1.
――水が、空を吸い込んでいるみたいだった。
朱塗りの柵の向こう、木々に囲まれた小さな池が、茜色に染まった空を静かに写している。
光と影の境目が曖昧になりはじめた時間。
どこまでが本物の景色で、どこからが映り込みなのか、わからなくなってくる。
雲のかたちも、鳥の影も、揺らぎひとつなく焼きついていた。まるで水の底に、裏返しの世界が沈んでいるようだった。
……いや、違う。あれは“映っている”んじゃない。“そこにある”みたいに見えた。
夏祭りの帰り道だった。
昼の熱気が残る道を歩いているだけで、汗が肌にまとわりつく。
ざわめく人混みと屋台の呼び声、響く笛や太鼓の音が、頭の奥にこびりついていた。
けれど、神社の裏手にまわって草むらを抜けた途端、世界がふっと静かになった。
耳鳴りのように響いていた喧騒が、すっと遠のいていく。
空気が変わったように感じた。
空の色は濃くなりはじめていて、地面を照らす光も少しずつ弱まっている。
夕暮れの名残が、池の水面に静かに沈んでいた。
「……うわ、すご。写り水池って、本当にこんなに綺麗なんだね」
隣で美羽が感嘆の声を上げる。巾着を揺らしながら、朱塗りの柵の前に立ち止まった。
この池を見に行こうと誘ってきたのは、美羽だった。
鳥居をくぐり、参道を外れて草をかき分けて歩いてくると、森の奥にぽっかりと開けた空間が現れる。その中心に、池がある。
あんなに賑やかだったはずなのに、ここだけまるで音が消えてしまったみたいだ。
さっきまでの喧騒が、まるで夢だったように思えるほどに。
「なんか、風がない日とか、雲が高い日とかに、空がそのまま逆さに映るんだって。ほら、あっちの木までくっきり映ってる」
言われたとおりに視線を落とすと、池の表面は鏡のように静かで、遠くの山の稜線まではっきりと映っていた。
「……ほんとだ。なんか……吸い込まれそう」
私は思わず、朱色の柵に手を添えた。
池の周囲は腰ほどの柵で囲まれ、水面は覗けそうになかった。
――そのときだった。
「……あれ?」
視線の端で、何かが動いたような気がして、私は池の向こう側に目を凝らした。
柵の内側、水辺ぎりぎりに、浴衣姿の誰かがしゃがみ込んでいた。
顔は伏せたまま、赤い帯だけが夕焼けの中でぼんやりと滲んで見える。
「人……かな? あそこ、誰かいる」
私がそうつぶやくと、美羽も身を乗り出してきた。
「え? どこ?」
「ほら……あの、池の向こう側の柵の内側。しゃがみこんでるみたいで……浴衣の人」
美羽はしばらく目を凝らしていたが、首をかしげた。
「……うーん? 人なんている? よく見えないけど……てか、柵の内側って入れないよね?」
「壊れてロープが張ってあるところ、あったよね。……ほら、あそこ」
私が視線を向けた先には、柵が切れて細いロープが垂れている場所があった。
「あー、本当だ。でも、あのへん足場悪いらしいし……あんまり近づかない方がよくない?」
私は小さくうなずいた……つもりだった。
でも、なぜか足が、勝手に動いていた。
視線も、池の向こうの“それ”から外せなくなっていた。
「香織?」
美羽の呼びかけが背中に届く。
「……ちょっと、見てくるだけだから」
やけに、あの女性のことが気になった。
心配だった。……そう思おうとしていた。でも、本当はもう目を逸らせなかった。
柵の切れ目から一歩、池の内側へ足を踏み入れる。足元の砂利がこすれる音が、やけに遠く響いた。
浴衣の女性は、ぴくりとも動かない。
肩がかすかに揺れているように見えたけれど、それが風のせいなのか、震えているのかもわからなかった。
まとめ髪の襟足が濡れたように首筋に張り付いているのが見えた。
「あの……大丈夫ですか? 暑さで具合悪くなりました?」
返事はない。
私はさらに一歩近づいた。
「汗、すごいですけど、良かったらこれ使いますか?」
私は、団扇を女性に差し出した。
そのとき――
「……それ、ちょうだい」
風にまぎれたような、それでいて、耳の奥に直接、ぬめりと入り込んでくるような声だった。
「え……これ、ですか?」
私は団扇を持った手を、ためらいがちにわずかに持ち上げた。
女の人は、俯いたまま動かない。
「ねぇ……それ、ちょうだい」
……断る、理由が思いつかなかった。
「……うん。どうぞ、使って……いいですよ」
その瞬間、女の人が、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
……えっ。
ゆっくりと上がったその顔。
見慣れているはずなのに、見たことのない――
それは、私自身の顔だった。
「……ありが、と、う」
くぐもった声と同時に、ひやりと湿った手が、私の手首に絡みつく。
ぎゅっと強く、逃げられないほどの力で。
視界が、ぐるりと反転する。
空が沈み、水が広がった。
ひっくり返った世界に、私は落ちていく。
冷たくぬるついた感触が、足元から這い上がる。
鼻に入った水が焼けるように痛くて、喉が詰まる。
――息ができない。
ああ、この人……
私が見てたんじゃない。
ずっと見られていたんだ。
引き込まれる瞬間、まるで鏡合わせのように水の中から手を伸ばす"私じゃない私"が見えた。
足元が沈む。
――泥と水草の生臭い匂いが鼻を突いた。
最後に聞こえたのは、美羽のかすれた悲鳴だった。
あれ……、わたしだったのは、どっちだっけ……。