7.
季節が少しだけ、進んでいた。
朝晩の空気が冷たくなり始めた頃、香織の様子はすっかり落ち着いたように見えた。
夜中に目を覚ますこともなくなり、水を怖がる様子も消えた。
鏡の前で身支度を整える姿には、もう以前の怯えはない。代わりに、どこか大人びた静けさと、年齢にそぐわぬ余裕が宿っていた。
母はふと気づく。玄関やダイニングの隅に、さりげなく活けられた花――素人のはずなのに、どれも妙に調和が取れていて目を引いた。
「これ……香織が?」
尋ねても、香織は小さく笑って、何も答えなかった。
図書館で分厚い本を何冊も借りてくるようになり、読書ノートまでつけ始めた。字も綺麗で、まとめ方も几帳面だった。
「色々やってみたいの。これから、ちゃんと自分で選んでいきたいから」
そう口にする香織に、両親は「前向きな変化」として安心した。むしろ、以前より表情も言葉も豊かになったように見える――それがどこか、親にとっては救いでもあった。
ただ、美羽とは、自然と疎遠になった。
最初は何度か連絡を取り合っていたが、ある時期を境に、香織の方から返信が途切れるようになった。
代わりに、新しい友人と仲良くする姿が見られた。まるで、すべてを塗り替えるように。
その日、写り水池のある神社へ立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。
「もう平気か?」
父の問いかけに、香織は静かに頷いた。
鳥居をくぐり、境内を歩く。池には近づかず、木々の隙間から水面を見下ろす。
陽が傾きかけた空を、池が裏返しに映していた。
風もないのに、水面は揺れていた。まるで、何かが――下から、こちらを見ているかのように。
香織は、微笑みを浮かべて呟く。
「……ありがとう。大事に使わせてもらうね」
その声に応えるように、水底が、ぞぶり、と揺れた。
揺れの中に、輪郭が浮かび上がる。
――水の裏側。逆さに沈んだ世界。
そこにいたのは、一人の少女。
歪んだ口元。どこを見ているのかわからぬ目。
何かを失い、何も持たぬ者の――深い絶望の顔。
ただ、ただ、それでも手を伸ばしている。
だが、その腕は届かない。
香織は、それをじっと見つめた。
その目に、同情はなかった。哀れみもなかった。
ただ、確信だけがあった。
「――もう、私のものだから」
その時、水の奥でそれは泡立った。もがくように、水底で身をくねらせる影。
泡の向こうで、言葉にならない声を残しながら、沈んでいく。
そして、水面が再び閉じる。
静かに、完璧に。
まるで、最初から何もなかったように――
振り返らずに歩き出す香織の背を、夕陽が真っ直ぐ照らしていた。
まるで、その歩みに何の曇りもないとでも言うように。
池の奥。誰も見ていない水底に、誰も知らない虚ろな顔が、ただひとつ――じっと“写って”いた。
――水に写り
写り移りて
身を移す