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写り水  作者: まめ。
1/7

1.





 ――水が、空を吸い込んでいるみたいだった。


 朱塗りの柵の向こう、木々に囲まれた小さな池が、茜色に染まった空を静かに写している。

 光と影の境目が曖昧になりはじめた時間。

 どこまでが本物の景色で、どこからが映り込みなのか、わからなくなってくる。


 雲のかたちも、鳥の影も、揺らぎひとつなく焼きついていた。まるで水の底に、裏返しの世界が沈んでいるようだった。

 ……いや、違う。あれは“映っている”んじゃない。“そこにある”みたいに見えた。


 夏祭りの帰り道だった。

 昼の熱気が残る道を歩いているだけで、汗が肌にまとわりつく。

 ざわめく人混みと屋台の呼び声、響く笛や太鼓の音が、頭の奥にこびりついていた。


 けれど、神社の裏手にまわって草むらを抜けた途端、世界がふっと静かになった。

 耳鳴りのように響いていた喧騒が、すっと遠のいていく。

 空気が変わったように感じた。


 空の色は濃くなりはじめていて、地面を照らす光も少しずつ弱まっている。

 夕暮れの名残が、池の水面に静かに沈んでいた。


「……うわ、すご。写り水(うつりみ)池って、本当にこんなに綺麗なんだね」


 隣で美羽が感嘆の声を上げる。巾着を揺らしながら、朱塗りの柵の前に立ち止まった。


 この池を見に行こうと誘ってきたのは、美羽だった。

 鳥居をくぐり、参道を外れて草をかき分けて歩いてくると、森の奥にぽっかりと開けた空間が現れる。その中心に、池がある。


 あんなに賑やかだったはずなのに、ここだけまるで音が消えてしまったみたいだ。

 さっきまでの喧騒が、まるで夢だったように思えるほどに。

 

「なんか、風がない日とか、雲が高い日とかに、空がそのまま逆さに映るんだって。ほら、あっちの木までくっきり映ってる」


 言われたとおりに視線を落とすと、池の表面は鏡のように静かで、遠くの山の稜線まではっきりと映っていた。


「……ほんとだ。なんか……吸い込まれそう」


 私は思わず、朱色の柵に手を添えた。

 池の周囲は腰ほどの柵で囲まれ、水面は覗けそうになかった。

 


 ――そのときだった。


「……あれ?」


 視線の端で、何かが動いたような気がして、私は池の向こう側に目を凝らした。


 柵の内側、水辺ぎりぎりに、浴衣姿の誰かがしゃがみ込んでいた。

 顔は伏せたまま、赤い帯だけが夕焼けの中でぼんやりと滲んで見える。


「人……かな? あそこ、誰かいる」


 私がそうつぶやくと、美羽も身を乗り出してきた。


「え? どこ?」


「ほら……あの、池の向こう側の柵の内側。しゃがみこんでるみたいで……浴衣の人」


 美羽はしばらく目を凝らしていたが、首をかしげた。


「……うーん? 人なんている? よく見えないけど……てか、柵の内側って入れないよね?」


「壊れてロープが張ってあるところ、あったよね。……ほら、あそこ」


 私が視線を向けた先には、柵が切れて細いロープが垂れている場所があった。


「あー、本当だ。でも、あのへん足場悪いらしいし……あんまり近づかない方がよくない?」


 私は小さくうなずいた……つもりだった。

 でも、なぜか足が、勝手に動いていた。

 視線も、池の向こうの“それ”から外せなくなっていた。

 

「香織?」


 美羽の呼びかけが背中に届く。


「……ちょっと、見てくるだけだから」


 やけに、あの女性のことが気になった。

 心配だった。……そう思おうとしていた。でも、本当はもう目を逸らせなかった。


 柵の切れ目から一歩、池の内側へ足を踏み入れる。足元の砂利がこすれる音が、やけに遠く響いた。


 浴衣の女性は、ぴくりとも動かない。

 肩がかすかに揺れているように見えたけれど、それが風のせいなのか、震えているのかもわからなかった。

 まとめ髪の襟足が濡れたように首筋に張り付いているのが見えた。


「あの……大丈夫ですか? 暑さで具合悪くなりました?」


 返事はない。


 私はさらに一歩近づいた。


「汗、すごいですけど、良かったらこれ使いますか?」

 

 私は、団扇を女性に差し出した。

 

 そのとき――


「……それ、ちょうだい」


 風にまぎれたような、それでいて、耳の奥に直接、ぬめりと入り込んでくるような声だった。


「え……これ、ですか?」


 私は団扇を持った手を、ためらいがちにわずかに持ち上げた。


 女の人は、俯いたまま動かない。


「ねぇ……それ、ちょうだい」


 ……断る、理由が思いつかなかった。

 

「……うん。どうぞ、使って……いいですよ」


 その瞬間、女の人が、ゆっくりと顔を上げた。


 目が合った。


 ……えっ。


 ゆっくりと上がったその顔。

 見慣れているはずなのに、見たことのない――

 それは、私自身の顔だった。


「……ありが、と、う」


 くぐもった声と同時に、ひやりと湿った手が、私の手首に絡みつく。


 ぎゅっと強く、逃げられないほどの力で。


 視界が、ぐるりと反転する。

 空が沈み、水が広がった。

 ひっくり返った世界に、私は落ちていく。

 冷たくぬるついた感触が、足元から這い上がる。

 鼻に入った水が焼けるように痛くて、喉が詰まる。

 

 ――息ができない。


 ああ、この人……


 私が見てたんじゃない。

 ずっと見られていたんだ。

 

 引き込まれる瞬間、まるで鏡合わせのように水の中から手を伸ばす"私じゃない私"が見えた。


 足元が沈む。

 ――泥と水草の生臭い匂いが鼻を突いた。


 

 最後に聞こえたのは、美羽のかすれた悲鳴だった。


 


 あれ……、わたしだったのは、どっちだっけ……。

 




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