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写り水  作者: まめ。
3/7

3.





 体の奥が、じくじくと軋むように痛む。

 泥くさい、青くさいような、不快な感覚がこみ上げてくる。


 喉の渇きは、おさまらない。

 水を飲んでも、飲んでも、喉の奥、胸の裏までも渇いたままで……。


 ……あいつが、這い寄ってくる。

 皮膚の裏を指先でなぞられるような、じっとりとした感触がある。


 こっちへ来ようとしてる。


 ――断ち切らないと。

 どこかで、切らなければ。


 


     ◆




 鏡を見るのが、怖くなってきた。


 そんなこと、今まで一度も思ったことなかったのに。

 けれど、あの日から――洗面所の鏡に、一瞬“香織じゃない何か”が映ったように見えたあの日から、ずっと胸の奥がざわざわしている。


 今朝も洗濯物を抱えて洗面所に立った時、鏡を見ないようにしていた。


 視界の端に何かが映っている気がしても、絶対に視線を向けなかった。


 出来るだけ気にしないように、洗濯機の蓋を開けて服を放り込み、スイッチを入れる。

 ふと顔を上げた時、つい視線が自然に鏡の方へ向かってしまった。


 そこに――香織の横顔が映っていた。

 扉の脇に立つような位置、ちょうど洗面台の端に、ぼんやりと。


「香織?」


 思わず声をかける。

 でも、振り向いた先には誰もいなかった。

 洗面所には、自分ひとり。

 戸も閉まったままだ。


 ――じゃあ、さっきのは何?


 鏡をもう一度見る。何もない。

 ただ、自分のこわばった顔が、妙に青白く映っているだけ。


 ――“香織、いるの?”と、反射的に声をかけそうになって、やめた。


 誰もいないところに、声をかけてしまいそうで。

 そうしたら“それ”が、香織の声で返してきそうで。


 鏡をそっと見ないようにして、洗面所を出た。

 香織が鏡を見たがらないのは、あの子にもこれが見えているんだろうか……。

 

 


     ◆



 

 帰宅すると、妻が洗面所の鏡にビニール袋を貼っていた。


 最初は、何かの掃除かと思った。だが、風呂場の鏡にも同じように貼られているのを見て、さすがにおかしいと感じた。


「何してるんだ?」


 声をかけると、妻はぴたりと手を止めて、振り返った。


「……後で話すから」


「後でって……こんなふうにしたら、使えないだろう」


 鏡に手を伸ばし、貼られているビニールを剥がそうと指をかけた、そのとき――


「やめて!」


 妻が叫んだ。


「お願い、やめて。……ほんとに、お願いだから」


 真剣な顔だった。

 いや、顔色が悪かった。唇までうっすらと青ざめている。

 そこまで言われては、さすがに追及する気にもなれず、俺は黙って手を引いた。


 冷蔵庫の横にあった小さな鏡は外され、廊下の姿見もどこかに片付けられていた。

 まるで家中の“映るもの”を片っ端から封じようとしているようだった。


 晩飯の最中も妻は落ち着かない様子で、香織もほとんど言葉を発さなかった。


 気味が悪い。


 塞がれた鏡に居心地の悪さを感じながら、風呂場に向かう。

 服を脱いで浴室に入り、湯気に霞む風呂の蓋に手をかけた。


 その瞬間だった。

 わずかに開いた蓋の隙間から、“何か”が見えた。


 湯の底に沈み、目を開けたまま、じっとこちらを見上げている――香織が、いた。


 浮かびもせず、揺れもせず、ただ、真っ直ぐに。

 水の中で、音もなく、口を閉じたまま。


「う……うわあああッ!!」


 凍りついた。

 心臓が掴まれたようになり、叫び声と同時に尻もちをついた。


「お父さん? どうしたの?!」


 扉の外から、妻の声が飛んでくる。


 震える手で、もう一度、風呂の蓋を開けた。


 ――何もいなかった。


 ただ、湯気が立ちのぼり、静かな水面が、ゆっくりと波紋を描いていただけだった。


 空気が妙に重く、まとわりつくようだった。

 



     ◆




 リビングに、三人分の麦茶のコップが置かれていた。

 夫は無言で、湯気の立つ茶を見つめている。

 香織はソファに腰かけ、ずっと俯いていた。

 私は、意を決して口を開いた。


「……ねえ、香織。あんた、やっぱり……あの日から、様子が変わったと思うの」


 夫が目線を上げるが、口は閉じたままだ。


「何か、あるんじゃない? ――怖いことでも、変なことでも、いいの。どんなことでも……話してくれない?」


 香織は、唇を噛んだまま、何も答えない。


「信じるから。絶対、否定したりしないから。……だから、……あんたの言葉で、ちゃんと教えてほしいの」

 

 そのとき――


 夫のスマホが、音を立てて震えた。

 テーブルの上で光る画面。画面に表示された文字は「非通知」。


「誰だ……?」


 首を傾げながら、父がスマホを手に取る。

 着信を取ろうとしたその瞬間――


「ダメ! 出ないで!!」


 香織が叫んだ。

 夫の腕にすがりつこうとする勢いで、立ち上がる。


 だが、指はすでに通話ボタンを押していた。


「……もしもし?」


 父の声に、室内の空気がぴたりと静まる。


 返ってきたのは――濁ったような、ぐしゅぐしゅとした“水の中の音”だった。


 まるで、水の底から、何かが口を開いているかのような声。

 くぐもって、泡立って、声ともつかぬ、音ともつかぬ、そんな異質な音がスピーカーから漏れ出した。


 「やめて、やめて、出ちゃダメ!」

 香織が再び叫び、取り乱す。

 私は慌てて彼女を抱きしめ、必死に宥める。


「……誰だ、お前は! 何のつもりだ!」


 父が声を張り上げた瞬間だった。


 ――その声が、はっきりと変わった。


『それは……わたしの……』

 

 私の腕の中で、香織の体が強張るのが伝わってくる。

 その声は続く。

 一言一言、輪郭を取り戻すように――


『わたしの、……からだ』


 それは、香織の声だった。

 けれど――目の前にいる香織の口は、ひとことも発していなかった。


 夫は硬直し、手の中のスマホを取り落とした。

 スマホは床を跳ねて、その後、ぴたりと沈黙した。


 通話は、切れていた。

 ――まるで、誰かが“入りそこねた”かのように。


 



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