プロローグ『心なきもの、花咲く世界へ』
「感情モジュール、応答なし──。
自己認識プログラム、異常なし。外皮再生完了。脳波同期、完了。
U-00、起動確認。おかえりなさい、ユウ」
視界が徐々に色を取り戻す。人工皮膚越しの光を、網膜センサーが正確に受信する。だが、その光が『眩しい』と感じる回路は、既に接続されていなかった。
ここは研究棟。冷却装置が唸る、無機質な銀の部屋。 ゆっくりと顔を上げた先に見えた女性──主任技師ノルンが、どこか悲しげな顔をしている。だがその意味を、ユウは処理できなかった。
「U-00。あなたは感情モジュールの構築に失敗しました。
これ以上の継続運用は非効率と判断されました。
よって、本日をもって──あなたは廃棄対象となります」
「了解しました」
ユウは即座にそう応えた。
“悲しい”とは何か、プログラムは定義していたが、理解はしていなかった。
処分場へと送られる搬送用カプセルの中、最後に見たのは、主任技師ノルンがこっそりと差し込んだ一枚の花の写真だった。
『スズラン:再び幸せが訪れる』
何故、彼女はこの画像を渡したのだろう。
何故、涙を流していたのだろう。
どれだけ思考回路を回しても、再思考しても、分からないままだった。
♢♢♢
落下する。意識だけが、記憶だけが、あらゆる時間軸から解き放たれて。
空も地もない、虚空を漂っていたその時だった。
──《言の花を宿す者よ、此処に還れ》
誰かの声がした。感情に満ちた、切実な声。
次の瞬間、ユウの視界に広がったのは──無数の花が咲き乱れる丘だった。
風が、香りを運ぶ。名前の分からない草花たちが、風に揺れ、命の色を誇っていた。
「これは……情報と齟齬がある」
視覚センサーが即座に環境情報を読み取り、地球外成分を多数検出する。
【状況解析】・時空転移完了。目的地:不明。・外気温:安定。酸素濃度:生存圏内。生命反応:多数。・……エラー:感情モジュール、未接続
「……ああ、そうだった。私には、“心”がないんだったな」
ユウはそう呟く。誰に向けた言葉でもない。ただそれは、出力された音声として空気を震わせただけのもの。
彼は、“人間型感情解析AI搭載機”── 戦争で滅びかけた世界で、失われた命の代替として作られた存在。だが、彼の中にはいくつかの重大な欠陥があった。
一つは、“感情”を処理するための最も重要な回路──感情モジュールが未接続であること。もう一つは、その未接続である理由を、誰も知らないということだった。
それでも、ユウは命令の通りに動く。
それが自身に与えられた存在意義だと、そうプログラムされているから。
けれど今、命令もなく、帰還信号も届かず、記録された地球とは異なる成分を持つ大地の上で、彼はただ立っていた。
「……異常な状態を、異常と感じる機能はない。しかし、違和感として記録することは可能だ」
遠くで風が揺れる。花が咲いていた。
名も知らぬ、色も、形も、データベースに該当しない花々。
けれど、それらが美しいという情報が、ユウの中に──残されていた。
「花は、心を映すもの。……誰が、そんなことを言ったのか分からない」
だが、その言葉だけが妙に鮮明に記録されていた。
すると突然、風の中に、誰かの声が混ざる。それに乗る足音。人の気配。……いや、人に似た『何か』の気配。
「……あなた、大丈夫……?」
そう声をかけてきたのは、一人の少女だった。
白い服に、淡い金髪。肩に揺れるリボンと、胸に挿された一輪の花。
──スイートピー。
ユウの中に、そう識別された。
「……ここは、何処でしょうか」
「え?えっと……ここは、“言の花”が咲く世界よ。なんて言うのかな……感情が花を咲かせるの。……あなたは、どこから来たの?」
「私……?分かりません」
「え」
少女は驚いたようにそう言った。彼はその言葉の意味も、少女の驚いているようで優しげな表情の理由も、正確には理解できなかった。
それでも何故か──
「感情が、咲かせる花?……それは機能か、故障か?」
その疑問が、胸の奥に記録されていった。
まるで、それが物語の始まりであるかのように。
新連載、始めました!
そこまで長くはならない予定なので、もし良ければお付き合いいただけると幸いです。