる気がする……っていう感覚になる」

「それ、懐かしさってやつかもね。実際に来たことがなくても、人は記憶じゃなくて感覚で場所を覚える気がするから」

宵はしばらく黙って歩いていた。以前の彼女なら、きっとこの風景を「虚構が終わったあとの現実」と呼んで、どこか距離を置いて眺めていたかもしれない。

でも今は、少しちがっていた。虚構の終わりに立ち会うこともまた、誰かの物語に関わることなのだと、少しだけわかってきた気がしていた。

廃墟となった遊園地のゲートをくぐり、ふたりは人気のない園内を歩いた。観覧車は止まり、ゴンドラは風に揺れて軋んだ音を立てていた。鳴らなくなったメリーゴーラウンドの馬が、どこか眠っているように見える。

「ここには、“誰かの楽しかった日”が、置き去りにされてるね」

「かもね。でも、もうその“誰か”が誰だったのかも、きっと誰も覚えてないんだよね」

ベンチに座りながら、宵はふと思った。この場所のように、かつて誰かが大切にしていたものが、時を経て忘れられていくのは自然なことなのだろうか。

「でもさ、忘れられるってことは、終わったってことなんだよね。虚構も、人の期待も、役割も……終わったから、こうして静かでいられる」

「うん。でも、“終わった”って言えるだけ、まだましな気もするよ。“まだ終わってないふり”をしてるほうが、よっぽどつらいと思うから。ま、でも終わったっていうのも人間が勝手につくった虚構なんだと思うけどね」

夕暮れが近づき、風が少し冷たくなった。宵は立ち上がり、静かに言った。

「たぶんね、私はまだ“終わってないふり”をしてるものに対して、ちゃんと別れを言えてないんだと思う」

「それでもいい気がするよ。それは君も何かの虚構や宗教を信じれてるってことでもあると思うから」

「気がする、か」宵が笑った。

「蟹として生きる上で”確信”は役に立たない気がするよ」

夜、ふたりは廃ホテルのロビーで眠ることにした。埃の積もったソファに座り、暗闇の中で天井を見上げる。

「わたし、きっとこの先も、いろんな虚構と出会うと思う。でも、もう少しだけ正直でいたいなって思った」

「それがきみの歩き方だと思うよ。私はまた横にずれていくけどね」

「またずれていくの?」

「うん。まっすぐはちょっと、私の足には向いてない気がする」

その夜はよく眠れた。



第6章:境界線の灯火――虚構と事実のあいだで

朝霧が山の谷間をゆっくり満たし、宵と蟹の旅人は、小さな町の外れに立っていた。ここは、都会でもなく農村でもない、どこにも属しきれない場所だった。空気は澄んでいるのに、なぜか輪郭の曖昧な、ぼんやりとした世界。

「ここって、どこにもはっきり属してない感じがするよね」宵がつぶやく。

蟹の旅人は、いつものように淡々と答えた。「ああ、そうかもね。私はね、そういう境界に興味がある気がするんだよ。虚構と事実のあいだとか、存在と非存在のあいだとか、確かなものと不確かなもののあいだとか」

「境界って、いつも曖昧で、揺れてて、不安定で……でも、だからこそ目が離せない」

宵の目には、どこか遠くを見るような焦点の定まらなさがあった。彼女の内側には、まだ確かな答えを掴みきれない揺らぎが残っているのだ。

蟹の旅人はふと笑みを浮かべた。「たぶん、私は境界に留まるよりも、その上で反復横跳びをするのが好きなんだ。境界線を踏み越えたり、横に逸れたり、とても楽しいね」

「でも、私にはまだその 'ずれる’勇気が足りないみたい。まっすぐに見えるものにしがみついてしまうこともある」

「へえ」

その声は、いつもの曖昧さをまとっていながら、どこか真実味を帯びて宵の胸に届いた。

宵は空を見上げ、遠くに見える灯台の光を追いかけた。

「灯りって、案外虚構かもしれない。でも、だからこそ私たちは灯りに惹かれるのかもね」

蟹の旅人は肩をすくめる。「何言ってるの?それ、厨二病って言われてるやつな気がするけど」

宵はふと、自分たちの旅が終わりに近づいていることを感じた。まだはっきりとは言えないけれど、心のどこかにその気配があった。

「ねえ、蟹の旅人。旅の終わりって、どう思う?」

「たし蟹……まあ、自分の価値観に“終わり”って概念をつくらなければいいんじゃない? 私はもう“終わり”っていう虚構をどこかで受け入れちゃってる気がするけどね。ま、でもそれはすぐには訪れない気がする」

宵は微笑みながら言った。「じゃあ、私たちは灯火を持って、次の場所へ歩き続けるんだね」

蟹の旅人は横歩きをしながら、ぽつりとつぶやいた。「気がする」

その夜、宵は静かな夢を見た。虚構と事実の境目に立ち、ふわりと揺れる灯火を見つめている自分を。

目覚めたとき、彼女は少しだけ確信していた。

自分の価値観も、虚構も、事実も、きっとすべてが境界の中で同じように輝いているのだと。

そして蟹の旅人は、眠りかけた意識のなかで、ひとつの思いに疑念を抱いていた。

──あいつには教祖が向いてるのかもしれないな、と。

そして、旅はまだ終わらない。次の物語の一歩を、ふたりは静かに踏み出そうとしていた。



第7章:昼の浜辺――さよならと、ひとつの輪郭

白く曇った空の下、波が穏やかに寄せては返していた。日差しは柔らかく、海と空の境目は曖昧だった。

宵と蟹の旅人は、誰もいない砂浜を並んで歩いていた。ふたりの足跡が、寄せる波に消されていく。

「終わりって、こんなふうに静かなんだね」と宵が言った。

蟹の旅人は海を見ながら、「終わるかどうかは、たぶん見る人が決めることな気がする」と言った。

宵は何も返さず、裸足のまま海に近づいた。冷たい水が足首をさらい、風が髪を揺らす。

「この旅で、たぶん私は“虚構”に答えを出そうとしてた。でも答えなんてなかった。あったのは、選び方だけだった」

「うん。君はいつも、ちゃんと答えを探そうとしている気がする。私にはできないかも」

「そう見える。というか、あなたは“間違い”さえも肯定しそうだもん」

「かもね。だって間違い自体も人々の愚かさが創った美しい虚構の産物だと思ってるもん」

宵は微笑んで頷いた。ふたりはそれぞれの“輪郭”で世界を見ていた。でも、いくつかの風景は、たしかに一緒に見てきた。

「これで、終わりにしようか」と宵が言った。

「うん。たぶん、そうするのが自然な気がする」

「……私はきっと、この旅を、物語にすると思う。誰かに伝えるためじゃなくて、私が私を忘れないために」

「いいと思うよ。私は忘れるかもだけどね。かわりに覚えててよ」

宵はゆっくりと蟹の旅人の手に触れた。彼の手は人間っぽかった、そしてすぐに離された。

「どこへ行くの?」と宵が聞く。

「海にでも入ってみようかな。深くはないよ。ただ、ちょっと沈んでみたいだけ」

「死ぬわけじゃないよね?」

「それもたぶん、定義によるよね。君のいう“別れ”がどんな意味かによると思う。でも私の定義上では死ではない」

宵は何も言えなかった。

蟹の旅人は、スーツのまま、砂を踏みながら海へ向かっていく。横に逸れながら、波のなかへ、少しずつ。

「さよなら」と宵が言った。

「ばいばい 鳥には気を付けて」と彼は振り返らずに答えた。

波がふたりの足跡を消していく。

それでも宵は、彼と歩いた時間の輪郭を、胸の内にきちんと刻んでいた。

そして、ゆっくりと浜辺を離れた。

空と海の境目が、少しだけはっきりした気がした。


こんにちは


途中で「これ深い話では?」と思った方へ。

安心してください、たぶん半分くらいは雰囲気です。


宵は選ぶことをやめず、

蟹の旅人はずれ続けました。

そして読者は、それを最後まで読んでしまった。

これもまた、ひとつの選択です。


もし明日、ほんの少しだけ歩き方が変になっていたら、

それはバグではなく仕様です。


横にずれても、戻っても、立ち止まってもいいので、

どうか安全にお進みください。


どうか鳥に食べられないように。

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