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不思議の国の不思議ちゃん

作者: ジンタ

未完成です。


 昼休み、弁当を食べ終えた久慈宏介は、鞄の中から文庫本を出して読み始めた。いつもだったら当然ゲームを始める時間なので、一緒に昼飯を食っていた水泳部の連中はそろって意外そうな顔をした。

「久慈って真面目な本も読むんだな」

 メガネの山村に言われ、久慈は本から目を離さずに答える。

「これは、青井が面白いって言うから」

 そうして視線を下げていると影が出来るくらい久慈のまつげは長い。彫刻みたいによく出来た横顔だ。

彼の言う通り、その本は俺が昨日まで読んでいた歴史小説だった。ちょうど読み終わった時に横にいた久慈から「おもしろい?」と尋ねられ、「おもしろいよ、読んでみるか」と貸したのだ。

俺が、いつも一緒に昼飯を食べるメンバーの中で唯一水泳部ではなく、活動をめったにしない文芸部の部員だということや、よく本を読んでいることをよく知っているので、久慈の答えにみんなは納得したようだった。俺とクラスの同じ柏木は、焼きそばパンを頬張りながら、体を傾けて中を覗き込んだ。

「これだいぶ昔の本? なんか文章難しそうだね。久慈、ちゃんと理解できんのかよ?」

 すると、久慈は何故か自慢気に答える。

「大丈夫。わかんないとこあっても青井が説明してくれるもん」

 それを聞いて山村は笑った。

「青井って、まるで久慈の保護者だな。お母さんみたいじゃん?」

「はぁ? なんで父親じゃなくて母親なんだよ」

 困惑して俺も笑った。

 確かに久慈は図体だけはでかいけれど、中身は幼いところが多く、連れ立っている俺にいつも臆せず甘えてくる。俺も俺で元からお節介な性分があるので、彼のそういうところは嫌いじゃない。母親とまで言われるのは大袈裟だが、世話を焼いている自覚はある。

 しかし久慈のほうはどう思ってるのか気になってちらりと視線を上げると、彼は憤慨したように口を尖らせていた。

「えぇー? 違うよ、青井はお母さんじゃないよ!」

「お? じゃあ何なんだよ」

「青井は、僕の太陽だよ!」

 予想を超えた答えに、同級生たちはぎょっとして青冷め、俺はたまらず吹き出してしまった。こいつのこういう天真爛漫なところが楽しいのだ。


 深夜〇時過ぎに玄関のチャイムが鳴った。そんな時間に人の部屋を訪れる人間は一人しか居ない。

「あーおーいー。入―れーてー」

「はいはい」

 風呂から上がったばかりでタオルで頭を拭きながら出た俺は、玄関のドアを開けた。薄いコートを着た久慈が当然のような顔をして立っている。

「今帰り?」

「うん」

「お疲れ。飯は?」

「駅でラーメン食べた」

「じゃあ俺今出たばっかだから、風呂入れば。明日早いから先寝るけど」

「わかった、お風呂入る」

 部屋に上がった久慈はバッグを床に起き、着ているものを無頓着に脱ぎ捨ててさっさとパンツ一枚になると、風呂場に行ってしまった。俺はその服の中からコートを拾いあげ、埃をはたいてハンガーにかける。

 彼は平日だろうがなんだろうが前触れ無く俺の部屋を訪れ、当然のように泊まっていく。高校まで暮していた千葉を出て、大学時代からお互い東京で一人暮らしを始めたのだが、就職して俺の方が久慈の職場に近くなったせいで頻度が増えた。いい加減久慈が引っ越せば必要なくなるはずだが、物件探しが面倒だと言って動かない。

そもそものつきあいは高校一年から始まっているのでちょうど十年になる。気がついたらあっという間に月日が立っていたので恐ろしい。

 俺はその頃からぼんやり目指していたとおり教職についた。今は母校で現国を教えている。久慈は似て非なる職業、大手予備校で英語講師をやっている。大学時代からのバイトの延長で就職したのだが、これがなかなか評判のようで、広告チラシには必ず「カリスマ講師」として顔写真が載せられるくらいだ。

一緒にバイトをしていた頃、授業の様子を見ていたこともある俺は、その頃から彼の人気が不可解だった。何故なら久慈という男は仲の良い友人以外の、少し距離のある関係の人間に対しては無愛想で冷たい。ましてや生徒に対してなどはとても厳しくそっけない。塾だろうが学校だろうが一人ひとりの生徒を褒めて伸ばすタイプの俺とは真逆だった。

久慈本人曰く、「だって僕の仕事は受験のテクニック教えることだよ」と言っている程、淡々と仕事をしている。それなのに、有名校への合格者数と受講希望者の人気は都内でナンバーワンだそうだ。

「あれ。まだ寝てなかったの?」

 風呂から上がった久慈は、ベッドの上に座っている俺を見て首を傾げた。

「うーん、おまえが来たから眠気どっか行った」

「水曜日って朝早いんじゃなかった?」

「早い。服装チェックの日だからな。だからおまえ家出る時、鍵はポストに入れておけよ」

「うん。いつものところね」

 素直に頷いた久慈はさっきとは違うパンツ一枚で、久慈は台所に飲み物を探しに行く。うちに寄る度に通り道のコンビニでパンツを買ってくるらしいので、こいつの家にはいったい何枚パンツがあるのだろう。俺が久慈の部屋に行くこともよくあるが、箪笥の中まで見たことはないので謎だ。水泳部で鍛えあげられた背中を見つめる。最近は忙しくてプールへ行っていないと言うものの、長年培ってきた筋肉はそう簡単に落ちないようだ。

 俺は、その広い背中に向かって言った。

「おまえ、服くらいちゃんと着ろよ。風邪引くだろ。夏じゃねぇんだから」

 いつも貸しているスウェットの上下を投げつけた。久慈はのろのろとそれを身につける。

「毛布はここに置いとくから、寝るときちゃんとかけろよ。あと、髪もちゃんと乾かせ」

「あ、髪」

 思い出したように久慈は振り返る。

「青井、そろそろやってよ」

「あー、早いな。じゃあ今度」

 長年のつきあいが成せる言葉足らずな会話で済ませた。高校の時、初めて染めた時からずっと、久慈の髪は俺が染めてやっている。最初は金がないから市販のカラー剤を買って自宅で染めるというので手伝ってやったのが始まりだった。しかしそれ以降も彼は美容院に行かない。未だに子供の頃から馴染みの床屋で髪を切って、俺にカラーリングだけさせる。色もいつもだいたい同じようなアッシュグレーを適当に選んでいる。元々の髪の色が茶色い方なのでかなり明るい色の髪だけれど、くっきりした目鼻立ちのせいか悪目立ちもせずよく馴染んでいる。

 今度ドラッグストアに行った時にカラー剤を買ってこようと考えながら、俺はのそのそとベッドに上がって布団に潜った。横向きに肘をついて会話を続ける。

「こないだ、実家帰って来たんだよ」

「へー、珍しい」

「妹が婚約するんだって」

「ゆっちゃんが? えぇー、いくつだっけ」

「二十四」

「早くない?」

「どうだろ。相手は会社の先輩だってさ。うちの親喜んじゃって、すげーうるせーの」

 俺は、大騒ぎの実家の様子を思い出して苦笑した。

「ふーん」

 久慈は冷蔵庫にあったオレンジジュースをコップに注いで、一気に飲み干した。

「俺も早くしろってさ」

「えっ?」

 目を丸くする久慈に笑った。

「何驚いてんだよ。俺のほうが兄貴なんだぞ。二十六ならおかしくないだろ」

 しかし久慈は同い年のくせにピンと来ないようで、見当はずれのことを尋ねる。

「青井、結婚すんの?」

「あぁ? したくったって相手がいないの、知ってんだろ」

 前の彼女と別れてそろそろ三年になる。すっかり一人に慣れてしまって不自由ないのが困ったところだ。

「相手がいたら、するの?」

 久慈の質問は、やはりどこかズレている。答えるのが馬鹿らしくなって、聞き返した。

「おまえこそ、彼女作らねーのかよ」

 すると、久慈はむっとして目付きを鋭くした。

「どうでもいいだろ、そんなの」

 そんなふうに言う彼は、顔立ちも体つきも人の視線を奪うから、男子高時代はともかく、大学時代はしょっちゅう告白されていたし、ストーカーじみた事件に発展することも何度かあった。

今までつきあった彼女にしても、たいてい押し切られるように始まるものの、久慈が女の子の望むデートもせず、ゲームや漫画ばかりやっているのですぐに別れてしまうのだ。

「どうでもいいって。おまえ、前の彼女にもらったストールまだ持ってるじゃん。実はあの子のことまだ好きだったりするんじゃねーの?」

 淡い菫色のストールは、久慈の明るい髪の色に似合っていたのでよく覚えていた。

「違うよ、あれは……!」

 久慈は何か言いかけて口をつぐむ。

「なんでもない」

 不機嫌そうに言い捨てて空のコップを流し台に置き、小さなソファに座ってゲームを始めた。明け方眠くなったらそれをベッド代わりにする。今はまっているのは、何年も前の作品だった。今時このハードを使っている奴も少ないだろう。しかし久慈は飽きずに繰り返しプレイしていた。一度始めると集中してまわりのことなど一切届かなくなってしまうので、俺はこれ以上会話は続かないと判断した。

どうせ眠気が限界に来たらスイッチが切れたように転がって、起きたらケロッと忘れているだろう。些細な言い争いなどいちいち気にしていたら、長いつきあいなど続かない。

「おやすみ」

 一言声をかけて寝返りを打ち、明るい部屋に背を向けて目を閉じた。



 自分が食べるついでに簡単な朝飯をもう一人分用意して、家を出た。自分が生徒だった頃は、千葉から一時間半かけて通っていた高校だが、今は私鉄で二駅のところに住んでいるのでとても楽だ。

 職員室に入ると、自分の席に腰掛けるのを見計らったように、英語の大崎先生が声をかけてきた。

「青井先生、おはようございます」

「あ、おはようございます」

彼はひとつ年下だが、常に笑顔を浮かべている落ち着いた態度のせいで貫禄がある。机が同じ島になってからよく雑談ようになった。

「眠そうですね」

「眠いですよ。大崎先生はいつもちゃんとしてますよね。えらいなぁ」

「そうそう、保護者から電話有りましたよ。机の上にメモおいてあります」

 世間話に来たわけでなく、ちゃんと用事があったらしい。机の上に、きれいな字で書かれた付箋紙を見つけた。

「あ、どうも」

 それを剥がして礼を言うと、大崎先生はあからさまに好奇心を顔に浮かべて、自分の席からこちらを眺めていた。俺はそのメモの内容に首を傾げる。

「吉川……?」

 うちのクラスの吉川友哉の母親から電話があったようだ。吉川は理系選択で、特に問題の思い浮かばない生徒だった。母親は確か、息子とよく似て痩せた感じの、厳しそうな人だという印象があった。何の用件だか見当もつかないので、とりあえずメモに書かれた番号に電話をかけてみることにした。

「おはようございます、友哉くんの担任の青井と申します。お母様でいらっしゃいますか? 先ほどお電話をいただきまして」

 母親のシャープな声がはっきりと耳に響いた。

――こちらこそ、朝早く突然申し訳ございません。実は、友哉のことで先生にお伺いしたいことがございまして。

「はい。どのようなことでしょうか?」

――あの子、最近、学校で何か変わった様子はないでしょうか?

「えっ?」

 背筋に冷たいものが走った。

 言いにくそうに母親が言うには、春休みから外泊が増えているそうだ。本人に聞けば「友達の家に泊まってる」というばかりで、それ以上あれこれ言う年齢ではないと思うが、受験生であることと、もし女の子を巻き込んでいたら困ることが気になっているので、学校に電話をかけてきたということだった。

「いや……特に変わった様子には気づきませんでした。申し訳ありません」

 平和なクラスを受け持っていたため、この手の問題に今まであまり遭遇しなかった俺は、予想もしなかった事態に面食らっていた。

「あの、私のほうで少し調べてみますので、しばらくこちらに一度預けていただけませんか? 何かわかり次第。ご報告いたしますので」 

 あまり事を荒立てたくないらしく、言い淀んでいる母親に対して俺は食い下がった。最終的にこの電話のことは本人には内緒ということで落ち着き、電話を切った。今時の親は、誰より自分の子供に気を遣うものなのだ。

俺は受話器を置いて、ため息をついた。

「うーん、どうしよう」

 そのつぶやきを聞きつけて、大崎先生に尋ねられた。

「クレームでしたか?」

「あ、そういうんではなかったです」

「吉川ってそういえば最近」

 大崎先生は尖った顎を手で触りながら呟いた。

「えっ、何かありました?」

「こないだの中間考査、すごい出来たんですよ。たしか九十点台。それまで特に英語が得意な生徒ではなかったので驚いたんですよね」

「えっまさか、カンニング……」

 そこまで非行に走っているのかと不安になったが、大崎先生は鷹揚に笑った。

「まさか。私の作る問題でそんな器用なことが出来たら褒めてやりますよ」

「はぁ」

 彼がどんな問題を出しているのか知らないが、はいきりと断定されてほっとした。

「だから、けっこういい大学狙えるんじゃないかと思ってるんですけどね。っと、時間だ。行きましょうか」

 予鈴が鳴り始めたので、会話を打ち切って大崎先生は外へ出た。その後を追って二階へ上がる。

 俺の業務は勉強を教える以外の仕事のほうが多い。久慈の仕事ぶりとは対照的だ。勉強を教えるのはもちろんだが、出来るだけ生徒の面倒を見てやりたい。だから稼ぎが少なくてもタダ働きが多くなる。

「おはよー」

 教室に入ると、生徒たちはだらだらと立ち上がってちょこんと頭を下げてまた席に着く。

「えー、今日は特に何もないけど、こないだ渡した模試の申し込み書の締切りが明日までだから、絶対に忘れないように」

 朝のHRを簡単に終え、教壇を降りてから声をかけた。

「吉川、ちょっと」

 手招きすると、色白の、細身の生徒がきょとんとした表情でやって来た。

「なんですか?」

「おまえ、英語の成績上がったんだって? なんかあったのか?」

「えー、うーん、塾行き始めたから」

「へぇ、塾行ってるのか」

「夏期講習から通ってるんです。週二日」

「なるほど。偉いじゃん」

「受験生だし、別に」

 彼は照れ隠しで目をそらす。その様子に不自然なところは感じられない。しかし塾に通い始めたことと、外泊は関係ないだろう。

 いつの間にか吉川の後ろに、彼と仲の良い中村も立っていることに気づいた。この二人はたいてい一緒に行動している。

「中村、おまえも一緒なのか?」

 聞くと、中村は首を横に降った。

「いえ、俺は行ってません。昔から家庭教師やってもらってるんで」

「あ、そうか。そういえば面談で聞いてたっけ」

 中村の家庭は、この学校への寄付額も多い裕福な家庭だから、家庭教師というのも納得する。俺は、さりげなさを装って尋ねた。

「あのさぁ、おまえらってカノジョとかいるの?」

 すると彼らはものすごく不愉快そうな顔をした。

「いないっすよ」

「いません」

 それは、彼女がいるかいないかよりも、教師から深いことを聞かれたというのがうざくてたまらないという顔だった。

「男子校だからしょうがないか、わかるわかる」

「先生も、うちの出身でしたっけ」

「そうだよ。大先輩だからな。勉強以外の相談だって乗るから何でも言えよ」

「…………」

 さりげなくサインを出してみたけれど、彼らからは何の反応もなかった。一人で熱いことを言ってしまって恥ずかしい。俺は小さく肩を竦めて、そのまま二つ隣のクラスで一時限目の授業を始めた。

 それから一日の授業をひととおりこなしながら、やはり吉川のことが頭から離れなかった。塾通いというのは本当だろうか? 疑いだしたらキリがない。

いてもたってもいられなくなった俺は、帰りのHRが終わった後一旦職員室に戻ったものの、居ても立ってもいられず立ち上がった。

「あれ、青井先生、もう帰るんですか?」

「あ、えぇ、ちょっと」

大崎先生に声をかけられ、罪悪感を感じつつ、職員室を出た。しばらくの間、吉川が家に帰るまで見届けることを決意したのだ。

「先生、こんなとこでどうしたんですか?」

 玄関で待機していると怪しいのか、何度か生徒に尋ねられた。

「なんでもない。用が無いならさっさと帰れよ」

 寄ってくる他のクラスの生徒を構っているうちに、吉川が中村と帰る姿を見つけた。じゅうぶんに距離を取って後をついていく。

 資料を確認したところによると、彼の家の最寄り駅は保谷だ。目白駅から山手線で池袋で西武池袋線に乗り換える。中村は手前の大泉学園なので、一緒のルートのはずだった。うまく同じ電車に乗ってついていくと、池袋で彼らは別れた。吉川だけ改札を出る。

 慎重についていくと、南のほうへ向かって歩いていく。

「?」

 やがて、周囲に様々な制服姿の高校生が増えて来て、通りの右側に、大手現役予備校のビルが見えた。

「ん? あいつの塾って」

そこは、久慈の勤務先だった。英語というと、他にも担当はいるだろうけれど、久慈が教えている可能性は高い。後で久慈に聞いてみよう、と思っている間に吉川は建物の中に入って行った。ひとまず安心する。

ちらりとケータイを見ると、まだ五時半。これから一時間か二時間くらい授業があるのだろう。

俺は、斜め向かいにチェーン店の安いカフェを見つけて中に入った。窓側の席なら、塾の出入口がよく見える。コーヒーとホットドックを頼んで夕食にすることにした。せっかくの空き時間だが、個人情報保護の面で外で仕事は出来ない。こっそり持ち歩いているゲームをやって時間をつぶした。

 二時間弱で帰りの生徒たちが出てきたのでカフェを出た。うっかり吉川を見逃しそうになったのは、制服のジャケットとシャツを脱いで自前のTシャツとカーディガンを着ていたからだ。心なしか髪もいじり直しているような気がする。一見、うちの学校の生徒とはわからない格好になっていて、嫌な予感がした。

「あいつ、あんなめかしこんでどこへ行く気だ」

 駅について、山手線のホームに並ぶ吉川の後ろ姿に向かって舌打ちした。慌てて隣のドアから乗る。混み合った車両の中で、彼の頭を見失わないように気をつける。降りた駅は新宿だった。

「マジかよ」

 東口から歓楽街へ歩いて行く彼の後をつけながら、絶望的な気持ちになった。このあたりにはガールズバーからソープまで風俗なら何でもひと通り揃っているのだ。いったい目的地はどこなのかドキドキする。

 風俗なんて俺もまだ行ったことがないぞ、まさか高校生がそんなところに出入りしていたら世も末だ。

道端に立っている居酒屋の呼び込みやホストのキャッチを八つ当たり気味に睨みつつ、吉川を追った。木曜の夜だからか会社帰りの酔っ払いが道に溢れていて歩きにくい。

 しばらく大通りを歩いて行き、不意に左折して細かい道に入っていく。ふと、なんとなく違和感を感じた。明らかに周囲にいる人間の体型やファッションが違う。

「え、ここって、もしかして」

 まわりを見回して住所を確認すると思ったとおり二丁目。いわゆるゲイタウンだった。気づいた瞬間、吉川の姿が消えていた。

「わっ? しまった!」

 慌てて見回すが、見当たらない。さっきまで歩いていた辺りは雑居ビルだけだ。どこも似たような店で見分けがつかない。さっきまで吉川がいた場所に一番近い店の入口の前に立った。

「ここ、か?」

 BAR金糸雀という小さな看板をじっと見つめた。黒い扉は一見客を拒絶するように閉じている。

 傍らに客引きの女性のような男性がつまらなそうに立っていた。しかし彼は隣の、ミックス虹という店のチラシを差し出してきた。俺は、チラシを受け取ってたずねた。

「あの、今このへんで、黒いカーディガンの若い男を見ませんでしたか?」

 たずねると、彼は優雅な仕草で「この店に入ったわよ」と金糸雀のドアを指さした。

「え、そうですか……」

 聞きたくなかった答えにがっくりと肩を落とした。吉川は高校生のくせにこんなところで酒でも飲んでいるのだろうか。中に入るか入らないか、ドアの前で葛藤する。

 客引きの男はカン高い声で俺に畳み掛けた。

「何悩んでるのぉ? 入らないなら、うちの店はどう? 今ならタイムサービスでチャージ取らないわよぉ。あら、よく見ると貴方かわいいじゃない。サラリーマンには見えないわねぇ。何やってるのぉ? 教えてよぉ」

「えっ、いや、あの……スミマセン!」

おかしな展開になってきたので、たえられなくなった俺は、情けなくもそのまま駅まで一目散に逃げ帰ってしまった。



 翌朝、いつもと変わらない様子で吉川は教室にいた。楽しそうに中村や他の友人達と喋っていた。何も変わった様子は見られない。俺も、何も言わなかった。

 下校時間になっても今日は吉川の後を追跡することはしなかった。昨日溜めてしまった仕事を片付けた十時頃、俺は覚悟を決めてもう一度新宿へ向かった。金曜日なので電車も街も人で溢れていた。

 喧騒の中を昨日の道のりを思い出しながら歩き、再びBAR金糸雀の前に立った。今夜は隣の店の客引きはいなかった。客引きをしなくても、人が吸い込まれるように入っていく。入り口は小さいが、中は広い店のようだ。

「よし」

深呼吸して気合を入れ、勢い良くドアを開けた。

「いらっしゃいませ」

 落ち着いた男の声に迎えられた。客席が十二席ほどの小さい店だった。席はほとんど埋まっている。カウンターの中のバーテンダーに尋ねられた。

「おひとり様ですか? カウンターのお席へどうぞ」

「あ、どうも」

 緊張が外に出ていたのか、彼は続けて尋ねた。

「うちの店は初めてでいらっしゃいますよね?」

「は、はい」

 よく見ると、そのバーテンダーは驚くほど華奢で、モデルみたいにきれいな顔をしていることに気がついた。彼はじっと目を見て微笑んだ。

「私、マスターの棗と申します。ごひいきに。お飲み物はいかがいたしましょう?」

 席に座り、小さなメニューを渡されて慌てて考える。普段ショットバーなどには行かないので勝手がわからない。とりあえずビールと言いたいところだが笑われそうなのでやめた。

「えーと、あの、ジントニック」

 適当なカクテルを頼んだ。

「かしこまりました」

 隣席は女性二人客だったのでほっとした。しかしちらちらと見ているうちに、彼女らが人目もはばからず軽いキスを何度も交わしたのでぎょっとして目をそらした。

「どうぞ」

 細く長い指が、目の前にジントニックのグラス置いた。俺はそれを一口飲んで、顔をあげて思い切ってたずねることにした。

「あの、昨日八時くらいに、カーディガンを着た若い男が来ませんでしたか?」

 棗というマスターはゆっくり首を傾げた。

「……さぁ? それだけじゃちょっとわかりかねます」

「ええと、色の白い、生意気そうな、高校生で」

「高校生?」

 彼は驚いて目を見開いた。

「未成年はうちの店で飲めませんよ」

「そ、そうですよね」

 きっぱりと言われて俺はたじろいだ。

「すみません……」

 言葉を失って俯いた俺に、彼はくすっと笑った。

「どういった経緯か存じませんが、まぁ落ち着いてください。こちらは初めてのご来店のサービスです」

 クリームチーズとドライフルーツの乗った四角い皿を目の前に置かれた。

「ありがとうございます」

 おとなしくドライフルーツを摘みながら、店内を観察する。隣の女性同士のカップル以外は、みんな一人客のようだ。スーツ姿のサラリーマンや、大学生のような子たち。なんとなく皆マスターの一挙一投足に見惚れているような気がするのは気のせいだろうか。

 と、店の奥でメロディーが鳴った。電話だ。バーテンの彼がちっとも慌てないのを疑問に思っていると、店の奥にもう一人いることに気がついた。

「お待たせしました、BAR金糸雀でございます!」

 奥からしゃがれた声だけ聞こえてくる。

「あ、何? ふぅん。ちょっと待ってて」

 カーテンの向こうから子機を片手に顔を出したのは、分厚いメガネをかけたエプロン姿の男だった。めんどくさそうにバーテンダーが視線を送る。

「何か?」

「あ、棗さん。昨日の忘れ物、どこやったっけ?」

「忘れ物は棚の中と決めているでしょう?」

「あ、そっか、ハハ。めったにないから忘れてた」

 きつく注意されても気にすることない様子で彼は笑い、その場で子機の保留ボタンを押した。

「もしもし、吉川くん? ケータイあったよ。取っとくから、開店時間ならいつでも取りにおいで」

「!」

 俺はジントニックを吹き出しそうになってむせかえった。小さく棗の舌打ちが聞こえた。

「安藤、電話は裏でするように」

「あ、はーい」

 安藤と呼ばれた男は慌てて奥へ戻っていった。

 俺は手の甲を口元を拭って、棗を見上げた。

「やっぱり、吉川は来てたんじゃないですか」

 しかも名前まで知っていて、店員と気安い会話をしていたところを見ると、高校生だということもわかっていて隠したのだ。

「……アルコールは出していませんよ」

 彼は気まずそうに言った。まわりの客が興味津々でやりとりを注視しているが、構わず立ち上がる。

「私は吉川の担任教師の青井と申します。くわしくお話していただく権利があります」

「あぁなるほど。学校の先生でいらっしゃいましたか」

 棗はあくまでのらりくらりとしたペースで応じるつもりのようだ。彼は笑顔に戻って言った。

「どうぞ、何でもおたずねください。安藤、ちょっとの間、カウンターに入っていなさい」

「了解っす」

 安藤はエプロンを取ってカウンターの中へ戻ってきた。彼に他の客の相手を任せ、棗はフロアに出て俺の隣に座った。

「さて、何をお話すればよろしいですか?」

 間近にきれいな顔を寄せられてドキッとしたのを隠しながら、俺は気になることを頭の中でまとめる。

「ええと、あいつ、しょっちゅう来てるんですか?」

「そうですね、週に一、二回」

「そんなに? いつから?」

「八月半ばくらいでしたか。この街に初めて来て、うちの店に入ってみようと思ったのは、子供の頃金糸雀を買っていたからだと話してましたね」

「それで、高校生に朝まで飲ませてるんですか?」

「だから飲ませてないって言ってるじゃないですか」

 棗は整った眉を寄せて悩ましげにため息をついた。

「ただ、ジュース片手に相談を聞いているだけです」

「相談って」

「こんな場所にある店ですから、悩める青少年を無碍に放り出すのは心が痛みます」

 意味心な言い回しに俺は戸惑った。こんな場所、というのはゲイタウンという意味だろうか。

「それって」

 俺は言葉に詰まって言い淀んだ。

「あいつは、その、なんていうか」

 ゲイなのかと、はっきり聞いて良いものか迷った。

「好きな人がいるそうですよ」

 棗はさらりと言った。

「えっ」

「こういうことを友達や学校の先生に相談するのは、勇気がいるんじゃないですか。それよりも、理解のある大人と喋りたいと思う気持ちは自然でしょう」

「う」

 棗の言うことはもっともだ。今でさえ俺はうろたえてしまっている。本人を目の前にしてこんな態度を取ってしまったら、きっと傷つけてしまう。情けない。

 俯く俺に、棗は追い打ちをかける。

「それとも、未成年お断りだと言って、外にいる悪い大人の中に放り出したほうが良かったでしょうかねぇ? 彼みたいにかわいい子なら、いくらでも手ほどきしてあげたい輩がいるでしょうに」

 煽るようにとんでもないことを言う。

 確かに、教師だからというだけで、どんな分野でも相談に乗れるわけじゃない。

 だが、俺にだって意地がある。生徒を思いやる気持ちを負けるわけにいかない。

「わかりました。今のところはあなたの言葉を信じます。私の生徒の力になってくださってありがとうございます」

「いえいえ」

「でも、生徒の相談に乗るのは私の役目です。今度、吉川がこの店に来たら、すぐ連絡してください!」

 コースターの裏にケータイの番号を書いて棗につきつけた。棗がそれを微笑みながら素直に受け取ったのを見届けて、残りのジントニックを飲み干し、店を出た。



 店を出た後早歩きで駅まで歩いても、ざわついた感情がおさまらなかった。どこかでもう一杯飲むか家に帰るか考え多ものの結論が出なかったので、久慈の家に行くことにした。

 一応断りのメールを入れてみるが、すぐに返事はない。きっと気づいていないのだろう。それほどまめにケータイを確認する方ではないから、よくあることだ。

 こだわりの少ない久慈は、俺よりも稼いでいるくせに、俺よりも安くて古いボロアパートに住んでいる。俺の家に入り浸るのはそれが一因かもしれない。

 軋む階段を上り、風雨で色褪せたドアに手をかけると、鍵が開いていることに気づいた。これもまた、よくあることなので驚かない。

「久慈、入るぞ」

 開けてから言った。

「あ、青井」

 不機嫌そうな顔をした久慈が部屋の中に突っ立っていた。まだスーツのジャケットだけ脱いだ格好だった。帰ったばかりなのかと思っていると、風呂場のほうからガタッと物音がした。

「あれ? 誰か他に人いるの?」

 足下を見ると、男物のスニーカーがあった。

 久慈は無言のまま思い切り眉根を寄せて、それからちらっと風呂場の方を見た。ちょうど引き戸が開いて、中から出てきたのは……。

「よ、しかわ?」

 濡れた髪をタオルで拭きながら半裸で風呂場から出てきたのは、いつもは青白い顔を火照らせている吉川だった。

「先生? 何でここに」

「それはこっちのセリフだ!」

 俺は瞬間的に頭に血が上るのを自覚した。

 大事な生徒が、久慈とはいえ他人の男の部屋で、半裸でいる。しかもゲイ疑惑があって、朝帰り癖のある渦中の問題児だ。

「どういうことだよっ!」

 思わず大声を上げると、久慈は大きな目をきょとんと丸くした。

「え、こいつ、おまえの生徒?」

「そうだよ! 何でここにいるんだ!」

「だって、家族の旅行中に家の鍵も財布もなくしたっていうから」

「はぁぁ?」

 睨み合った俺と久慈の間から、いつのまにか服を着ていた当事者の吉川は、鞄を引っつかむようにして逃げ出した。

「おい! 逃げるな!」

 外の階段を駆け下りて一目散に走る吉川を俺は全速力で追いかけた。久慈には構っていられなかった。

「この大嘘つきが!」

「ひっ」

 いくら高校生とは言え、体力のない受験生に追いつくのは難しくなかった。ジャケットの裾を捕まえたので吉川は転びそうにつんのめり、なんとかこらえて足を止めた。

「……はぁっ……は……っ」

 普段体育の授業でもまともに走らないだろう彼は、ぜいぜい息を切らせて俯いた。乾かしきれていない黒髪が外灯に照らされて光っている。その間から覗く白い首筋や、黒目がちの瞳は、やけに艶っぽくみえてしまうのは、意識しすぎなのだろうか。

「……とりあえず、髪ちゃんと拭け。風邪引くぞ」

 こちらも肩で息をつきながらなるべく冷静を装って言うと、吉川は素直にコクンと頷いて、鞄と一緒に持ったままだった久慈の家のタオルで髪をぐしゃぐしゃと拭いた。

「しっかり拭いたか? よし。親が旅行中っていうのは嘘だよな?」

 また吉川はコクンと肯いた。

「鍵と財布は?」

「……あります」

「だろうな。よくそんないい加減な嘘に久慈の奴もダマされたもんだよ」

「久慈先生と知り合いだったんですか」

「高校からの同級生だ。あいつも、うちの高校大学出身だぞ。知らなかったか」

「知らなかった」

 悔しそうに吉川は顔を歪めた。

「何でそんな嘘ついて、久慈のとこに行ったんだ? あいつと仲いいのか? 塾で教わってんだろ?」

「全然。勉強のこと以外喋ってくれない。だから、いっぱい勉強したけど、やっぱ冷たい……」

 英語の成績が急上昇した理由はそれか。

 それってつまり。

「……おまえ、久慈のことが好きなのか?」

 勇気を振り絞って聞いた青井に、吉川は肯定も否定もしない。

 何とかいえよ、おい。

 吉川も困っているのかもしれないが、こっちだって同じくらい困る。

 沈黙は肯定と受け取って、質問を変えた。

「あいつのどこがいいんだよ」

「わかんない。なんか、わかんないけど、喋り方とか、声とか、滅多にないけどたまに笑ったとき顔とか、大きくてきれいな手とか」

「わ、わかったわかった!」

 今度は真面目に答えられて焦ってしまった。そんなふうに久慈のことを意識したことがなくて、聞いていて恥ずかしい。

 見れば、吉川は真っ赤な顔をして、けれども頑なな表情で俺を睨んでいる。

 あぁこれは駄目だ。

 これは恋の病というやつだ。

 彼は小さな声で言う。

「先生が来なきゃ、チャンスだったのに」

「チャンスってなんの」

 吉川は恥ずかしそうに視線を反らせた。

「おいおい……」

 どうやら風呂入った後どうにかして誘惑するつもりだったらしい。心の中で、このクソガキと呟いた。俺があの場に居合わせなかったら、どうなっていたのか、考えるだに恐ろしい。

「おまえ、二丁目の店のあのマスターに変な入れ知恵されたんじゃないだろうな」

「ちが! えっ、先生、棗さんのことも知ってるの?」

「そっちは知り合いでもなんでもない。おまえが未成年の行っちゃいけない店に出入りしてるようだから調べたんだ」

「なんだ。別に、悪いことしてないよ。棗さんは酒も飲ませてくれないし。ただ、真面目に話を聞いてくれるだけだよ」

「そんなこといったって、補導でもされたら店の方も困るんだぞ。だから、ああいう店に行くのは今後一切禁止だ」

 きっぱり断罪すると、吉川は不満そうに口を閉じた。

 俺はため息をつく。

「頼むから、もう少し考えて行動してくれよ。おまえはまだ十七で、しかも受験生なんだからな。まだ子供だというつもりはないし、恋愛だって自由だ。だけど、今は他にもっとやるべきことがたくさんあるだろ」

「…………」

「行くぞ」

「どこに?」

「お前の家まで送り届けるんだよ」

「一人で帰れるよ」

「アホ、この期に及んで信用できるか」

 突き放すと、吉川は言い返すこともなくとぼとぼ歩きだした。並んで駅の方へ向かう。

 住宅街の狭い道は、こんな真夜中にすれ違う人がいるはずもなく、静まり返っている。遠くで猫の鳴き声が短く聞こえた。

 話しかけても喋らなくなってしまった吉川をあきらめて、西武新宿線沿線の彼の家まで送り届けた。

 玄関の前で、俺は言い含めるように言った。

「明日ちゃんと学校来いよ。また、ゆっくり話そう」

「いくら話しても、先生にはどうせわかんないよ」

 ぽつりと言った吉川の言葉に、俺は少なからずショックを受けた。

 真夜中にたたき起こされた両親は、びっくりした様子で出てきて、挨拶しているうちに吉川はさっさと家の中に消えてしまった。

 その場で思いついた言い訳だが、友哉くんは塾で知り合った友人の家にあがりこんでいたと俺は説明した。両親は担任教師がそこまで息子の問題を追求してくれたということから、とても感謝してくれたが、真夜中だったので、幸いすぐに解放された。

 俺はとてつもない疲労を感じて、自分の家までタクシーを使ってしまった。久慈にも連絡してフォローを入れるべきだと思ったが、眠くてケータイを操作する気になれなかった。車を降り、アパートに戻ってベッドに直行して倒れ込んだ。こんがらがった現実は明日ほどこうと誓って眠りに落ちた。



 翌朝、吉川はいつも通り登校していた。何も変わらない様子で中村たち友人と喋り、俺のほうを見ても表情ひとつ変えなかった。なかなかふてぶてしい。

 久慈には通勤途中にメールを送っていた。

“昨日は悪かった。今夜行って説明するから”

 しかし返事はなかった。いくらなんでも気づいていないことはないだろう。腹を立てて無視しているのだと思うと、気が滅入る。

 そりゃ怒るか。

 吉川が家にいた時点で既に機嫌が悪そうだった。それに加えてあんな夜中に騒いだのだから。

 久慈が帰る時間を見計らって、再びアパートを訪れた。久慈は既に部屋で黙々とゲームをしていた。

「うちの生徒が迷惑をかけて申し訳ない」

 部屋に上がるなり謝った。

「別に、僕の生徒でもあるからいいけど」

 久慈は顔を上げずに言った。

「あぁ、そうだったな。夏から?」

「うん、たぶん夏期講習から。授業以外の時間に質問に来るのは珍しいから、顔と名前覚えてた」

 普通は覚えないのが当然というようにそっけなく言った久慈は、俺を真正面から見据えた。

「で? 昨日青井は、僕があのガキをここに拉致監禁してるとでも思ったわけ?」

「まさか、そこまでじゃないよ」

 慌てて言い返す。やはり久慈は相当怒っている。

「そんくらいの勢いだったじゃん。過保護すぎ。小学生じゃあるまいしさ」

「それは謝る。ほんとごめん」

「あいつが鍵や携帯なくしたっていうの、嘘だったの?」

「え」

「大嘘つきって叫んでたじゃん。すごい響いてた。近所迷惑」

「あぁ、うん、ごめん。嘘だった」

「どういうつもりで俺を騙したのか、理由知ってんだろ? 言えよ」

「う」

「すごい迷惑したんだけど」

「うん」

 言葉につまって俺は視線を彷徨わせた。壁に並べられているアメコミのキャラクターフィギュアと目が合う。笑われているような気がする。

「えーと、おまえ、女子生徒から告白されたりしたことある?」

 急に話を変えたので、久慈は眉間に皺を寄せた。

「あるよ。何度か」

「断ってんだよな」

「当たり前だろ」

「何て言って断ってんの?」

「…………」

 久慈はそれには答えず、吐き捨てるように言う。

「あんなの、子供がかかる、水疱瘡とか麻疹みたいなもんだろ。一時的な熱病だよ」

「まぁ、俺らから見たら子供だけど、あいつらなりに一生懸命で、真剣なんだと思うんだよ。だから俺は最初から否定するんじゃなくて、ちゃんと応援してやりたいと思うんだ」

「馬鹿じゃないの」

 久慈はにべもなく言い放ち、そして何か考えるように視線を上げた。

「あいつ、俺のこと好きなの? そういうこと?」

 正面から聞かれて俺は言葉に詰まった。

 しかし久慈はその沈黙を肯定と受け取った。

「それでおまえは、あいつの味方したいから、俺にやさしくしろって? 俺があいつを好きになってやればいいわけ? そんなに良い先生って思われたいんだ、さいてーぇ」

 見たこともない冷たい視線を向けられて、俺は恥ずかしさにカァっと顔が熱くなった。確かに久慈の言うとおりだ。最低だ。

「ごめん」

「二度目だよ」

 久慈はぼそっと言った。

「え」

「一度だけだったらまだよかったのに」

 何のことだかわからない。黙っている俺に、彼はまたきっぱりとした口調に戻って言った。

「僕、生徒に告白された時はいつも、好きな人がいるって言ってるから。だからあいつにもそう言っておいてよ」

 え、誰? と今聞ける空気ではなかった。

 知らなかった、そんなこと。

 気になるけれど、もっと怒らせてしまうのはイヤなので立ち上がった。

「頭冷やすわ。帰る」

 久慈は何も言わなかったので、踵を返して部屋を出た。泣きたい気持ちをこらえて階段を降りた。


 よく考えたら、仕事や他のことで何があったとか愚痴を言いたい時、俺はいつも久慈に話していたんだ。だから久慈との間のことを話す相手なんかいなくて、俺は無意識に新宿に向かっていた。

「いらっしゃいませ。おや、先生」

 ドアを開けると、まだ誰もいない店の奥で、棗が微笑んで迎えてくれた。まだ賑わうには早い時間なのだろう。

「どうも」

 ちょっと気まずいが、会釈してごまかす。

「何でもいいから一杯」

 そう言ってカウンターの真ん中の席に座った。

「何でもいいって。うちはいい酒もおいてるんですよ」

「じゃあ水割り」

「かしこまりました」

 グラスを用意しながら、彼は言う。

「まだあれから吉川くんは来てませんけど」

「だろうな」

「何かあったんですか?」

「吉川の好きな相手って塾の講師って言ってただろ?」

 棗は静かに頷いた。

「そいつ、俺の昔からの友達なんだ」

「それはそれは、縁ですねぇ。聞いたところによると、とても素敵でクールな人だとか」

「そんなこと言ってんのかあいつ。俺は見慣れすぎててわかんねぇけど」

 差し出されたウィスキーを一口煽って、俺は深い溜息をついた。

「俺、アンタに見栄を切ったものの、自分がいい先生になりたいだけで焦っちゃって、そういうのが吉川には見透かされてたのか信頼してもらえないし、久慈の気持ちも考えてやれなくて怒らせちゃったし、もう最悪」

「怒らせたんですか」

「うん。めちゃくちゃ怒らせた。今までで一番かも。あんまり親しい相手だからって疎かにしてたんだ」

「結局のところ、その二人がうまく行く可能性はないんですか?」

「ないよ。それは、俺が絡まなくても、元々」

「どうして? 同性同士だからですか? それとも吉川くんが未成年だから? 今時どこにでも転がってる話だと思いますけどね」

「いや、どこにでもはないと思う」

「いや、俺が言いたいのはそういうことじゃなくって。なんていうか、吉川と久慈じゃ想像出来ないから」

「抱いたりすることが?」

「だ……っ」

 誰が? 誰を?

久慈が? 吉川を?

「だっ、ダメに決まってんだろ! そんなの! 絶対ダメだ!」

 すると棗はたまらなくなったように吹き出して、くすくす笑い出したので、俺は眉を上げた。

「な、何がおかしいんですか」

「すみません。先生は、どっちに嫉妬してらっしゃるのかな、と思って」

「はぁ?」

 何を言われているのか意味がわからなかった。

 どっちもなにも。

「嫉妬? なんか、してない」

 俺は自分の感情を確かめながら言葉を探した。

「あぁもう。正直言っちゃうと、俺、恋愛ごとなんて苦手なんだよ。今まで自分のことだってろくに悩んだことねーもん」

「それは幸せなことで」

「悩むような複雑なことに近寄らないからね。だからこんな、同性同士なんて、難しくってどうしていいかわからないよ」

 見上げると、棗はからかう様子もなく微笑んでいた。あぁやっぱりこの人きれいな顔をしていると改めて思う。女性的でもあるが、芯のある強い目をしていて、吉川が頼りにしていたのはわかる気がした。

 彼は言う。

「そこはあんまり難しく考えることないんじゃないですか。男だろうが女だろうが体を重ねることなんて簡単なんですから」

「簡単、ですか」

「そうですよ、こんなふうに」

 きれいな顔が近寄ってきても警戒しなかった。

 だから、ごく自然に軽いキスをされて驚いた。

「……っ!」

 あまりに驚きすぎて、固まって動けなくなった。

 数秒たってようやく羽のように柔らかい唇の感触が蘇り、体中が熱くなった。

「なっ、なにすっ」

 また棗は俺の反応にけらけら笑った。

「気持ち悪かったですか?」

「ないけどっ、でもっ」

「でも心を重ねるのはずっと難しいことですからね。どうなるかなんて、他人はもちろん本人たちにもわからないものですよ」

 達観したような棗の言葉は、波紋を描いて胸の奥に沈んでいった。



 棗に変なことを言われ、変なことをされたせいで、久慈を怒らせた落ち込みからは少し浮上できた。頃合いを見て会いに行けば、何事もなかったように元に戻ると思う。この十年間、些細なことで口喧嘩した後はいつもそうだったからだ。今回もきっと同じ。

 高校の時から変わらない。

 カップにお茶を淹れてきた俺は、椅子を少し移動させ、職員室の窓から校庭を見下ろした。

「青井先生、何見てるんですか?」

「あ、大崎先生」

 声をかけられて俺は顔を上げた。

「ここの学校の出身なんで、時々在学時のことを思い出しちゃうんですよ。プールとか」

「水泳部だったんですか?」

「いや、俺は文芸部だったんですけど、仲の良い友達がみんな水泳部で……」

「へぇ?」

 大崎先生は首をかしげた。


 久慈と初めて喋ったのは、高校一年になって最初の中期試験の前のことだった。飲み物を買ってから帰ろうと学食の自販機でジュースを買った。取り出し口に落ちてきたペットボトルを受け取ろうと身をかがめた目の前に、現代文の教科書が落ちてきた。

 拾って顔を上げると、テーブルで勉強しているグループの一人が、こっちを見ていた。

「ごめーん、それ俺の」

 彼はだるそうに立ち上がり、俺の前までだらだらと歩いてきた。

 俺は教科書を手渡しながら聞いた。

「何で投げたの?」

「わかんないから」

 口を尖らせて言うのが駄々をこねる子供みたいで、俺は軽く吹き出した。

「現代文なんて簡単じゃん。どれがわかんねぇの?」

「えぇ? 詩とか短歌とかわけわかんないよ。何で一行しかないのに、内容がたくさんあるの? なんかの暗号なの?」

「暗号って」

わかるようなわからないような文句に、俺はちょうど付箋の貼ってある試験範囲の一行目を指差した。

「例えばこれだったら、ヒヨドリってのは野鳥だろ? 嘴の鋭いやつ。その鳴き声が苦しそうで悲しそうで、聞いていると胸をかきむしられる気がするんだけれど、全くそんな悲哀のない銃の音で死んでしまう切なさ、みたいな? わかる?」

「なんとなく」

「そっか? この句を作った人は女でさ、そんな昔の人じゃないんだって。俺は他の本で見た、桃の歌のほうがいいなって思ったんだけど」

「桃?」

「うん、桃。あまやかにに匂へるものはまろびゐつ密毛ふかき青き桃白き桃」

 俺は、以前本で読んだ葛原妙子の句を思い出しながら口にした。彼は首を傾げ、それから言った。

「なんか、エロイね」

「だろ?」

 二人で声を上げて笑った。

「ふぅん。現代文って答えが曖昧だから嫌いって思ってたんだけど、青井が教えてくれたらわかる」

「えっ何で俺の名前知ってんの?」

 すると彼はきょとんとして、俺のジャージに大きく書かれた名前を指さした。恥ずかしくて俯く俺に、彼はにっこり笑って、「俺は久慈宏介」と言った。

 彼が、数学も英語も優秀で、唯一苦手だった現代文や古文も俺が教えたおかげで平均点が取れ、総合的には俺を遥かに上回る順位だったというのは、試験が終わってからわかったことだった。

 それ以来、久慈は部活もクラスも違う俺に懐いてしまった。朝は駅で待ち合わせ、昼は一緒に、帰りも水泳部が終わるまで俺が待つ羽目になった。

 おかげで、俺はカナヅチだというのに、同じ学年の水泳部員たちにも俺は仲間扱いされてしまうようになった。


 ある日天気が良かったので、更衣室の外の花壇に座って本を読みながら久慈を待っていると、先に出てきた同じクラスの水泳部員・柏木が声をかけてきた。

「久慈の奴、コーチに居残りさせられてるからもうちょっとかかるぜ」

「そ? サンキュー」

 しかし柏木はそのまま帰らず、俺の隣に腰掛けた。

 俺は姿勢を向きなおして、尋ねた。

「どうかしたか?」

「おまえ、よくあんな奴とつきあってられんな」

「あんな奴って誰」

「久慈だよ」

「なんかあったの?」

 どうやら俺相手に愚痴を言いたいんだとわかり、読みかけの本を閉じた。

 彼が言うには、久慈が一年生にも関わらず、コーチの特別トレーニングに参加させられているのだという。なのに久慈は、コーチや先輩に悪態をつき、やる気のない態度を取るので、他の部員の不満が溜まっているらしい。

「こないだも急にいなくなったと思ったら、学食からアイス買ってきててさ、プールサイドで食ってんの。あたまおかしくね?」

「う、うん……」

 久慈は普段から甘いものが好きで、元々は太りすぎだから親にスイミングスクールに送り込まれ、今もお菓子を食べるために泳いでいるものなのだと言っていた。特にアイスが好きで、泳いで疲れた時に食べるアイスが最高なのだと。

「いつも無表情で、わけわかんない行動して、それでいておいしいところだけ持ってくんだからたまんねーよ。女ならまだしも、でかい男が不思議ちゃんって、イラつくだけなんだよ」

 怒りを顕わにする柏木に、青井は苦笑した。

「何でおまえ平気なんだよ」

 尋ねられ、俺は眉をひそめる。

「え、だってあいつカワイイし」

「あぁ?」

「素直だし、やさしいし」

「どこがだよ」

 柏木は俺に同意してもらいたかったのかもしれないが、共感を得られなくてがっくり肩を落とした。

 不思議ちゃん、か。

俺も久慈と同じワンダーランドの中にいるから、わからないのかもしれないなと思った。

 柏木が去った後、三十分程して、久慈が更衣室から出てきた。歩くのもめんどくさいように、へとへとに疲れていた。

「お疲れ」

「もうやだー。死ぬー。部活やめるぅ」

 珍しくやめるとまで言い出した久慈に、俺はちょっと考えた。久慈が部活をやめたら帰りを待たなくて済むのだが。

「俺、大会とかでおまえの泳いでるとこ見んの好きだから、もったいないな」

「えっ、ほんと?」

「うん、きれいでかっこいいじゃん」

 真剣に言うと、久慈は珍しく赤くなって照れた。耳まで真っ赤にして俯く。

「あ、ありがと。青井がそう言うんだったら、もうちょっと続けようかな」

 一転して笑顔になった久慈に、俺は言った。

「おまえ、いつもそういうふうにしてろよ」

「え? そういうって?」

「笑ったり、表情豊かにさ。他の奴らの前じゃムスっとしてるだろ。おまえの映ってる写メなんか、いっつも無表情」

「そんなの、いいよ」

「よくないよ」

 柏木や他の友達にも、久慈の良いところが伝わればいいのにと思って本気で言った。けれど、同時に、こういう久慈を俺だけが知っていることが嬉しかったのも事実だった。


 しかし、大学に入ってからは少し環境が変わった。久慈は青井に合わせて同じ大学の同じ教育学部に余裕で入ったので、一緒にいる時間は増えたくらいだったが、女の子たちが久慈を放っておかなかった。

 女の子というのはすごい。男友達が気づかなかった久慈の良いところを本能的に見つけてしまうのだ。

 俺は正直言って羨ましいと思いながらも、お互い早く彼女が出来たらいいと思っていた。

しつこく勧誘されて入ったオールラウンドサークルにはすぐ行かなくなってしまったが、そこで知り合った同い年で関西出身の女の子と仲良くなった。親密になるにつれ、久慈のことも気になって世話をやいた。

「久慈、こないだ教室で喋りかけて来た子と結局遊びに行ったの?」

「行かないよ、だってうちに来たいって言うんだもん。俺のフィギュア壊されたらいやだもん」

「触られないように言えばいいだろ」

「あとね、ジャンプの漫画読んだことないんだって? 信じられる? じゃあ何話せばいいのかわかんないよ!」

「女の子ならあり得るだろ……」

 呆れた俺は、お節介にも力説したのだ。

「あの子かわいいじゃん。つきあえばいいのに」

 そう言うと、久慈は神妙な顔つきをして考え込んだ。

「青井がそういうなら」

 結局、彼女とつきあったのだ。あまりにもゲームばかりしている久慈に愛想がつきて、彼女が振るまで。


 あれ?

 あの時も、俺はあいつの恋愛に口出ししたんだ。

「……二度目ってこのことか?」

 もう少しで何か大事なことに気がつきそうで、もどかしい気持ちで外を眺めていると、隣から大崎先生が話しかけた。

「今夜は月が変わった色をしていますね」

 言われて、俺は月をじっと見つめる。いつもより少し赤く見える。そのせいか、眼下に見える濁ったプールの水面も光っている。

「そうですね、プールがまるで菫色っていうか」

 菫色と言って、再び久慈を思い出した。あのアッシュグレイの髪によく似合う色だ。

 そういえば、また髪染めてやるって約束したっけ。

 大崎先生が俺の方を向いて言った。

「どうです? これから一杯くらい」

「すみません、ちょっと用事が」

「残念。それじゃまた今度」

 無性に久慈に会いたくなった。

 タイトルも入れずに、「どこいんの?」とメールした。けれど相変わらず返事はない。

「ちくしょう。出ろよ」

 「好きな人がいる」って言っていた。誰だろう。女の子の話なんて聞いたことがないから、きっと俺の知らない人なんだろう。

 ケータイの画面に、「好きな人って誰?」と打って、消した。

 なんでこんなに胸が痛くなるのかわからない。

 独占欲ってやつかな。

 あいつが、誰かに執着するなんていやだ。

 それが例え自分の生徒でも、なんて。

 棗が言っていたとおりだ。俺は、久慈のことを勝手に自分のものだと思ってた。だから急に誰かに取られそうになって嫉妬してたんだ。

「俺、あいつのこと好きなんかな……?」

 自分で自分がわからなくて、苦しい。


 とぼとぼと家に帰ると、部屋の前に人影があった。

「あ」

 久慈だった。菫色のストールを巻いて、寒そうにドアに寄りかかっていた。俺が駆け足で近寄ると、姿勢を戻した久慈は俯いて言った。

「こないだは、ごめん。青井」

「いや、謝るのは俺のほうだし!」

 俺は大きく手を振って、さっさと仲直りを済ませた。

 部屋の中に久慈を押しこんで、電気ケトルで湯を沸かす。

「お茶でいい?」

「うん」

 ティーバッグでほうじ茶を淹れながら、俺は話し続けた。

「俺、思い出したよ。二度目っての。昔もおまえの気持ち無視して押し付けたことあったよな」

 久慈はほうじ茶の入ったカップを受け取って言った。

「大丈夫」

「大丈夫って」

 俺は苦笑した。

 カップを持って、久慈の前に座り直す。

「本当にごめん。俺、おまえと一緒にいすぎて、家族より親しい気持ちになっちゃっててさ。おまえにだって事情とかいろいろあんの当たり前なのに」

 久慈は黙ってしまった。

 もう怒ってはいないのだろうが、少し気まずい。

「腹減ってる?」

「うん」

「じゃあ俺作るわ。うどんでいい?」

「うん」

 久慈の沈黙を誤魔化すように音を立ててうどんを作った。麺を茹でるだけなのであっという間に出来る。

 小さなテーブルで向い合ってうどんをすすった。音のする食べ物で良かったと思うくらい、久慈は喋らなかった。食べ終わって洗い物をした後、座ったままゲームにも漫画にも手を伸ばさない久慈に耐えられなくて、明るい調子で話題を振った。

「俺、おまえに好きな人がいるっていうのも知らなかったよ。全然言ってくれないしさ」

 すると、久慈が弾かれたように顔を上げた。

「いつからだよ?」

 俺は自分から聞いておいて、聞きたくない気持ちが込み上げてきて、無理矢理笑顔を作って聞いた。

 何故か久慈もまた、つらそうな表情で、ぽつりと答えた。

「十年前から」

「え?」

 驚いた。十年前っていうと、俺と出会った頃から? 頭が真っ白になってしまって、次の質問が出てこなかった。幾つだとか出会った場所だとかどんな関係だとか直接的なことを聞く勇気が出てこない。

「長いな。こ、告白とか、しないの?」

「片想いだから、したらふられるもん。しない」

 久慈はきっぱり答えた。

「そんなの、わかんねーじゃん」

「わかるよ。絶対言わない。一生言わない」

「おまえはそれでいいの?」

「いい。ずっと一緒にいたいから。嫌われるより、ずっといい」

 久慈は、ぎゅっと眉を寄せ、俺を睨んでいた。

 俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。

 十年前から。ずっと一緒。

 それって。

「……言えばいいのに」

 俺の言葉に久慈は動揺したのか肩を揺らした。

「だって、もしも、もしもの話、それが俺だったら、おまえにそんな好かれてすげぇ嬉しいと思うから」

 捲し立てると、困ったような顔でじっと見つめてくる。でかい図体をして、子供のようだ。

「青井」

「うん」

「いいの、言っても」

「うん」

「十年ずっと我慢してたのに」

 久慈は言った。

「あのストールだって、青井が、似合うって言ったからずっと使ってたんだよ」

「ごめん。気づかなくて。でも今やっと気づいたから、ちゃんと、言って欲しい」

 すると久慈は泣きそうな表情で、聞いたこともない弱気な声で言った。

「青井、好き。ずっと。大好き」

 そして肩に額を摺りつけて来た久慈の後頭部をよしよしと撫でてやる。

「俺も……」

はっと顔を上げた久慈が、何か言おうと口を開いた。

「あ、やっぱナシ」

「え」

「言っちゃダメ!」

「えっ?」

「だって俺、そんなことしたら吉川を裏切ることになる。教師失格だ。だからダメ!」

 とたんに久慈の目が吊り上がった。

「はぁぁ?」

「青井のばぁーっか!」

 久慈は叫んで出て行った。

 結局また怒らせてしまった。




“俺と生徒のどっちを取るの?”

 朝起きたら直球のメールが来ていて立ち眩みがした。

 無邪気さってこわい、と初めて実感した。

 いつも通り学校に着いて午前中の授業を終えた俺は、昼休みに教室へ戻り、昼食を食べる場所を探していた吉川を真正面から捕まえた。

「ちょっといいか。話があるんだ」

「何ですか」

 眉を潜めつつも従順に教室の外へ着いて来た。他の生徒たちが心配と好奇心の目で見ていたが気づかないふりをして人気のないPCルームに連れて行った。

「悪いな、メシ食う前に」

「さっきパン食ったから平気です」

「あっそう。あれから、塾行ってるか?」

 机に手を着いて、俺より少しだけ低い吉川の目線に高さを合わせた。

「行ってます」

 彼は目を伏せて答えた。

「久慈とは……」

「前と同じ。勉強のこと以外話してくれない」

「そうか」

 それでも果敢に挑むおまえがすごいよ、と言いたかったが、それよりも言わなくてはならないことがあるので俺はぐっと唇を噛んだ。

「先生、おまえに謝らなくちゃいけない」

「何の話?」

「久慈の話だ」

「どういうこと?」

「俺、も、あいつのことが」

 声が震える。

「久慈が、好きなんだ」

 言った。久慈にも言ってないことを。

 吉川に言う方が先だと思ったのだ。

「は?」

「だから、おまえを応援してやれない。ごめん。本当にすまん」

 吉川はぽかんと俺の顔を凝視していた。

「殴ってくれてもいいし、土下座でも何でもする」

 言葉だけではしょうがないので、俺は本当に膝と手のひらを床につけた。プライドも何もかも捨てて吉川の顔を見上げる。

「許してくれ、吉川」

「……バカみたい」

 ようやく驚きが去った後、吉川は呆れたような目で俺をねめつけた。胸が痛い。呼吸も苦しい。罪悪感で押しつぶされそうだ。俯いて、さらに額が床につくくらい頭を下げたその時、出入口の扉が外から勢い良く開けられた。

「!」

 振り返った吉川を通りすぎて近づいて来たのは中村だった。驚いて上半身を起こしていたの間近まで近づき、胸元を掴んで引っ張り上げられた。

「!」

 高校生の体力は馬鹿に出来ない。不意を突かれた俺が引っ張られるまま立ち上がったところを、思い切り右から殴られた。

鈍い音がした。

ろくに喧嘩の経験もない俺は、痛いというより熱いという感覚を感じた瞬間、床に崩れ落ちた。

「最低だな、アンタ!」

 中村の吐き捨てるような声が聞こえた。

「中村」

 そしてうろたえる吉川の声。

「行くぞ、吉川」

「でも」

「放っとけよ!」

 足音が聞こえなくなるころにやっと俺は目の前が明るくなった。


 保健室でこっそり手当てをしてもらった。

 何も言う前に、ベテランの養護教諭・藤田先生は呆れて言った。

「どこの生徒に殴られたの? いやだわ、今時校内暴力なんて。面倒なことになりそうねぇ」

「ち、ちがいます」

「そうじゃなかったらどうやって顔にこんな打撲出来るって言うの」

「転んで……ってことにしてもらえませんか。何も問題はないんで」

「どこが問題ないのよ」

 乱暴に紙テープでガーゼを押し付けられた。

「イテテテテッ」

「全く。今回だけですよ!」

「すみません。ありがとうございます」

 しかし顔に大きなガーゼを貼っているというのは明らかに不審なので、保健室を出ると通り過ぎる生徒たちにぎょっとした顔で見られた。当然職員室も騒然となった。

「どうしたんですか、それ」

「何かトラブルでも?」

 駆け寄ってくる先生たちに、俺は笑顔を作る。

「いやいや、ちょっと転んじゃいまして」

 誰も納得した様子はなかったけれど、俺が一切何も話そうとしなかったので諦めて散り散りに去っていった。午後も生徒に怪訝な顔をされながら授業を終えた。帰りのHRに、吉川と中村の姿はなかった。


つづく


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