6.
朝、目が覚めた瞬間、思った。
――なんか、楽になってる。
喉の奥の乾きも、胸のあたりのじくじくした痛みも、ほとんど感じなかった。
体の中に混ざり合っていたような、あの気持ち悪さも、今はほとんど残っていない。
眠りが浅かったのに、起きた時の体は妙に軽くて、ふと鏡を見ても、昨日みたいに心がざわついたりはしなかった。
……あの神主さんの言ってた「結界」のおかげだろうか。
母が家中の鏡に小さなお守りを貼っていた。玄関には塩と酒、神棚の前には榊と白い紙垂。
台所の隅にも、小さな紙札がそっと置かれていて、父が「毎日新しくするらしい」と言っていた。
正直、そういうのを信じるタイプじゃなかったけど――今は、素直にありがたいと思う。
きっと、祓ってもらってよかったんだ。
両親はそう話していたし、実際、家の中で変な気配を感じることもなくなった。
あれ以来、洗面所の鏡にも、“誰かの横顔”は映らない。
だけど――たまに、外から、誰かが“覗いているような”気配がすることがある。
寝室の窓に、廊下のカーテンに、ガラス戸の向こうに、ふと視線の気配が漂う。
でも、それも一瞬だ。すぐに消える。
まるで、ここには“入れない”みたいに。
――まだ、完全に終わったわけじゃない。
でも、少なくとも今は、私の中に“混ざってくるもの”は、もういなかった。
◆
その晩、シャワーを浴びていた。
髪を洗いながら、ふと、気配を感じて振り返る。
だが、湯気の向こうには何もいない。浴室の戸も、ちゃんと閉まっている。
大丈夫。もう、ここは“守られてる”。
そう言い聞かせながら、シャンプーを流して顔を上げた――その時だった。
ぱちゃ、と、水音がした。
はっとして湯船を見る。
蓋はしてある。……はずだった。けれど、その一枚が、少しだけずれていた。
――さっきまでは、ちゃんと閉めてあったはずなのに。
不安が喉を這い上がる。手を伸ばして、蓋を戻そうとした瞬間――
――何かが、腕を掴んだ。
冷たい水の中から伸びた手が、ぐい、と私の手首を引いた。
「――ッ!?」
足を滑らせ、そのまま湯船の中に引きずり込まれる。
湯の底に沈む。視界が泡に包まれ、天井がゆがんで見える。
そして、目の前に“私”がいた。
私と同じ顔。私と同じ髪。私と同じ目――だけど、違う。
その目は、底の底から這い上がってきたような、濁った黒を宿していた。
水の中で、私たちは叫ぶ。
――ここは、わたしの家。
――わたしの体。
――わたしの両親。
――あなたのものじゃない。
どちらが先に言ったのか、もうわからない。
私が喋れば、あいつも唇を動かす。
あいつが睨めば、私も睨む。
“わたし”が“わたし”を引きずって、
“わたし”が“わたし”に抗っている。
――どっちが私?
――どっちも、私じゃない。
どちらの記憶も、思い出も、声も、境界線のない水の中で混ざり合っていく。
まるで、全部がひとつの“香織”であると、無理やり納得させられそうになる。
(でも、それを許してしまったら――私じゃなくなる)
名前を呼ばれるその瞬間を、誰かに奪われる。
その恐怖が、肺の奥で泡のように膨れ上がっていった。
ぐるぐると視界が渦を巻く。
水の中で絡み合うように掴み合い、溶け合うように混ざり合いそうになる。
でも――
「香織!」
――その声が、私を呼んだ。
遠くから、浴室の戸を叩く音とともに、父と母の声が届く。
その瞬間、私は、はっきりと思い出した。
私の名前を、呼んでもらえるのは――私だけだ。
私は、水の中で叫んだ。
「これは――わたしの体。……わたしの家。……わたしの、両親」
喉が焼けるように痛かった。
でも、それでも声は、確かに届いた。
「お前の居場所は、ここにはない」
その言葉に、“もう一人の私”の目が、ふるふると揺れた。
――私は、あなたじゃない。
次の瞬間、水の中で、ぱきん、と何かが割れた。
それはまるで、鏡のようだった。
水が、音もなく弾け、空気が、浴室の中へ戻ってきた。
「香織!」
父の手が、浴槽の中に沈んだ私を引き上げる。
私の身体はびしょ濡れで、息も絶え絶えだった。
息を吸うたびに、まだどこかに水の匂いが残っていた。
ほんのわずか、肌の内側をなぞるように、“誰かの感触”が這っていた気がした。
でも――私は確かに、ここにいた。
この手は、私のもの。
この声は、私のもの。
そして、名前を呼んでくれる人たちは、私の家族だ。
だからもう、迷わない。
私の体は、私のもの。
たとえ名前も、顔も、記憶さえも似ていたとしても、
この声で話し、この目で見る日々は、私だけのものだ。
――もう、誰にも、渡さない。
◆
……わたし、だったもの。
水の中は、静かだった。
さっきまで、誰かとぶつかっていたはずの存在が、ふっと、輪郭を失う。
遠のいていくのがわかる。
願えば、きっと、手に入れられると思っていた。
だって、わたしは――あの体にいた。
あの目で見て、あの声で笑って、あの両親に、名を呼ばれていた。確かに。
けれど、もう、届かない。
どんなに手を伸ばしても、
あの声は、もう二度と――わたしの名前を呼ばない。
わたしの中に残っていた灯が、
名前を呼ばれた“あの子”の声に、消された。
どこで間違えた?
いつから“わたし”じゃなくなった?
なぜ、“わたし”の居場所は、なくなったの?
……わたし、だったもの。
水の底に、もう一つの世界が沈んでいく。
揺らめく鏡の向こう――そこに映る“世界”だけが、今のわたしのすべて。
外には出られない。
でも、ここには映る。
ずっと、見ている。
あの子が、わたしの代わりに歩く、その日々を。
忘れない。
わたしは、ここにいる。
ずっと――“写って”いる。
だから。
きっとまた、その時がくる。
この水面に、写り続けるかぎり。
わたしは、まだ――終わっていない。
……また、あなたに会えるのを、楽しみにしている。