5.
翌朝、父は仕事を休んだ。
「……とにかく、一度話を聞いてもらうだけでも」
そう言って、近くの神社に電話をかけてくれた。池のあるあの神社――香織が落ちた、“写り水池”のある場所だった。
母は迷っていた。「そんなところにまた行くなんて……」と小さく唇を噛んでいたけれど、香織が静かに頷いたことで、何も言わなくなった。
午前十時、私たちは車で神社へ向かった。
鳥居をくぐると、境内は思っていた以上に静かだった。蝉の声さえ、どこか遠く感じる。
石畳の先にある拝殿の前で立ち止まると、あの日と同じ風が吹いた。ぬるいはずなのに、なぜか首筋に寒気が走った。
出てきたのは、年配の神主だった。白い装束に、神職らしい落ち着いた声。電話での相談を覚えていたらしく、すぐに拝殿の奥に案内された。
「……あの池に落ちてから、娘の様子がおかしくて。夢を見て、鏡を怖がって、水を……」
父の声は、慎重だった。嘲笑われたり、否定されることを警戒していたのかもしれない。
だが神主は遮らなかった。静かに頷き、時折「ふむ」とだけ声を漏らす。
「そういった“写り”の件、稀にご相談を受けることがあります」
「稀に……?」
「ええ、池や川、水辺は“写す”ものですから。時には、望まないものまで」
神主はそう言って、神棚の方へと視線を移した。
「こちらでは、“祓い”というより、“境を結ぶ”かたちになります。清めて、結界を張り、悪しきものを寄せ付けない――それが、神道でのやり方です。
仏様のご加護で退けるお寺の祈祷とは、少し方向が違います。
あくまで、神様のお力をお借りして、“近づけさせない”ようにするものなのです」
「それでも、構いません。娘が……」
母が言いかけたとき、香織がぽつりと声を出した。
「……わたしの体は、わたしのものです。――誰にも、渡さない」
その言葉に、神主の目が一瞬だけ細められた。
それは、“よく言った”とでも言うような、柔らかい眼差しだった。
「そう……それが、いちばん大事なことです。何よりも」
香織は静かに息を吐いた。
あの日から初めて、自分の意思で何かを口にしたような――そんな、確かな声音だった。
白い御幣がかすかに揺れた。神主の声が、拝殿に反響する。
厄祓いの形式で行われたその儀式は、静かで、けれど何かを遠ざけるような厳かな緊張を孕んでいた。
香織は神主の前に正座し、父と母は少し離れた位置で見守っている。
拝詞が終わり、神主がゆっくりと香織に向き直った。
「ここまで来られて、よく頑張りました。これからは、家でも“守り”が必要になります」
神主は静かに言葉を継ぐ。
「でも、一番大事なのは……“あなたがあなた自身でいる”という気持ちです。どうか忘れないでください」
香織は顔を上げる。神主はその目をまっすぐ見て、はっきりと言った。
「――この体は、あなたのものです。誰にも渡してはなりません。そう、強く、強く、思いなさい。思い続けなさい」
香織が、静かに頷こうとした――その時だった。
拝殿の奥で、気配に触れたように御簾がかすかに揺れた。
誰もが、そちらに目を向けた。
静かだった。
けれど一瞬、香織の足元の畳の上に、ぼたり、と水が落ちたような音が響く。
ひやりとした湿気が空気に混じる。
そこに、水滴などあるはずもない――はずなのに、畳にぽつりと湿った痕が浮かんでいた。
一滴。また一滴。
にじんだ水は、ゆっくりと、けれど確かな意思を持つかのように広がっていく。まるで“ここに留まろうとする何か”が、足元から這い上がろうとしているようだった。
「っ……!」
母が小さく息を呑み、父が身を乗り出しかけたその瞬間、神主が声を放った。
「――退きなさい」
その言葉と同時に、柏手が打たれる。
ぱん、と鋭い音が拝殿に響いた。
空気が、ぴしりと割れたような感覚。
畳ににじんだ水の痕は、その場に抗うようにわずかに震え――そして、じわじわと吸い込まれるように消えていった。
香織の身体が、びくりと震える。
それでも彼女は目を閉じて、震える唇をきつく結んだ。
「……わたしの体は、わたしのもの」
声は小さく、けれど確かだった。
「渡さない……絶対に」
再び、柏手が鳴った。今度は、何かを断ち切るような、清らかな響きだった。
儀式が終わり、香織はゆっくりと息を吐いた。
あたたかな手が背中に触れる。母の手だった。
目を細める神主の口元に、初めてほんの僅かな笑みが浮かぶ。
「――すぐにすべてが収まるとは限りませんが……」
神主は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……あなたを守るのは、あなたの意志です。どうか、それを手放さないでください」
香織は、静かに頷いた。
◆
帰り際、境内の端の石段に腰を下ろしていた小柄な老爺が、ふとこちらに目を向けて声をかけてきた。
「――あんた、もしかして……池に落ちた子か?」
思わず立ち止まる。母も不安そうに顔を向けた。
男は麦わら帽子のつばを指で押さえながら、静かに言葉を継いだ。
「やっぱりな。あん時、わしもおったんよ。無事で良かったなぁ」
声はどこか他人事めいて、淡々としていた。
「わしの親父が昔、言うとったわ。たまにおるんだと、引っ張られちまう人が。
親父の若い頃にも、あの池に落ちた子がおってな。
普通の娘さんだったそうやけど、しばらくしたら、まるで中身が入れ替わったみたいだったって。
口ぶりも、歩き方も、何もかも……妙に違って見えたんだと」
語り口は穏やかで、特に感情の起伏もない。
けれど、その言葉の端々が、どこかで聞いた“写り”の話と妙に重なっていく。
「水辺はな……いろんなもんが寄るから。気ぃつけなよ」
そうだけ言い残し、男はすっと立ち上がって石段を登っていった。
鳥居をくぐったあと、ふと気になって振り返る。
境内に目を向けたその先に――男の姿は、もう見当たらなかった。
ついさっきまでそこに腰かけていたはずなのに。
残っていたのは、石段のあたりにほんの少しだけ、空気の揺らぎが残っているような気配だけだった。
風が吹いただけかもしれない。でも、それがなぜか、妙に気にかかった。