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写り水  作者: まめ。
6/7

6.





 朝、目が覚めた瞬間、思った。


 ――なんか、楽になってる。


 喉の奥の乾きも、胸のあたりのじくじくした痛みも、ほとんど感じなかった。

 体の中に混ざり合っていたような、あの気持ち悪さも、今はほとんど残っていない。


 眠りが浅かったのに、起きた時の体は妙に軽くて、ふと鏡を見ても、昨日みたいに心がざわついたりはしなかった。


 ……あの神主さんの言ってた「結界」のおかげだろうか。


 母が家中の鏡に小さなお守りを貼っていた。玄関には塩と酒、神棚の前には榊と白い紙垂。

 台所の隅にも、小さな紙札がそっと置かれていて、父が「毎日新しくするらしい」と言っていた。


 正直、そういうのを信じるタイプじゃなかったけど――今は、素直にありがたいと思う。


 きっと、祓ってもらってよかったんだ。


 両親はそう話していたし、実際、家の中で変な気配を感じることもなくなった。

 あれ以来、洗面所の鏡にも、“誰かの横顔”は映らない。


 だけど――たまに、外から、誰かが“覗いているような”気配がすることがある。


 寝室の窓に、廊下のカーテンに、ガラス戸の向こうに、ふと視線の気配が漂う。


 でも、それも一瞬だ。すぐに消える。

 まるで、ここには“入れない”みたいに。


 ――まだ、完全に終わったわけじゃない。


 でも、少なくとも今は、私の中に“混ざってくるもの”は、もういなかった。


 


     ◆


 


 その晩、シャワーを浴びていた。


 髪を洗いながら、ふと、気配を感じて振り返る。

 だが、湯気の向こうには何もいない。浴室の戸も、ちゃんと閉まっている。


 大丈夫。もう、ここは“守られてる”。


 そう言い聞かせながら、シャンプーを流して顔を上げた――その時だった。


 ぱちゃ、と、水音がした。


 はっとして湯船を見る。

 蓋はしてある。……はずだった。けれど、その一枚が、少しだけずれていた。


 ――さっきまでは、ちゃんと閉めてあったはずなのに。


 不安が喉を這い上がる。手を伸ばして、蓋を戻そうとした瞬間――


 ――何かが、腕を掴んだ。


 冷たい水の中から伸びた手が、ぐい、と私の手首を引いた。


「――ッ!?」


 足を滑らせ、そのまま湯船の中に引きずり込まれる。


 湯の底に沈む。視界が泡に包まれ、天井がゆがんで見える。


 そして、目の前に“私”がいた。


 私と同じ顔。私と同じ髪。私と同じ目――だけど、違う。


 その目は、底の底から這い上がってきたような、濁った黒を宿していた。


 水の中で、私たちは叫ぶ。


 ――ここは、わたしの家。

 ――わたしの体。

 ――わたしの両親。

 ――あなたのものじゃない。


 どちらが先に言ったのか、もうわからない。

 私が喋れば、あいつも唇を動かす。

 あいつが睨めば、私も睨む。


 “わたし”が“わたし”を引きずって、

 “わたし”が“わたし”に抗っている。


 ――どっちが私?


 ――どっちも、私じゃない。


 どちらの記憶も、思い出も、声も、境界線のない水の中で混ざり合っていく。

まるで、全部がひとつの“香織”であると、無理やり納得させられそうになる。


(でも、それを許してしまったら――私じゃなくなる)


 名前を呼ばれるその瞬間を、誰かに奪われる。

 その恐怖が、肺の奥で泡のように膨れ上がっていった。

 


 ぐるぐると視界が渦を巻く。

 水の中で絡み合うように掴み合い、溶け合うように混ざり合いそうになる。


 でも――


 「香織!」


 ――その声が、私を呼んだ。


 遠くから、浴室の戸を叩く音とともに、父と母の声が届く。


 その瞬間、私は、はっきりと思い出した。


 私の名前を、呼んでもらえるのは――私だけだ。


 


 私は、水の中で叫んだ。


「これは――わたしの体。……わたしの家。……わたしの、両親」


 喉が焼けるように痛かった。

 でも、それでも声は、確かに届いた。


「お前の居場所は、ここにはない」


 その言葉に、“もう一人の私”の目が、ふるふると揺れた。


 ――私は、あなたじゃない。


 次の瞬間、水の中で、ぱきん、と何かが割れた。


 それはまるで、鏡のようだった。


 水が、音もなく弾け、空気が、浴室の中へ戻ってきた。


 


 「香織!」


 父の手が、浴槽の中に沈んだ私を引き上げる。

 私の身体はびしょ濡れで、息も絶え絶えだった。

 息を吸うたびに、まだどこかに水の匂いが残っていた。

ほんのわずか、肌の内側をなぞるように、“誰かの感触”が這っていた気がした。


でも――私は確かに、ここにいた。


 この手は、私のもの。

 この声は、私のもの。

 そして、名前を呼んでくれる人たちは、私の家族だ。


 だからもう、迷わない。


 私の体は、私のもの。

 たとえ名前も、顔も、記憶さえも似ていたとしても、

この声で話し、この目で見る日々は、私だけのものだ。

 

 ――もう、誰にも、渡さない。




     ◆




 ……わたし、だったもの。


 


 水の中は、静かだった。

 さっきまで、誰かとぶつかっていたはずの存在が、ふっと、輪郭を失う。


 


 遠のいていくのがわかる。

 

 願えば、きっと、手に入れられると思っていた。

 だって、わたしは――あの体にいた。

 あの目で見て、あの声で笑って、あの両親に、名を呼ばれていた。確かに。


 


 けれど、もう、届かない。

 どんなに手を伸ばしても、

 あの声は、もう二度と――わたしの名前を呼ばない。


 


 わたしの中に残っていた灯が、

 名前を呼ばれた“あの子”の声に、消された。


 


 どこで間違えた?

 いつから“わたし”じゃなくなった?

 なぜ、“わたし”の居場所は、なくなったの?


 


 ……わたし、だったもの。


 


 水の底に、もう一つの世界が沈んでいく。

 揺らめく鏡の向こう――そこに映る“世界”だけが、今のわたしのすべて。


 


 外には出られない。

 でも、ここには映る。

 ずっと、見ている。

 あの子が、わたしの代わりに歩く、その日々を。


 


 忘れない。

 わたしは、ここにいる。

 ずっと――“写って”いる。


 


 だから。


 きっとまた、その時がくる。


 この水面に、写り続けるかぎり。

 わたしは、まだ――終わっていない。


 ……また、あなたに会えるのを、楽しみにしている。

  


 

 

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