4.
時計の音が、妙に耳に残る。
カチ、カチ、カチ、と――誰かが部屋の外で秒針を刻んでいるように、規則正しく、冷たく響いていた。
誰も、動けずにいた。
父はスマホを取り落とした姿勢のまま、じっと床を見つめていた。
母は私を抱きしめていたが、震えるその手には力が入っていなかった。
「……アイツが、近づいてくるの」
ぽつり、と呟いた瞬間、空気が少しざわめいた気がした。
母の指先がぴくりと動き、父の目が、わずかにこちらに向いた。
「アイツ……って、何?」
母が、かすれた声で訊いた。
私は目を伏せたまま、唇を動かす。
「わからない。でも……最初は夢だったの。水の中にいて、誰かが、私の足を掴もうとしてて……。
何度も、同じ夢を見た。どんどん、苦しくなってくる。……そして、最近は、夢じゃない気がしてきたの」
思い出すたび、体の奥が軋む。
あの感覚――皮膚の裏から染み込んでくるような、青くさくて、湿った何か。
「鏡を見ると、いるの。私じゃない“何か”が……。
最初は気のせいかと思った。でも、違うの。表情だったり、動きだったり。私に似てるのに、私じゃない……」
「香織、それ……」
「……最近は、目を合わせたら、“あっち”に引きずられそうになる」
母の手に力がこもる。
私は、そのぬくもりに縋るように続けた。
「――たぶん、アイツは、わたしの“中”に入ろうとしてる」
その言葉に、父と母が同時に息を呑むのがわかった。
「だから、わたし……鏡も、水も、怖い。
見てしまったら、“写ってしまったら”、入ってくる気がするの。
――私、わからなくなるの。自分なのに、自分じゃない気がして……曖昧になって、怖いの。」
喉の奥がひりつく。
言葉のひとつひとつが、どこかを裂いていくようだった。
「わたし、あの日――池に落ちたとき、いたの。
私の顔をした誰かが、底にいて……手を伸ばしてきたの。
引っ張られた。向こうへ、引きずられそうになった」
――ぽちゃん。
その瞬間、家の奥から、水の滴る音がした。
それは、誰もいないはずの風呂場からだった。
誰も言葉を発さなかった。
空気が凍ったように、沈黙だけが部屋を満たしていく。
母の腕の中にいる私を、父が見ていた。
疑いの視線ではなかった。
見ようとしていた。
“娘の中にある何か”を、少しでも見逃さないようにするかのように。
「……信じるよ、香織」
母が、呟くように言った。
その声は震えていたけれど、確かだった。
恐れている。だが、それ以上に――愛している。守りたい。見捨てたくない。
そんな想いが、痛いほど真っ直ぐににじみ出ていた。
「わからないことばかりだけど……でも、お前が言うなら……そうなんだろうって、思うしかないじゃないか」
父の言葉もまた、どこか絞り出すようだった。
確信ではない。けれど、“疑う”という選択肢が、もう取れないのだ。
もしこれが、取り憑かれている娘の叫びなら――信じなければ、助けることすらできない。
もしこれが、錯乱でも妄想でもなかったら――見過ごしたことで、手遅れになるかもしれない。
実際に、不可解なことは起こっているのだ。
「……お父さんとお母さんで、絶対に守るからな」
そう言った父の声には、うっすらと滲む覚悟があった。
◆
その夜は、三人で布団を並べて寝た。
私を真ん中にして、母が左、父が右。
母は「塩って、部屋の四隅に置けばいいのかしら……」と呟きながら、小皿を台所からいくつか持ち出していた。
粗塩の袋を戸棚の奥から引っ張り出し、慣れない手つきで小皿に盛っていく。
「お清めの塩なんて、効くのかしらね……でも、何もしないよりは……ね」
そう言いながら、母は淡々と、けれどどこか祈るように、四隅にそっと皿を置いていった。
まるで、お守りを並べるように。
父は黙ってその様子を見ていた。
そして、ふと立ち上がってテレビにバスタオルをかけた。
“映るもの”を、これ以上増やさないように。
照明を落とした部屋は、静かだった。
聞こえるのは、時計の音と三人の呼吸だけ。
「こうして寝るの、久しぶりね」
並んだ布団の中で、母は私の手をそっと握っていた。
まるで、もう一度確かめるように――そこに“香織”がいることを、信じるために。
◆
――水の音がした。
ぴちゃ、と。
最初は夢の中の出来事かと思った。
でも、それは次第に“音”ではなく“声”のように思えてきて、私ははっと目を開けた。
隣に並んだ布団で、香織がうなされていた。
額に汗を浮かべ、苦しそうに顔をゆがめている。
「……っ、う……」
かすれた吐息にまじって、どこか濁った、くぐもった音が口から漏れた。
――スマホから聞こえた、“あの音”と同じだった。
水の底で泡が弾けるような、不明瞭で、意味を持たないはずなのに、ぞっとする響き。
何かが言葉になりかけて、濁った水の中で崩れていくような……。
「……香織……? 香織、大丈夫?」
そっと名前を呼ぶと、隣で眠っていた夫も飛び起きた。
香織の様子を見て、すぐに布団から身を乗り出す。
「香織! 起きろ、大丈夫か!」
娘の肩を揺さぶりながら、夫は何度も名前を呼んだ。
それでも、香織の口からは、なおも異様な声が漏れ続ける。
苦しげに、吐息のように、濁った水に溺れながら言葉を探しているように。
「っ……香織! 帰ってきて……!」
私は手探りで娘の背中をさすった。
その肌は汗で濡れていて、じっとりと冷たかった。
やがて、がばりと香織が上体を起こす。
「……っは、はぁっ、はぁっ……!」
口を大きく開き、何度も空気を吸うように荒く息をつく。
まるで、さっきまで本当に水の中にいたように――必死で、生きようとしているように。
「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……!」
私は背中に手を当てたまま、必死に呼びかけ続けた。
娘の目が、ようやくこちらを捉える。
涙を滲ませ、怯えたように見開かれたその瞳に、私は思わず胸が締めつけられた。
父も手を添えて、言葉にならない言葉を繰り返していた。
しばらくしてようやく、香織の呼吸は少し落ち着き、再び布団に横たわる。
私はそっと腕をまわし、今度は背中を包むように抱きしめた。
大丈夫――そう言いたかったのに、声は出なかった。
時計を見れば、まだ深夜の二時過ぎ。
この重たい夜は、まだ半分も終わっていない。
何かをするには、何かを考えるには、朝が来るのを待つしかなかった。