2.
病室の天井は、真っ白で静かだった。
香織が目を開けたのは、夕方に差しかかる頃だったという。蛍光灯はついておらず、窓際のカーテン越しに、淡い陽が差し込んでいた。
呼吸の仕方を、少し忘れているようだった。喉が焼けつくほどに乾いていた。
「……香織? わかる?」
ベッドの脇に座っていた母親が、顔をぐっと近づけた。
「お水、飲める? ちょっと待って、はい、これ」
母が蓋を開けて差し出したのは、買ってきたばかりのペットボトルの水だった。
それを受け取り、まるで反射のようにごくごくと一気に飲み干した。ひと口、ふた口、みっつ……。
「ちょっと、そんなに飲まないの。むせるわよ」
水、綺麗な水が欲しかった。
「水……もっと」
一瞬、母の動きが止まった。
「 ……池に落ちたから、口が気持ち悪いのかしらね……」
戸惑いながらも、母は水を買いに行くと言って出て行った。
光が眩しくて、目を開けていられなかった。
◆
池に落ちてから、三日経っていた。
夏祭りの夜、神社の裏手の写り水池に落ちたらしい。
一緒にいた美羽が急いで人を呼びに行ってくれて、近くにいた人が引き上げてくれたのだと母は言う。
「ほんとにびっくりしたのよ。電話受けたとき、何があったのかと思って……でも、怪我がなくてよかった」
母は話し続ける。
「肺に水は入ってないってお医者さんは言うけど、あんたは目を覚さないし……」
母の声をぼんやりと聞きながら、私はどこを見ていればいいか分からず、天井の一点をじっと見つめていた。
そのまま、ぽつりと口を開いた。
「ねぇ……誰か、いた?」
「え……何?」
「私の他に、誰かいた?」
「……美羽ちゃんは、あんたが"誰かいる"って言って池に近づいたって……」
言いよどんでから、母は続けた。
「でも、池に落ちた時、周りに人はいなかったって」
しばらく沈黙ののち、母が小さく続けた。
「……怖いこと、言わないでよ」
◆
退院の日、母と一緒に自宅へ戻った。
しばらくは、念の為安静にと言われて何をするでもなくぼんやりとしていた。
茶の間のソファに座り、テレビを見る。
音と映像が、次々と流れていく。
――どれも、自分には遠い出来事のようだった。
込み上げて来る不快感を、水で流し込む。
「西瓜切ったけど、食べられそう?」
母が目の前のテーブルに皿を置いた。
「ご飯もあまり食べてないし……果物くらい食べて」
「……食欲、なくて」
「だからって水ばっかりじゃない」
どうやら、口にするまで見張るらしい。
私は西瓜を一切れ口にした。
「……あまい」
思わず、ぽつりと口に出た。
(――こんなにも甘いものだったろうか)
「そう?」母はほっとしたように呟くと、「食べられそうなら、食べて」と残りの西瓜も置いて行った。
喉を潤すように、西瓜を喰む。
――舌に残る甘さが、喉を通るたび、微かにざらつくように感じた
◆
「……香織の様子はどうなんだ」
夕飯の席で、夫に尋ねられた。
香織の席は、今日も空いている。
「――なんか、変なのよ」
「変?」
「……水ばかり飲んで、ぼんやりしてるし」
どう言えばいいのだろう。
「お風呂も嫌がるの。シャワーだけでもって言っても、お風呂場に近寄りたくないみたいで……」
思わず、箸を握りしめる。
「……まさかとは思うけど、ね。なんか、
よくないモノ……そういうのが、ついてきたんじゃないかって……」
「何言っているんだ。馬鹿らしい。」
夫は呆れたように私を見る。
「池に落ちたせいで、水が嫌なんじゃないか?」
夫はそのまま食事を続け「変に見えるのは、お前が変な目で見てるからだろ。気にしすぎもよくないぞ」と私を嗜めた。
「……一度、香織ときちんと話してみろ。本人が何か悩んでるなら、まずそれを聞いてみないとわからんだろ」
「……そうですね」
誰もいない香織の席を眺めながら、ため息をついた。
美羽ちゃんの話が、どうしても頭から離れない。香織だけが、見ていた"誰か"。
気のせいなら、いいのだけれど。
◆
夜中にふと目が覚めた。なかなか寝付けず、水でも飲むかと台所に向かった。
冷蔵庫を開け、ペットボトルを手に取る。
コップに注ごうと振り向くと、
「ッ⁈」
真後ろに香織が居た。
「……驚かすなよ。どうしたんだ?」
ほんの数日見ないうちに、香織はひどくやつれていた。
青白い顔が、冷蔵庫の明かりに浮かんで見える。
「お水……喉が渇いて」
「水? ……水、か」
俺は手に持っていたペットボトルを香織に渡す。
香織は、手にしたボトルに口をつけたかと思うと、ひと息で、喉を鳴らすように流し込んでいく。
一息に飲み干し、それでも足りなそうに、台所の水道に向かってふらふらと歩き出す。
「おい、香織。――大丈夫なのか?」
「……喉が、渇いて」
水を飲み続ける娘を、ただ黙って見つめていた。
――ふと、冷蔵庫の横にかかった小さな鏡が目に入った。
振り返りかけた香織の背中が映る……はずだった。
鏡の中の香織は、すでに“顔”をこちらに向けていた。
まるで、振り返る動作とは別に、そこだけが時間を先取りしたかのように。
目が合った。
なぜか、はっきりと分かった。
鏡の中のその目は、こちらを見ていた。動かず、瞬きもせず――まるで“見つけた”とでも言うように。
一瞬、息が止まった。
香織がこちらを振り返る。
実際の彼女は、ただ無表情にこちらを見るだけだった。
鏡の中の“それ”は、もう、映っていなかった。
――ただ、最後にほんの一瞬、口元が動いたように見えた。
気のせいだと、思いたかった。
――何か、よくないモノ
夕食のとき、妻がぽつりとこぼした言葉が、急に胸に重くのしかかる。
暑いはずなのに、自分の手が震えているのがわかった。
見たことを口にしてはいけないような気がした。
言葉にした瞬間、それがこちらに来てしまうような、そんな気がして。
声にすることが出来なかった。
◆
ある日、香織の様子を見に、家まで行った。
スマホに何度か連絡を入れたけれど返信がないので、直接様子を見に、話したいこともあった。
数日ぶりに会う香織は、何かすごくげっそりとしていた。目の下の隈もひどい。
「……ほんとに、大丈夫?」
ベッドに腰掛けている香織は、俯いている。
昼間なのに、部屋のカーテンは閉められ、壁際の姿見には大きな布がかけられていた。
しばらく二人で黙り込んでいたけど、覚悟を決めて話す。
「この間、電話……かかってきたの」
「……電話?」
「うん。でもね、なんていうか……すごく変だったの。音が、水の中みたいにぼやけてて、声も……ちょっと、香織の声に似てるんだけど、なんか、違う感じで……」
「話したの⁈ 」
突然香織が叫んだ。
「そいつと話したの⁈ 」
香織は私の顔をじっと見ている。
その目は真剣で、少し怖かった。
私は首を振りながら、必死に答えた。
話しはしてないこと、向こうの言ってることも聞き取れなかったこと、ただ香織の声に似てる気がして、心配になったこと。番号も非通知でわからなかったことも。
「ダメだよ。……ダメ、絶対、話したら……!」
香織は私に言い聞かせるように言う。
「繋がってしまうの。……もう、戻れなくなる」
――香織、あなたに何が起きてるの?