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写り水  作者: まめ。
4/7

4.





 時計の音が、妙に耳に残る。

 カチ、カチ、カチ、と――誰かが部屋の外で秒針を刻んでいるように、規則正しく、冷たく響いていた。


 誰も、動けずにいた。

 父はスマホを取り落とした姿勢のまま、じっと床を見つめていた。

 母は私を抱きしめていたが、震えるその手には力が入っていなかった。


「……アイツが、近づいてくるの」


 ぽつり、と呟いた瞬間、空気が少しざわめいた気がした。

 母の指先がぴくりと動き、父の目が、わずかにこちらに向いた。


「アイツ……って、何?」


 母が、かすれた声で訊いた。


 私は目を伏せたまま、唇を動かす。


「わからない。でも……最初は夢だったの。水の中にいて、誰かが、私の足を掴もうとしてて……。

 何度も、同じ夢を見た。どんどん、苦しくなってくる。……そして、最近は、夢じゃない気がしてきたの」


 思い出すたび、体の奥が軋む。

 あの感覚――皮膚の裏から染み込んでくるような、青くさくて、湿った何か。


「鏡を見ると、いるの。私じゃない“何か”が……。

 最初は気のせいかと思った。でも、違うの。表情だったり、動きだったり。私に似てるのに、私じゃない……」


「香織、それ……」

 

「……最近は、目を合わせたら、“あっち”に引きずられそうになる」


 母の手に力がこもる。

 私は、そのぬくもりに縋るように続けた。


「――たぶん、アイツは、わたしの“中”に入ろうとしてる」


 その言葉に、父と母が同時に息を呑むのがわかった。


「だから、わたし……鏡も、水も、怖い。

 見てしまったら、“写ってしまったら”、入ってくる気がするの。

  ――私、わからなくなるの。自分なのに、自分じゃない気がして……曖昧になって、怖いの。」


 喉の奥がひりつく。

 言葉のひとつひとつが、どこかを裂いていくようだった。


「わたし、あの日――池に落ちたとき、いたの。

 私の顔をした誰かが、底にいて……手を伸ばしてきたの。

 引っ張られた。向こうへ、引きずられそうになった」


 ――ぽちゃん。


 その瞬間、家の奥から、水の滴る音がした。


 それは、誰もいないはずの風呂場からだった。


 


 誰も言葉を発さなかった。

 空気が凍ったように、沈黙だけが部屋を満たしていく。


 母の腕の中にいる私を、父が見ていた。

 疑いの視線ではなかった。

 見ようとしていた。

 “娘の中にある何か”を、少しでも見逃さないようにするかのように。


「……信じるよ、香織」


 母が、呟くように言った。


 その声は震えていたけれど、確かだった。

 恐れている。だが、それ以上に――愛している。守りたい。見捨てたくない。

 そんな想いが、痛いほど真っ直ぐににじみ出ていた。


「わからないことばかりだけど……でも、お前が言うなら……そうなんだろうって、思うしかないじゃないか」


 父の言葉もまた、どこか絞り出すようだった。

 確信ではない。けれど、“疑う”という選択肢が、もう取れないのだ。


 もしこれが、取り憑かれている娘の叫びなら――信じなければ、助けることすらできない。

 もしこれが、錯乱でも妄想でもなかったら――見過ごしたことで、手遅れになるかもしれない。


 実際に、不可解なことは起こっているのだ。


 「……お父さんとお母さんで、絶対に守るからな」


 そう言った父の声には、うっすらと滲む覚悟があった。




     ◆




  その夜は、三人で布団を並べて寝た。

 私を真ん中にして、母が左、父が右。


 母は「塩って、部屋の四隅に置けばいいのかしら……」と呟きながら、小皿を台所からいくつか持ち出していた。

 粗塩の袋を戸棚の奥から引っ張り出し、慣れない手つきで小皿に盛っていく。


 「お清めの塩なんて、効くのかしらね……でも、何もしないよりは……ね」


 そう言いながら、母は淡々と、けれどどこか祈るように、四隅にそっと皿を置いていった。

 まるで、お守りを並べるように。


 父は黙ってその様子を見ていた。

 そして、ふと立ち上がってテレビにバスタオルをかけた。

 “映るもの”を、これ以上増やさないように。


 照明を落とした部屋は、静かだった。

 聞こえるのは、時計の音と三人の呼吸だけ。


「こうして寝るの、久しぶりね」

 

 並んだ布団の中で、母は私の手をそっと握っていた。


 まるで、もう一度確かめるように――そこに“香織”がいることを、信じるために。




     ◆




  ――水の音がした。


 ぴちゃ、と。

 最初は夢の中の出来事かと思った。


 でも、それは次第に“音”ではなく“声”のように思えてきて、私ははっと目を開けた。


 隣に並んだ布団で、香織がうなされていた。

 額に汗を浮かべ、苦しそうに顔をゆがめている。


「……っ、う……」


 かすれた吐息にまじって、どこか濁った、くぐもった音が口から漏れた。


 ――スマホから聞こえた、“あの音”と同じだった。


 水の底で泡が弾けるような、不明瞭で、意味を持たないはずなのに、ぞっとする響き。

 何かが言葉になりかけて、濁った水の中で崩れていくような……。


 「……香織……? 香織、大丈夫?」


 そっと名前を呼ぶと、隣で眠っていた夫も飛び起きた。

 香織の様子を見て、すぐに布団から身を乗り出す。


 「香織! 起きろ、大丈夫か!」


 娘の肩を揺さぶりながら、夫は何度も名前を呼んだ。


 それでも、香織の口からは、なおも異様な声が漏れ続ける。

 苦しげに、吐息のように、濁った水に溺れながら言葉を探しているように。


 「っ……香織! 帰ってきて……!」


 私は手探りで娘の背中をさすった。

 その肌は汗で濡れていて、じっとりと冷たかった。


 やがて、がばりと香織が上体を起こす。


 「……っは、はぁっ、はぁっ……!」


 口を大きく開き、何度も空気を吸うように荒く息をつく。

 まるで、さっきまで本当に水の中にいたように――必死で、生きようとしているように。


 「だいじょうぶ……だいじょうぶよ……!」


 私は背中に手を当てたまま、必死に呼びかけ続けた。

 娘の目が、ようやくこちらを捉える。

 涙を滲ませ、怯えたように見開かれたその瞳に、私は思わず胸が締めつけられた。


 父も手を添えて、言葉にならない言葉を繰り返していた。


 しばらくしてようやく、香織の呼吸は少し落ち着き、再び布団に横たわる。


 私はそっと腕をまわし、今度は背中を包むように抱きしめた。


 大丈夫――そう言いたかったのに、声は出なかった。


 時計を見れば、まだ深夜の二時過ぎ。


 この重たい夜は、まだ半分も終わっていない。


 何かをするには、何かを考えるには、朝が来るのを待つしかなかった。

 

 



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