3.
体の奥が、じくじくと軋むように痛む。
泥くさい、青くさいような、不快な感覚がこみ上げてくる。
喉の渇きは、おさまらない。
水を飲んでも、飲んでも、喉の奥、胸の裏までも渇いたままで……。
……あいつが、這い寄ってくる。
皮膚の裏を指先でなぞられるような、じっとりとした感触がある。
こっちへ来ようとしてる。
――断ち切らないと。
どこかで、切らなければ。
◆
鏡を見るのが、怖くなってきた。
そんなこと、今まで一度も思ったことなかったのに。
けれど、あの日から――洗面所の鏡に、一瞬“香織じゃない何か”が映ったように見えたあの日から、ずっと胸の奥がざわざわしている。
今朝も洗濯物を抱えて洗面所に立った時、鏡を見ないようにしていた。
視界の端に何かが映っている気がしても、絶対に視線を向けなかった。
出来るだけ気にしないように、洗濯機の蓋を開けて服を放り込み、スイッチを入れる。
ふと顔を上げた時、つい視線が自然に鏡の方へ向かってしまった。
そこに――香織の横顔が映っていた。
扉の脇に立つような位置、ちょうど洗面台の端に、ぼんやりと。
「香織?」
思わず声をかける。
でも、振り向いた先には誰もいなかった。
洗面所には、自分ひとり。
戸も閉まったままだ。
――じゃあ、さっきのは何?
鏡をもう一度見る。何もない。
ただ、自分のこわばった顔が、妙に青白く映っているだけ。
――“香織、いるの?”と、反射的に声をかけそうになって、やめた。
誰もいないところに、声をかけてしまいそうで。
そうしたら“それ”が、香織の声で返してきそうで。
鏡をそっと見ないようにして、洗面所を出た。
香織が鏡を見たがらないのは、あの子にもこれが見えているんだろうか……。
◆
帰宅すると、妻が洗面所の鏡にビニール袋を貼っていた。
最初は、何かの掃除かと思った。だが、風呂場の鏡にも同じように貼られているのを見て、さすがにおかしいと感じた。
「何してるんだ?」
声をかけると、妻はぴたりと手を止めて、振り返った。
「……後で話すから」
「後でって……こんなふうにしたら、使えないだろう」
鏡に手を伸ばし、貼られているビニールを剥がそうと指をかけた、そのとき――
「やめて!」
妻が叫んだ。
「お願い、やめて。……ほんとに、お願いだから」
真剣な顔だった。
いや、顔色が悪かった。唇までうっすらと青ざめている。
そこまで言われては、さすがに追及する気にもなれず、俺は黙って手を引いた。
冷蔵庫の横にあった小さな鏡は外され、廊下の姿見もどこかに片付けられていた。
まるで家中の“映るもの”を片っ端から封じようとしているようだった。
晩飯の最中も妻は落ち着かない様子で、香織もほとんど言葉を発さなかった。
気味が悪い。
塞がれた鏡に居心地の悪さを感じながら、風呂場に向かう。
服を脱いで浴室に入り、湯気に霞む風呂の蓋に手をかけた。
その瞬間だった。
わずかに開いた蓋の隙間から、“何か”が見えた。
湯の底に沈み、目を開けたまま、じっとこちらを見上げている――香織が、いた。
浮かびもせず、揺れもせず、ただ、真っ直ぐに。
水の中で、音もなく、口を閉じたまま。
「う……うわあああッ!!」
凍りついた。
心臓が掴まれたようになり、叫び声と同時に尻もちをついた。
「お父さん? どうしたの?!」
扉の外から、妻の声が飛んでくる。
震える手で、もう一度、風呂の蓋を開けた。
――何もいなかった。
ただ、湯気が立ちのぼり、静かな水面が、ゆっくりと波紋を描いていただけだった。
空気が妙に重く、まとわりつくようだった。
◆
リビングに、三人分の麦茶のコップが置かれていた。
夫は無言で、湯気の立つ茶を見つめている。
香織はソファに腰かけ、ずっと俯いていた。
私は、意を決して口を開いた。
「……ねえ、香織。あんた、やっぱり……あの日から、様子が変わったと思うの」
夫が目線を上げるが、口は閉じたままだ。
「何か、あるんじゃない? ――怖いことでも、変なことでも、いいの。どんなことでも……話してくれない?」
香織は、唇を噛んだまま、何も答えない。
「信じるから。絶対、否定したりしないから。……だから、……あんたの言葉で、ちゃんと教えてほしいの」
そのとき――
夫のスマホが、音を立てて震えた。
テーブルの上で光る画面。画面に表示された文字は「非通知」。
「誰だ……?」
首を傾げながら、父がスマホを手に取る。
着信を取ろうとしたその瞬間――
「ダメ! 出ないで!!」
香織が叫んだ。
夫の腕にすがりつこうとする勢いで、立ち上がる。
だが、指はすでに通話ボタンを押していた。
「……もしもし?」
父の声に、室内の空気がぴたりと静まる。
返ってきたのは――濁ったような、ぐしゅぐしゅとした“水の中の音”だった。
まるで、水の底から、何かが口を開いているかのような声。
くぐもって、泡立って、声ともつかぬ、音ともつかぬ、そんな異質な音がスピーカーから漏れ出した。
「やめて、やめて、出ちゃダメ!」
香織が再び叫び、取り乱す。
私は慌てて彼女を抱きしめ、必死に宥める。
「……誰だ、お前は! 何のつもりだ!」
父が声を張り上げた瞬間だった。
――その声が、はっきりと変わった。
『それは……わたしの……』
私の腕の中で、香織の体が強張るのが伝わってくる。
その声は続く。
一言一言、輪郭を取り戻すように――
『わたしの、……からだ』
それは、香織の声だった。
けれど――目の前にいる香織の口は、ひとことも発していなかった。
夫は硬直し、手の中のスマホを取り落とした。
スマホは床を跳ねて、その後、ぴたりと沈黙した。
通話は、切れていた。
――まるで、誰かが“入りそこねた”かのように。