表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
写り水  作者: まめ。
2/7

2.





 病室の天井は、真っ白で静かだった。


 香織が目を開けたのは、夕方に差しかかる頃だったという。蛍光灯はついておらず、窓際のカーテン越しに、淡い陽が差し込んでいた。


 呼吸の仕方を、少し忘れているようだった。喉が焼けつくほどに乾いていた。


「……香織? わかる?」


 ベッドの脇に座っていた母親が、顔をぐっと近づけた。


「お水、飲める? ちょっと待って、はい、これ」


 母が蓋を開けて差し出したのは、買ってきたばかりのペットボトルの水だった。


 それを受け取り、まるで反射のようにごくごくと一気に飲み干した。ひと口、ふた口、みっつ……。


「ちょっと、そんなに飲まないの。むせるわよ」


 水、綺麗な水が欲しかった。


「水……もっと」


 一瞬、母の動きが止まった。

 

「 ……池に落ちたから、口が気持ち悪いのかしらね……」

 

 戸惑いながらも、母は水を買いに行くと言って出て行った。


 光が眩しくて、目を開けていられなかった。



 

     ◆


 


 池に落ちてから、三日経っていた。


 夏祭りの夜、神社の裏手の写り水池に落ちたらしい。

 一緒にいた美羽が急いで人を呼びに行ってくれて、近くにいた人が引き上げてくれたのだと母は言う。


「ほんとにびっくりしたのよ。電話受けたとき、何があったのかと思って……でも、怪我がなくてよかった」


 母は話し続ける。


「肺に水は入ってないってお医者さんは言うけど、あんたは目を覚さないし……」


 母の声をぼんやりと聞きながら、私はどこを見ていればいいか分からず、天井の一点をじっと見つめていた。

 そのまま、ぽつりと口を開いた。

 

「ねぇ……誰か、いた?」

 

「え……何?」


「私の他に、誰かいた?」


「……美羽ちゃんは、あんたが"誰かいる"って言って池に近づいたって……」


 言いよどんでから、母は続けた。


「でも、池に落ちた時、周りに人はいなかったって」


 しばらく沈黙ののち、母が小さく続けた。


「……怖いこと、言わないでよ」


 


     ◆



 

 退院の日、母と一緒に自宅へ戻った。


 しばらくは、念の為安静にと言われて何をするでもなくぼんやりとしていた。

 茶の間のソファに座り、テレビを見る。

 音と映像が、次々と流れていく。

 ――どれも、自分には遠い出来事のようだった。


 込み上げて来る不快感を、水で流し込む。


「西瓜切ったけど、食べられそう?」

 

 母が目の前のテーブルに皿を置いた。

「ご飯もあまり食べてないし……果物くらい食べて」


「……食欲、なくて」


「だからって水ばっかりじゃない」

 どうやら、口にするまで見張るらしい。

 

 私は西瓜を一切れ口にした。

「……あまい」

 思わず、ぽつりと口に出た。

(――こんなにも甘いものだったろうか)

 

「そう?」母はほっとしたように呟くと、「食べられそうなら、食べて」と残りの西瓜も置いて行った。


 喉を潤すように、西瓜を喰む。

 ――舌に残る甘さが、喉を通るたび、微かにざらつくように感じた




     ◆

 



「……香織の様子はどうなんだ」


 夕飯の席で、夫に尋ねられた。

 香織の席は、今日も空いている。


「――なんか、変なのよ」


「変?」


「……水ばかり飲んで、ぼんやりしてるし」


 どう言えばいいのだろう。


「お風呂も嫌がるの。シャワーだけでもって言っても、お風呂場に近寄りたくないみたいで……」


 思わず、箸を握りしめる。


「……まさかとは思うけど、ね。なんか、

 よくないモノ……そういうのが、ついてきたんじゃないかって……」


「何言っているんだ。馬鹿らしい。」

 夫は呆れたように私を見る。


「池に落ちたせいで、水が嫌なんじゃないか?」


 夫はそのまま食事を続け「変に見えるのは、お前が変な目で見てるからだろ。気にしすぎもよくないぞ」と私を嗜めた。

「……一度、香織ときちんと話してみろ。本人が何か悩んでるなら、まずそれを聞いてみないとわからんだろ」

 

「……そうですね」


 誰もいない香織の席を眺めながら、ため息をついた。

 美羽ちゃんの話が、どうしても頭から離れない。香織だけが、見ていた"誰か"。

 気のせいなら、いいのだけれど。


 


     ◆




 夜中にふと目が覚めた。なかなか寝付けず、水でも飲むかと台所に向かった。

 冷蔵庫を開け、ペットボトルを手に取る。

 コップに注ごうと振り向くと、


「ッ⁈」


 真後ろに香織が居た。


「……驚かすなよ。どうしたんだ?」


 ほんの数日見ないうちに、香織はひどくやつれていた。

 青白い顔が、冷蔵庫の明かりに浮かんで見える。


「お水……喉が渇いて」


「水? ……水、か」

 俺は手に持っていたペットボトルを香織に渡す。


 香織は、手にしたボトルに口をつけたかと思うと、ひと息で、喉を鳴らすように流し込んでいく。

 一息に飲み干し、それでも足りなそうに、台所の水道に向かってふらふらと歩き出す。


「おい、香織。――大丈夫なのか?」


「……喉が、渇いて」


 水を飲み続ける娘を、ただ黙って見つめていた。


 ――ふと、冷蔵庫の横にかかった小さな鏡が目に入った。

 振り返りかけた香織の背中が映る……はずだった。


 鏡の中の香織は、すでに“顔”をこちらに向けていた。

 まるで、振り返る動作とは別に、そこだけが時間を先取りしたかのように。


 目が合った。

 なぜか、はっきりと分かった。

 鏡の中のその目は、こちらを見ていた。動かず、瞬きもせず――まるで“見つけた”とでも言うように。


 一瞬、息が止まった。


 香織がこちらを振り返る。

 実際の彼女は、ただ無表情にこちらを見るだけだった。

 鏡の中の“それ”は、もう、映っていなかった。

 ――ただ、最後にほんの一瞬、口元が動いたように見えた。

 

 気のせいだと、思いたかった。

 

 ――何か、よくないモノ


 夕食のとき、妻がぽつりとこぼした言葉が、急に胸に重くのしかかる。


 暑いはずなのに、自分の手が震えているのがわかった。

 見たことを口にしてはいけないような気がした。

 言葉にした瞬間、それがこちらに来てしまうような、そんな気がして。


 声にすることが出来なかった。



 

     ◆



 

 ある日、香織の様子を見に、家まで行った。

 スマホに何度か連絡を入れたけれど返信がないので、直接様子を見に、話したいこともあった。


 数日ぶりに会う香織は、何かすごくげっそりとしていた。目の下の隈もひどい。

 

「……ほんとに、大丈夫?」


 ベッドに腰掛けている香織は、俯いている。

 昼間なのに、部屋のカーテンは閉められ、壁際の姿見には大きな布がかけられていた。

 しばらく二人で黙り込んでいたけど、覚悟を決めて話す。

 

「この間、電話……かかってきたの」


「……電話?」


「うん。でもね、なんていうか……すごく変だったの。音が、水の中みたいにぼやけてて、声も……ちょっと、香織の声に似てるんだけど、なんか、違う感じで……」


「話したの⁈ 」


 突然香織が叫んだ。


「そいつと話したの⁈ 」


 香織は私の顔をじっと見ている。

 その目は真剣で、少し怖かった。


 私は首を振りながら、必死に答えた。

 話しはしてないこと、向こうの言ってることも聞き取れなかったこと、ただ香織の声に似てる気がして、心配になったこと。番号も非通知でわからなかったことも。



「ダメだよ。……ダメ、絶対、話したら……!」


 香織は私に言い聞かせるように言う。


「繋がってしまうの。……もう、戻れなくなる」


 ――香織、あなたに何が起きてるの?





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ