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形見の指輪も王子様の愛も、この指先で手に入れてみせます

 ある日の夜会。

 伯爵家の令嬢であるリズレナ・テュロスも、この夜会に出席していた。

 ミルクティーベージュの髪を後ろで上品に編み込み、落ち着いたヘーゼルの瞳、凛とした美貌を持ち合わせ、白いドレスがよく似合う令嬢であった。特にその指先は細く長くしなやかで、人間離れした妖しさを纏っていた。


 一人の令息がリズレナに近づく。

 美男子だが、その顔には挑発的な笑顔が浮かんでいる。


「君、リズレナさん、だよね?」


「ええ」


 リズレナは静かに応じる。


「テュロス家は確か君の叔父のアドルト殿が当主だけど、今は表舞台に出なくなって、すっかり隠居状態。今や実質的な当主は君といえる。傍から見れば“乗っ取った”ようにも見える」


 ずけずけとした物言いだが、リズレナの表情は変わらない。


「どうやって乗っ取ったんだい?」


 令息は一気に距離を詰めてくる。体でも、言葉でも。


「教えてくれよ。ぜひ参考にしたいんだよ。ねえ?」


 この令息は“家を乗っ取った”と物騒な噂の立つリズレナを大勢の面前で辱めることで、周囲に自分をアピールし、自己顕示欲を満たしたいのだろう。

 さらにはリズレナの“乗っ取った方法”を知ることができれば、それは権力争いの武器になる。

 いずれにせよ自分の利になる。ダーティだが実に貴族らしい行為ともいえる。


 リズレナはクスリと笑った。


「こうやって、ですわ」


「へ?」


 リズレナの右手にはカフスボタンがあった。


「ん、それは?」


「あなたの袖についていたものです」


 令息が慌てて袖を見ると、確かにカフスボタンが消えていた。


「い、いつの間に……!?」


「あと、これも」


 令息が胸に入れていたハンカチ。


「これも」


 さらにはネクタイまで――


 いつの間にか自分の衣類をはぎ取られていく恐怖に、令息は青ざめる。


「お望みなら、ベルトも」


 令息は自分のズボンがずり下がる光景を想像した。


「ひっ!」


 総毛立つとは、まさにこの時の彼のことを言うのだろう。

 この女は恐ろしい、と肉体のあらゆる部分で感じ取り、令息はリズレナから離れた。


「まだ何かありまして?」


「いや、特に……ないかな……」


「ではこれらはお返ししますわ」


「ど、どうも」


 丁重にカフスボタン、ハンカチ、ネクタイが返却され、令息は逃げ出すように夜会会場から去っていった。

 それを見届けると、リズレナはグラスに入ったルビー色のワインに口をつけた。

 並みの貴族では、彼女をからかうのは困難だというのが分かる一幕であった。


 相手に気づかれもせず、相手の持ち物を手にしてみせた彼女の異常な指先の器用さは、もちろん“生まれつき”――などではない。

 そこには彼女の生い立ちが大きく関わっていた。



***



 七年前、当時10歳だったリズレナは一度全てを失った。

 当主だった父が領内を馬車で巡行中に事故死、母もその心痛で病に倒れ、まもなく亡くなってしまった。

 当主の座はリズレナの父からその弟アドルトに移り、リズレナもまたその家に引き取られることになった。


 ここからの日々は地獄であった。

 リズレナには物置のような粗末な一室を与えられ、本来リズレナに渡るはずの父母が遺した財産は全てアドルトの一家が独占した。


「これからお前のような小娘を世話してやるんだから、これぐらいは当然のことだ」


 アドルトはこう言い、リズレナにも抗う術はなかった。


 さらにアドルトを始め、その妻グラシア、息子ドゥリック、娘のヘレン、いずれも性格はアドルトにそっくりで悪辣だった。

 事あるごとにリズレナに冷たく接し、まるで召使いのように扱った。


「リズレナさん、キッチンとリビングとバルコニーのお掃除、午前中にやっておいてね。頼みましたよ」


「はい、叔母様」


 彼らの邸宅の敷地は広く、あまりにも無茶な頼みであり、当然“できないこと”を前提としている。

 なのにできなければ当然――


「なんなの! 全然できてないじゃない! 使えないわね、この役立たず!」


「……申し訳ございません」


 いびられているリズレナを見て、従兄ドゥリックと従姉ヘレンが笑う。


「ったく掃除も満足にできねえのかよ!」


「天国に行くのが一番いい大掃除になるんじゃないの? 早死にしたパパやママに会えるしさ」


「ハハッ、言えてるぜ!」


 自分のことはともかく、亡き両親を侮辱されることは辛かった。

 物置のような自室で、灰色の毛布にくるまり、涙を流す日々が続いた。


 それでもリズレナには心の拠り所があった。

 病に倒れた母が遺してくれた指輪。

 シルバーの輪に、赤い宝石『スカーレットティア』がついた、質素な指輪だった。

 しかし、リズレナの母はそれを大切に持っていた。


『お父さんがね、初めて買ってくれた指輪なの。もし私が死んだら、これを私とお父さんだと思ってちょうだいね』


 母の言葉が今も鮮明によみがえる。

 どんなに辛くても、どんなに理不尽な目にあっても、この指輪があれば頑張れる。

 リズレナは毛布の中で指輪を眺めながら、そう誓った。


 ところが、悪い人間というのは“嗅覚”が鋭いものである。

 リズレナは邸宅の片隅で形見の指輪を眺めていたところを、ドゥリックとヘレンの兄妹に見つかってしまう。


「たまに一人でこそこそしてるかと思ったら、こんなものを隠し持ってるなんてねえ」


 ヘレンに指輪を奪い取られてしまう。

 他に何を奪われてもいい。だけどこれだけは奪われるわけにはいかない。

 これまで叔父の家族に歯向かったことはなかったリズレナだったが、この時ばかりは無我夢中で飛びかかった。


「お願いします、それだけは! お母様の形見なんです!」


「な、なによ!」


 すると――


「このガキ!」


 横にいたドゥリックが、リズレナを突き飛ばした。

 力加減にまったく遠慮はなく、リズレナの体は壁に叩きつけられる。


「うっ……!」


「こんなショボい指輪になに必死になってんだ。おいヘレン、貰ってやれ」


「もっちろん! ちょうど新しい指輪が欲しかったの!」


 ついに、心の拠り所さえ奪われた。

 リズレナは彼らの両親である叔父夫妻にこのことを告げるが、


「お前が今、路頭に迷わずに済んでるのは誰のおかげだ? 指輪ぐらいでガタガタ抜かすな」


「そんな指輪を隠し持ってたなんて、あさましい子だこと。両親の血かしらね」


 当然、相手にされることはなかった。


 リズレナは本格的に家に居場所がなくなり、いたくもなく、街中にいることが多くなった。

 とはいえ友人などおらず、一人路地裏でぼんやりするしかない。

 粗末な服を着て、陰気な表情で座っている少女など、誰も見向きもしない。

 地面の砂を見つめる。

 このまま体が砂になって、消えてしまえたらどんなに楽か――そんなことばかり考える。


 そんなあまりに無為な日々を送っているある時のこと。


「君は?」


 リズレナは声をかけられた。

 顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。

 年齢はおそらくリズレナより一つか二つ上。輝くような金髪で、湖のような穏やかな青い瞳を持ち、あどけないながらすでに顔立ちは整っている。身なりはよく、上流階級ということだけは分かる。


「ぼくはエルシスっていうんだ。君は?」


「私は……リズレナ」


 リズレナはぽつりと答えた。


「ここで何をしてたの?」


「別に……。ぼんやりしてただけ」


「なんでわざわざ外で?」


「家に居場所、ないから……」


 そう言うと、エルシスはリズレナの隣に座ってきた。


「そっか。ならぼくと一緒だ」


「……あなたも?」


「うん。だからこうしてたまに家出をするんだ。今日はかなりの遠出」


「ふうん……」


 二人の会話は続いた。

 リズレナは自分に構ってくるエルシスをうっとうしいなと感じつつも、やり取りに心地よさも覚え始め、次第に心を開いていく。


「石をひっくり返したら虫がビッシリいて、ぼくがひっくり返っちゃったよ!」


「……ふふっ」


「お、笑ったね?」


「うん……今の家に来てから、笑ったの初めてかも」


「……そうか。よっぽど辛い目にあってるんだね」


 エルシスが同情を示してくれたことが、リズレナは嬉しかった。

 やがて話題は――


「形見の指輪を?」


「うん……取られちゃったの。私の生きがいだったのに、それさえなくなっちゃった」


「だから、あんなにがっくりしていたのか」


「……」


「一つだけあるよ。指輪を取り戻す方法」


「え?」


 リズレナは顔を上げる。ほんのかすかに生気が宿る。


「どうすればいいの?」


 エルシスは道端の小石を拾った。


「質問を返そう。君がこの石を手に入れるには、どうすればいい?」


「え、と、それは……」


 リズレナは小石に手を伸ばすが、エルシスはそれを避ける。


「え?」


「ほら、こっちだよ」


「このっ!」


「こっちこっち」


「意地悪!」


 リズレナは何度か手を伸ばし、やっとエルシスの小石を手にすることができた。

 息切れするリズレナはどこか達成感を覚えていた。

 それを見て、エルシスはニコリと笑う。


「君がやるべきことは、これだよ」


 エルシスが力強く言う。


「手に入れるには、自分の力で取るしかない」


「……!」


 リズレナは息を呑んだ。

 自分の人生において、「相手の物を取る」という発想はなかったからだ。命よりも大事な形見の指輪を奪われてなお、それを取り返そうとは思っていなかった。取られたのだから仕方ない、と諦めていた。


「もちろん、他人の物を取るのはよくないことだ。だけど君の場合、叔父の家族から取り返す資格は十分にあるんじゃないかな。指輪だけじゃない……色々な物をね」


 リズレナは勇気を貰った気がした。

 取られてしまったのなら、取り返せばいい。簡単なことだが、面と向かって明言してもらえたことで、「自分はそれをする資格がある人間なんだ」という気持ちになれた。


「ありがとう……。私、やってみる!」


「うん。君なら指輪を取り戻せると思う。君の人生に幸あれ!」


「うん……! 絶対幸せになる! この手に掴んでみせる!」


 そのままリズレナはエルシスと別れた。

 そして、お母様の指輪を取り戻すんだ、と誓った。


 それからリズレナは指先の器用さを徹底的に訓練した。


「リズレナ、早く廊下を掃除なさい!」


「はい、叔母様」


 雑用をする時もただ仕事をこなすのではなく、指先に意識を集中するようになった。


 桶に水を入れ、小さな葉っぱを浮かべ、波紋を立てないように取る。

 ゲームに使うカードをピラミッド状に並べる。

 コインを何枚も床に立てる。

 1ページずつ、他のページに触れないよう読書する。


 教えをくれる人間などいない。だから訓練は全て自己流。

 リズレナは「これをやれば器用になるはず」と思ったことは貪欲に取り入れた。

 全ては形見の指輪をこの手に取り戻すために。



……



 15歳の誕生日を迎える頃には、リズレナの指先は細く長くしなやかに、そして美しく仕上がっていた。

 数多くの雑用をこなしながらも、手荒れが見られないのは、叔父一家に「心までは屈しない」という彼女の高潔な精神性の表れだろうか。


 従姉ヘレンは今も形見の指輪をつけている。よほど気に入ったようだ。

 リズレナがヘレンに歩み寄る。

 ヘレンは「相変わらず小汚いわねえ」と嫌味を言う。

 だが、リズレナはそんなことはどうでもよかった。目当ては母の形見のみ。

 粛々と堂々と華麗に取り戻してみせる。


 ――それは驚くほど簡単だった。

 リズレナのしなやかな指先は、ヘレンの指から母の形見を掠め取っていた。

 ヘレンは取られたことに気づいてさえいない。

 なのでリズレナはこれ見よがしに指輪を見せつけてやった。

 お従姉(ねえ)様、あなたの指輪は頂戴したわ、と。


「な……! あんた、いつの間に!?」


 ヘレンは憤慨して掴みかかってきたが、リズレナはあっさりかわす。

 そのままヘレンは転んでしまい、その姿は貴族令嬢とは思えないほど滑稽だった。

 騒ぎを聞いて、従兄ドゥリックがやってくる。

 最近遊びを覚えたためか、腕にジャラジャラと派手なブレスレットをつけている。


「どうしたヘレン」


「お兄様、こいつが私の指輪を!」


「なんだとぉ!?」


 ドゥリックが向かってきたが、今のリズレナにとっては――


(ああ、なんて取りやすそうなの)


 リズレナは一瞬で従兄自慢のブレスレットたちを手中にしていた。


「……へ?」


 驚愕している二人を見て、リズレナはにっこり笑う。

 それはいたって普通の笑顔だったのだが、二人には彼女がまるで魔性の女のように見えた。


「ひっ……!」

「うぐ……!」


 ヘレンとドゥリックは揃って怯えの表情を浮かべる。


「お従兄(にい)様、こちらはお返しします」


 ブレスレットを恐る恐るという風に受け取るドゥリック。

 二人はそのまま、そそくさと退散してしまう。


 リズレナは形見の指輪を眺めつつ、安堵したように笑む。


(やっと取り戻したよ。お母様……)


 そして、その指輪を強く握り締める。


(ここからよ……何もかも取り戻すんだ!)


 リズレナから見ても、当主アドルトを始めとした叔父一家はやましいことを大量に抱えていた。醜聞まみれであった。

 彼らはリズレナを見下し、心から屈服していると見なしていたため、彼女に対する警戒心は甘かった。

 彼女の目に隠れて――というような場面はほとんどなかった。

 だからこそ、リズレナは火薬庫の導火線を握っているような状態だったのだ。

 意図していたわけではない。これもまた数年間、彼らに逆らわず歯向かわず耐え続けた成果だった。


 アドルトは優秀な前当主であったリズレナの父の名声を利用して、国や周囲の有力者から「兄の遺志を受け継ぐため」「領内の活性化のため」という名目で金を募っていた。が、それらは全て絵画や骨董品などの購入に当てていた。

 その妻グラシアも同様に宝石類を買い漁っている。

 彼らの息子ドゥリックは女遊びを覚え、遊んだ女の特徴を書いた“コレクションノート”なるものを作成し、娘ヘレンはすでに社交界にデビュタントを果たしているが、出会った令息にことごとく点数をつけ、それを記録している。

 いずれも発覚すれば、貴族としての品位を問われ、社交界に居場所がなくなるような“爆弾”である。


 リズレナのしなやかな指先をもってすれば、これらの証拠を手に入れることはあまりにも容易い。

 ここからリズレナは一気に攻勢に出る。


 動かぬ証拠を入手したリズレナは、いきなり公表するようなことはせず、まず噂を流した。アドルトたちに関する黒い噂を。

 アドルト夫妻は寄付金を私的に利用し、ドゥリックとヘレンの兄妹は異性に関して趣味の悪い遊びに興じている。

 この噂には具体性があり、瞬く間に世間に広まっていき、皆がそうに違いないと判断するに十分な信憑性を持っていた。

 当然、アドルトたちは焦り出す。


「誰だ……こんな噂を流しているのは! このままでは王国から監査が入るような事態になってしまう!」


「どうしましょう、あなた!」


 ドゥリックとヘレンも大ダメージを負っていた。


「この間はパーティーで白い目で見られっぱなしだったぜ……誰の仕業だ!」


「私も……夜会で『僕は何点なんだい』なんて冷たく言われてしまったわ!」


 機は熟した。

 このタイミングで、リズレナは一家全員に種明かしをする。


「噂をばら撒いたのは、私ですよ」


「な……なんだと!?」


 一家全員が憤慨するが、特にアドルトの怒りは凄まじかった。


「リズレナ、お前だったのかぁ!」


 かつてのリズレナならここで怯え、平謝りしていただろう。

 だが、今のリズレナからすれば、アドルトの怒声など野良犬の遠吠えにも劣るものだった。

 散々に怒鳴りつけられるが、リズレナは平然とこう言い放つ。


「ちなみに私が流した噂はあなたたちのやっていることの表層の部分に過ぎません。いわば氷山の一角。そして……氷山は私の手の内にあります」


 リズレナの冷たい微笑みは、“氷山”というワードと不思議とマッチした。


「ど、どういう意味だ……!」


「あなたがたの醜聞の全容は、私がその気になれば、あるいは私に何かあれば、いつでも公表される状態にあるということです」


 アドルト以下、全員の顔が蒼白になっていく。

 彼らはすでに悟ったのだ。自分たちの心臓は彼女に握られているということを。

 そして、リズレナにはそれを握り潰す力と、“覚悟”があるということを。

 長らく虐待していた弱々しい子猫が、突如ライオンになって襲いかかってくるような事態であった。


「ま、待て……やめてくれ……」


 か細い声で、アドルトが告げる。


「でしたら、こちらにサインを」


「なんだこれは……?」


「法律家の方に作成して頂きました。あなたがたが遺産として手に入れた父と母の財産、全て私に譲って頂きます。いえ、返して頂きます」


 叔父たちに領地経営の才覚はなく、リズレナの父の遺産を食い潰しているような状態だった。

 そんな状態で、遺産をリズレナに手渡したらどうなるか――


「そんなことできるものか!」


「できなければ、あなたたちは終わりですね。稀代のスキャンダル一家として歴史に名を刻むことでしょう。さらに、寄付金の行方についても厳しい捜査を受けるでしょうね。そうなれば貴族籍剥奪もあり得ます」


「私を脅す気かぁ!」


「脅しではありません。これは予告です」


「く、く……! このぉっ!」


 激高したアドルトが近くにあった食器のフォークを手に取り、リズレナに向けて振り下ろした。

 ――が、そのフォークはリズレナに奪われてしまった。


「ごめんなさい、叔父様。あまりに奪いやすそうだったので、つい」


 アドルトはこの早業に怯え、その場に跪いた。

 他の三人も同様であった。リズレナには敵わない、と本能的に感じ取ってしまった。

 あれだけ居丈高だった者たちが、凍り付いたように動かなくなっている。


「あなたがたではもう、私から何も奪うことはできない」


 リズレナからの勝利宣言。


 その後、リズレナは財産を取り戻し、アドルトたちは当主の座はそのままに、逃げるように領内の僻地へと引っ越した。

 当主の座を彼らのままにしたのは、ある種の見せしめ的な意味合いと、リズレナ自身に当主になりたいという欲求が薄かったためだ。

 彼女には指輪があれば十分だったのだ。


 むろん、アドルトたちとて報復を検討した。

 しかし、リズレナは得た財産で早々に地盤を固め、もはや手の届かぬ存在となっていた。

 彼らは名ばかりの当主一家として、リズレナからすればいつでもトドメを刺せる状態で放置されることとなった。

 こうしてリズレナはテュロス家の実質的な当主となった。


 その貫禄は並みの貴族当主顔負けであり、夜会においてからかわれても――


「お望みなら、ベルトも」


「ひっ!」


 容易く跳ねのけられるほどに。

 これは、彼女が17歳の誕生日を迎えたばかりの出来事であった。



***



 成長し、17歳となったリズレナは、王都を歩いていた。

 王都では連日のように夜会が開かれるので、それに出席するためだ。

 亡き両親のためにも貴族としてすべきことはしなければならない、という使命感があった。


 鮮やかな手並みでテュロス家の実質的な当主となり、それを他の令息にからかわれても華麗にあしらってしまうリズレナは、注目を集める存在となっていた。

 申し分のない条件の令息からアプローチを受けることも少なくない。

 だが、特定の相手と親しくなることはなかった。

 彼女がはっきりと結婚相手を決めない理由――それは幼き日に出会った“彼”の存在があるのかもしれない。


 リズレナは白いブラウスの上に桃色のカーディガンを羽織り、颯爽と王都を歩く。

 前からは薄汚れた身なりの男が歩いてくる。

 二人が接触する刹那、男はリズレナの懐に手を伸ばした。財布をスろうとしたのだ。

 しかし、その手はリズレナの右手に捕まった。


「……!?」


 まさか見切られるとは思わなかったのか、男はぎょっとする。

 リズレナはそんな男を冷たい目で見る。


「あなたは今、私の財布を奪おうとした時、どんな気持ちだった?」


「へ?」


「命をかけてる?」


「命……!?」


 リズレナの言葉に男は目を丸くする。


「私はいつだって命懸けだった……」


 どこか嘆くような口調だった。

 自分の言葉通り、リズレナは命をかけていた。

 アドルトたちと刺し違える覚悟だったからこそ、彼女は形見の指輪を取り戻し、両親が遺した財産を取り戻し、実質的な当主の座まで手に入れることができたのだ。


「命をかけられないようなら、スリなんてやめた方がいいわ」


 リズレナは男に袋を優しく投げ渡す。それは、男の“財布”だった。スられていたのはスリ常習犯である男の方だった。

 さらに、男はリズレナのしなやかな指を見て、完全に負けを確信する。

 格が違う。もう、スリはやめよう……。



***



 曇り空に覆われ、空全体が白い日――こういう“無”とも思える天気の時、リズレナはアドルトらに虐められ、無為な日々を過ごしていた自分を思い出す。

 同時に、そんな日々から自分を救ってくれた“彼”のことを――


 リズレナは王都を歩き、ふと路地裏に立ち寄った。

 何か用があったわけでもない。本当になんとなくである。

 そこでリズレナは、五人組にからまれている青年を見つける。


「死んでもらうぜ!」


 物騒な台詞とともに、刃物で襲いかかる五人組。

 リズレナは一瞬悲惨な流血沙汰を予感したが、すぐにそれが杞憂だと分かった。

 襲いかかられた青年は、腰の剣を抜くと、たちまち彼らを返り討ちにしてしまう。

 血すら流れていない。剣の刃になっていない部分の殴打で仕留めている。つまり、それだけの力量差だったということ。


「ち、ちくしょう……!」


 残った一人は逃げ出し、リズレナの方に向かってきた。


「どけやァ! 女ァ!」


 刃物を振りかざす。

 だが、リズレナは避けない。

 なぜか。こんな人の命を狙うような無頼漢に、誇り高き貴族である自分が道を譲る必要などないと思ったから。そして、理由はもう一つ。


「危ない! 逃げろ!」青年が咄嗟に叫んだ。


 彼からしても、自分が襲われるのはともかく、第三者が巻き込まれるのは想定外だったのだろう。

 だが、リズレナが刺されることはなかった。

 彼女を突き刺すはずだった刃物は、リズレナの手の中にあった。


「ごめんなさいね。あまりにも取りやすそうだったので、つい」


 これがもう一つの理由。

 彼女の研ぎ澄まされた指先をもってすれば、三流チンピラの振るう刃物など脅威でもなんでもなかった。

 微笑を浮かべ、リズレナは柄を相手に向け、刃物を返そうとする。


「ひいっ!」


 だが、相手は刃物を受け取ることなく、腰が抜けたような動作でよたよたと逃げていった。

 リズレナは呆れるように息を吐き、刃物を地面に置いた。


 襲われていた青年が駆け寄ってきた。


「大丈夫かい?」


「ええ、私は平気です」


 二人の視線が交差する。

 この瞬間――二人の時が止まった。


「君は……リズレナ?」


「あなたは……エルシス?」


 数年ぶりの再会となったが、お互いにすぐに分かった。

 エルシスは輝くような金髪、湖のような穏やかな青い瞳はそのままに、凛々しい顔立ちの青年に成長を遂げていた。

 リズレナがどこか心の中で描いていた「成長したエルシス」の姿を期待通り、いや期待以上に体現した容姿となっていた。

 数々のアプローチを受けながらも、彼女が乗り気になれなかった理由――その“彼”が現れてくれた。


「元気にしてたかい?」


「ええ、おかげさまで」


 リズレナは自分の右手にはめた指輪を見せた。

 スカーレットティアが赤く光る。

 これだけで、エルシスは彼女が何もかもを取り戻すことができたんだな、と理解できた。


「私が今こうしていられるのもあなたのおかげ」


「それは言い過ぎだよ。全ては君の力じゃないか」


 リズレナは首を左右に振る。


「いいえ、あなたに出会わなければ、私はきっと……」


 憂いを含んだ表情でうつむくリズレナに、エルシスは微笑みかける。


「そうか……。なら喜んで僕の手柄にさせてもらおう」


 そして――


「手柄を立てたからってわけじゃないけど、君に頼みがあるんだ」


「なんでしょう?」


 リズレナは一通の封書を手渡される。


「これ、今度僕が開くダンスパーティーの招待状、よかったら来てくれ」


「分かりました……。必ず行きます」


 リズレナは目を細め、貴族令嬢らしい穏やかな笑みを返した。

 お互いにあの時とは違う、ということが十分に分かるやり取りであった。



***



 ダンスパーティー当日。

 空は雲一つない透き通るような夜で、会場は小さなホールであった。

 リズレナはダンスをしやすい、スリットの入った赤いドレスで出席する。


 楽団の演奏が行われ、貴族たちはそれに合わせ、上品に踊る。

 リズレナもダンスの嗜みはあり、何曲かのダンスをそつなくこなす。

 しかし、未だにエルシスの姿はない。


 すると、燕尾服姿の司会者が満を持してという感じに告げる。


「さあ、いよいよ今宵のダンスパーティーの主役のご登場です。ブレリア王国第一王子エルシス・ブラスト様です!」


 会場が沸く。

 黒い礼服に身を包んだエルシスが手を振りながら、パーティーに参加してきた。


 エルシスの正体は自分が住む王国の王子、しかも王太子だった。

 リズレナは驚きこそしたが、しかし表情はそれほど変わらなかった。正体を予感し、納得している部分も大きかったからかもしれない。


 エルシスはしばらく他の令息令嬢と談笑を交わしていたが、やがてリズレナの元に近づいてきた。

 本命は君だ、と言わんばかりに。


「では、本日のメイン曲の演奏となります!」


 場が盛り上がる中、エルシスはリズレナに周囲には聞こえないよう、ぼそりとつぶやく。


「僕の胸にハンカチがあるだろう?」


 リズレナは胸ポケットに白いハンカチがあることを確認する。


「この曲の演奏時間は5分。僕とダンスをしつつ、このハンカチを奪い取って欲しい。ただし、もし僕がそれを防ぎ切ったら……」


「防ぎ切ったら?」


「僕と婚約して欲しい」


 エルシスの目は本気だった。

 リズレナは全く気後れせず、笑みを返す。


「その挑戦、お受けします。でも、こちらからも条件をつけてもよろしいかしら?」


「いいとも」


「私が勝ったら、何でも一つだけ言うことを聞いて下さい」


「いいだろう」


 エルシスは間髪入れず答えた。


 このダンスパーティーのメインイベントといえる曲目が演奏される。

 王子と令嬢の恋物語をテーマとした曲――繊細な旋律の中に燃え上がるような情熱がこもった人気曲。

 エルシスもリズレナもダンスを“ウリ”にしているタイプではないが、エルシスは剣術が得意で運動能力は高く、リズレナも指先で培ったしなやかさは全身に伝播している。そしてなにより、二人のダンスはよく噛み合った。

 周囲の出席者も自然と二人に目を奪われてしまう。


 だが、二人はそれどころではなかった。なにしろ勝負の真っ最中。

 ダンス開始から一分――リズレナが仕掛けた。

 胸ポケットのハンカチに右手を伸ばすが、エルシスはひらりとかわす。

 次は左手で――これもかわす。


 華麗に舞いながら、二人は戦ってもいた。

 ハンカチを取るか取られるかという、子供がやるようなお遊戯で。

 しかし、真剣そのものだった。


 この勝負に負ければリズレナはエルシスと婚約することになり、エルシスはリズレナの命令を聞かねばならない。

 顔は上流階級らしく気品ある微笑を浮かべているが、内心は勝ちたくて必死に違いない。


 残り一分。

 リズレナは蝋燭に灯る火を揺らさぬほどのしなやかさでエルシスのハンカチを狙うが、これも右手を握られ、阻止される。

 残り30秒、20秒、10秒――その時だった。


 リズレナはエルシスに顔を近づけ、にっこりと笑った。

 野原に咲く花を思わせる、素朴で朗らかな笑顔だった。


「あ……」


 エルシスの意識は完全にその笑顔に奪われた。

 我に返った時には――


「はいっ」


 リズレナにハンカチを見せつけられていた。

 エルシスは笑うしかなかった。


「……完敗だ」



***



 パーティーが終わり、リズレナとエルシスはホールの中庭で二人きりになっていた。

 理由はもちろん――


「何でも言うことを聞いて下さるのでしたね?」


「ああ」


 エルシスも覚悟を決めている。

 今の彼は「死んで下さい」と言われれば、ためらいなく命を絶つだろう。

 さて、そんな王子にリズレナの口から出たのは――


「私と婚約して下さい」


「え……?」


 まさかのお願いに呆気に取られるエルシス。


「私もあなたのことをずっと想っていたので、ぜひ婚約したいなぁ、と」


 リズレナの顔は、まるで初めて恋をする少女のようであった。ダンスパーティーで見せた冷徹さは微塵もない。

 エルシスは苦笑する。


「ちょっと待ってくれ。だったら、この勝負をやった意味が……。君が勝つ必要はなかったじゃないか」


 リズレナはフフッと笑う。


「そうなんですけどね。私、欲しいものは自分の手で取らないと気が済まない性質でして。誰かさんのせいで」


「まったく……とんでもない誰かさんだ。君を極上のレディに仕上げてしまった」


 二人は笑い合った。

 ところが笑い終わると打って変わって、エルシスは神妙な表情になる。


「だが……この婚約は君にとって王太子と結婚できる“玉の輿”とはいかないかもしれない」


 リズレナは黙って聞いている。


「はっきり言おう。このままでは僕は将来的に王太子の座を追われる」


 この言葉にリズレナは――


「……なんとなく分かっていました」


「え?」


「だって先ほどのダンスパーティー、第一王子が主催するにはあまりにも規模が小さかったので」


「さすが、独力でテュロス家を取り戻しただけあって、鋭い……」


 夜会の規模や集客力は、そのまま主催者の影響力のバロメーターである。

 先ほどのパーティーは盛り上がりこそしたが、規模は小さいものだった。次期国王であるはずのエルシスが、その程度の集客力しかなかったのである。


「全てを話そう。今、我が王家は王妃と第二王子に牛耳られつつある」


 彼らが暮らすブレリア王国――現在、国王はエルシスの父エモリオであるが、王妃であるレルトゥラはエルシスの母ではない。エルシスの母亡き後、妃として迎えた後妻であった。

 身分は決して高いとはいえないが、男の扱いに手慣れているところがあり、最愛の妻を亡くしたエモリオの寂しさにつけ込むような形で結婚した。そして彼女にはミゲルという連れ子がいた。

 こうなると、彼女からすればミゲルを王太子に、と考えるのは当然の流れである。

 レルトゥラはミゲルとともに城内で巧みに立ち回り、勢力と影響力を拡大していった。

 一方、エルシスはどんどん居場所がなくなっていく。家出をすることも多くなった。

 エルシスとリズレナが初めて出会ったのは、この頃のことである。

 あれから時は流れ、今やエルシスの城内での立場は風前の灯火とのこと。

 立派に成長し、王子の座に相応しい好青年に見えるが、瀬戸際なのである。


「……しかも、前に僕を襲った五人組、覚えているかい?」


「はい、もちろん」


「あれはミゲルの差し金だよ」


「第二王子があなたの暗殺を……!?」


「ああ。ミゲルは遊び人なところがあってね。ああいった裏社会の連中にも顔が利く。もっとも僕もあの程度の連中にやられるほどヤワじゃないし、ミゲルもそれはよく分かっている。安全な立場から僕をいたぶるのを楽しんでいるんだろう」


「でしたら、そのことを訴えれば……」


「無駄だね。確実な証拠がなければ、どうにもできない。もはやあの二人の力はそれほどのものになっている」


 自嘲するように息を吐くエルシスに、リズレナは微笑む。


「らしくないですね」


「え?」


 リズレナは近くに落ちていた小石を拾う。


「欲しいものを手に入れるには自分の力で取るしかない、じゃなかったでしたっけ?」


「……!」


「もっと言うなら、あなたは私を味方に引き込みたくて――自分の力にしたくて、私をパーティーに誘ったのでしょう?」


 エルシスは頭をかく。


「参ったな。本当に何もかも見抜かれている」


 テュロス家を取り戻すほどの力を手にしたリズレナは、エルシスが王妃・第二王子と戦う上であまりにも魅力的な武器だった。


「僕は君を武器にするため、もっというなら利用するため近づいたようなものだ。それなのに僕に力を貸してくれるというのかい?」


「確かに……“利用される”というのは心地よいものではありません。ですが、愛しい人に利用されるのであればまたそれも一興。それに、ここまできたらいっそ私も手に入れてみたいものです。将来の国王の妃という座を」


 リズレナは指を見せつけるような姿勢で、かぐわしい笑みを浮かべる。


「全て手に入れましょう。この指先で」


 エルシスですら『ぞくり』と感じるほどの迫力だった。


「なので、いったん婚約のことは保留にしましょう」


「……何か考えがあるのかい?」


「はい。まずは私をメイドとしてお雇い下さい」


 リズレナは“メイド”として宮中に潜り込むこととなった。



***



 メイドとなったリズレナ。

 リズレナも社交界ではそれなりに名を上げたが、それはあくまでせいぜい中流貴族程度までの話。

 城内にリズレナの顔を知っている者はおらず、潜入は容易だった。


 メイドに扮したリズレナはアドルトたち一家に引き取られた当初のことを思い返していた。

 卑屈で、大人しく、いいようにされ、何もかもを奪われたあの頃の自分を演じる。

 さまざまな雑用の経験があることも功を奏し、あっという間に“無害でこき使えるメイド”になりすますことができた。

 こうなると城の様々な箇所を行き来することができる。


 彼女から見て、王妃レルトゥラと第二王子ミゲルの印象は――


「作業が遅いわよ。安くない給金を払っているんだからきびきび働いてちょうだい」


「リズレナっていうのか。まあ、気が向いたら僕の愛人にしてやるよ」


 ――アドルトたちに似たタイプだ、と感じた。


 地位や身分をひけらかし、一度“下”と見なした人間はとことん見下す。

 この二人が支配するブレリア王国は、決して明るいものにはならない。そう判断するには十分だった。

 メイドになってから一ヶ月ほどで、リズレナはエルシスに成果を報告する。


「レルトゥラ様は不倫をしておられますね。相手は若い貴族で、レルトゥラ様は週に何度か手紙のやり取りをしておられます」


「やはりそうか。元々男遊びにかまけていたような女だ。父上を愛してなどいなかったのだな」


「それとミゲル様も、いよいよ本格的にエルシス様を亡き者にしようと画策しているようです。エルシス様の剣の腕は誰もが認めるところですが、いつまでも暗殺をかわし続けるのも難しいでしょう」


「ああ、僕とて超人ではないからね」


「ですので、このあたりで大きく仕掛けましょう」


 リズレナの眼光が鋭さを増す。


「エルシス様、“王家の威光を天下に示す”という名目で、大規模なパーティーを開催して下さい。そこで何もかもを取り返すのです」


 エルシスはうなずく。


「ああ。何もかもを取り戻そう。僕と……君の手で」


 二人は誓い合うように、お互いの手を繋いだ。



***



 王宮において立場が弱くなっていたエルシスであるが、王太子としての名誉をかけ、大規模なパーティー開催を持ちかけた。

 その甲斐あって近年まれに見る大パーティー開催が決定した。


 父エモリオを始め、エルシスから王太子の座を奪おうとするレルトゥラ、ミゲルももちろん出席する。

 王家の事情を知っている者は、きっとこう思ったに違いない。

 これは第一王子エルシスという蝋燭の火が燃え尽きる前の最後の輝きであると。


 会場は王宮内の大広間が使われる。鏡と見紛うほどに磨き込まれた床、天井にはシャンデリアが飾られ、数々の高級美術品が立ち並ぶ、まさにこの世の楽園。

 二流から超一流どころの貴族まで集まり、厳しいボディチェックもなされ、いよいよパーティーが開催される。

 エルシスは主催者として出席者をもてなし、リズレナはメイドとしてせっせと働く。


 だが、場の主導権は早くもレルトゥラ、ミゲル母子に握られていた。

 二人は巧みに有力貴族と挨拶を交わし、大仰なアピールをし、王太子であるエルシスはすっかり影が薄くなっている。


「このたびはエルシスと素晴らしき我が子ミゲルのために集まって下さり、ありがとうございます!」


「この私も兄を支える……いえ、それだけでなく自分で国を背負う気概で頑張るつもりです」


 もはや王太子の座を奪う野心を隠していない。

 だが、二人の影に隠れつつ、エルシスは待っていた。猛反撃するその瞬間を。


 そんなエルシスを、メイドとして働きながらリズレナも見つめる。


(それでいいのです。私はすでに仕事を終えました。あとはあなた次第です)



……



 パーティーが佳境に入る。

 エルシスが出席者らに呼びかける。


「では皆様、ここで我が父エモリオ、我が母レルトゥラ、我が弟ミゲル、そして私の四人で集合したいと思います。我々王家の仲睦まじい姿をどうかご覧下さい」


 国王エルシスは椅子に座り、その横にエルシスが立つ。レルトゥラとミゲルも近づいてきた。

 これこそが反撃の狼煙。

 リズレナが王妃レルトゥラにそっと近づく。


「失礼します。足元に埃が……」


「埃? さっさと拾ってちょうだい。掃除が行き届いてないわね」


 レルトゥラは彼女を避けるように大きく体を動かす。

 すると、パサリと彼女のドレスから何かが落ちた。一枚の紙であった。


「あ、私が拾いますね」


 リズレナはそれを拾う。


「まぁっ!」


 会場の注目を集めるように、大仰に叫んでみせる。


「どうしたんだ?」とエルシス。


「なんてことなの……」


「何よ。何があったの? 早く説明なさい」レルトゥラが急かす。


「は、はい……読み上げますね」


 リズレナは“拾った紙”を読み上げ始めた。


「ああ、愛しのベルフ、今宵も会えて嬉しかったわ。あなたの逞しい二の腕、胸板、やはり男というのは貴方のような人間をいうのね。王のくせにイマイチ覇気のないエモリオとは大違い。まあ、あんな中年でも私を王妃として輝かせてくれるのだから、せいぜい利用しなくてはね……」


 これはレルトゥラが不倫相手のベルフという貴族にあてた手紙であった。

 ベルフにもっと会いたい。今の夫など物足りない。こういった文章が詩的な表現を交えつつ書き連ねられている。

 たまらず――


「やめなさい!!!」


 レルトゥラがヒステリックな声を上げる。


「な、なんなの……? なんなのこれは!?」


「わ、私はレルトゥラ様のドレスから落ちた紙を読み上げただけで……」


 リズレナはあたふたした演技をする。何も事情を知らない無垢なメイドにしか見えない。


「とにかく、それを読むのをやめなさい!」


 だが、その時――


「いや、やめんでいい!」


 国王エモリオだった。


「全部……読んでくれ。頼む……!」


 唇を噛みつつ、告げる。

 国王の命令は絶対である。

 リズレナは紙の全てを読み上げた。

 王妃レルトゥラは愕然としている。

 会場全体も、皆がどこに感情を持っていくべきか分からなくなり、静まり返ってしまった。

 まさか国王に「不倫されて残念でしたね」などと言うわけにもいくまい。


 だが、この状況を打破すべく、動いた者がいた。

 第二王子のミゲルである。


「皆さん、落ち着いて下さい! これは罠です! 母上を嵌めるための!」


 しかし、誰かが言う。


「だけど、明らかにレルトゥラ様のドレスから落ちたものだったぞ……。本人もあの表情だ……」


「くっ……!」


 レルトゥラの失脚は、自身の破滅をも意味する。

 ミゲルとしてはなんとしても、あの手紙は捏造だったことにしなければならない。

 すべきことは、犯人探し。ミゲルはレルトゥラを嵌めて一番得をするのは誰か、すぐに思い当たった。


「そうか、兄上だな!?」


「私?」


「そうだ! だいたい兄上がこんなパーティーを開くのがそもそもおかしかった! 兄上は母上を公衆の面前で辱めるために、このパーティーを開き、さっきの手紙を捏造したんだ!」


「私にはなんのことだかさっぱり分からないな」


「とぼけやがって! 白々しいんだよ!」


 首を傾げるエルシスに、ミゲルは勢いよく食ってかかる。

 その時、会場にチャリンという金属音が響いた。


「え?」


 ミゲルの礼服から、ナイフが落ちた。

 皆が彼に注目していたので、誰もがその瞬間を見てしまった。


「なんだこれ……?」


 ミゲルは思わずナイフを拾ってしまう。

 これを見計らってリズレナが悲鳴を上げる。


「きゃあああっ! エルシス様、お逃げ下さい! ミゲル様はナイフをお持ちです!」


「ちょっ、待っ……!」


 誰がどう見てもミゲルが事前にナイフを用意していたとしか思えない。事前のボディチェックも王子という立場ですり抜けたのだろう、と。

 狙いはもちろんエルシス。第二王子ミゲルは一瞬にして暗殺犯ミゲルと化した。


 一連の騒ぎを仕向けたのは、リズレナである。

 リズレナは不倫の証拠となる手紙を入手しており、パーティーの最中にそれをレルトゥラのドレスに挟んだ。

 同じように、ナイフをミゲルの礼服に挟んでいた。

 二人が大きく動いたらそれが落ちるように――リズレナの指先だからこその神業だった。

 人の物を掠め取ることができるということは、“押し付ける”こともできるということ。

 彼女の指先で、このパーティーは不倫女と暗殺未遂犯の断罪の場と化した。


 レルトゥラは青ざめ、ミゲルもナイフを握り締めたままわなわなと震えている。

 あとはもう、どうとでも料理できる。

 そんなミゲルに、エルシスが告げる。


「ミゲル。お前が私を暗殺したがってたことは知っていた」


「くっ……!」


「だから、チャンスをやろう」


「なに?」


「お前はそのナイフで私を刺しに来い。もし成し遂げられたのなら、王太子の座を譲ってやる。誰にも文句は言わせない。ここにいる全員が証人だ」


「なんだとぉ……!?」


 これはリズレナにとっても予定外のことであった。

 勝ちが確定しているこの状況で、エルシスはわざわざミゲルにチャンスを与えている。


「さあ、どうする。私が怖いか」


「……! いいだろう、やってやる! お前のことは昔からブッ殺したかったんだよ!」


 ミゲルがナイフを構えた。

 これまでは街のチンピラを雇い、じわじわとエルシスをなぶっていたミゲルが、“決闘”の場に引き込まれてしまった。

 一方のエルシスは丸腰。あまりにも結果が見えた決闘だった。


「くたばれッ!」


 ミゲルがナイフを振りかざす。

 だが、エルシスは冷静だった。


「“彼女”とのダンスの方が、よっぽど刺激的だったよ」


 拳一閃。

 ミゲルはたった一発のパンチで殴り倒され、無様に床に転がった。

 あまりにも結果は見えていた。ナイフ一本持ったぐらいで、ミゲルがエルシスに敵うわけがなかった。

 決闘に勝利したエルシスは会場全体に一礼する。


「皆様、私の勝利です。王太子エルシス・ブラストを今後ともどうぞよろしく」


 会場が沸騰したかのような拍手喝采。

 この大舞台で罪人を華麗に断罪してみせたエルシスは、全てをつかみ取った。

 「影の薄い王子」から「決闘に勝利した誇り高き王太子」に自身の印象を塗り替えた。

 舞台を整えたリズレナも、エルシスの手腕に驚嘆する。


(手紙とナイフだけで断罪することもできた……だけど、それではエルシス様にとっては、敵が勝手に転げ落ちただけになってしまう。大勢の前で決闘を制することで、エルシス様は自分が王太子であると皆に認めさせたんだわ。お見事です!)


 ここで妻に裏切られていた国王エモリオが動く。


「エルシスよ……」


「父上……」


「余はすっかり目が覚めたよ。このパーティーはレルトゥラとミゲルだけではない。余をも断罪する式であったのだ。もはや王の座はお前にこそ相応しいかもしれぬ」


 長らく曇ったままだったエモリオの瞳には、光が宿っていた。


「不貞を働いたレルトゥラと、暗殺を企んだミゲルには、追って厳しい沙汰を出そう。しかし、今は我が子エルシスの成長を喜びたい。皆の者、今一度、エルシスに拍手を!」


 エルシスを称えるムードのまま、パーティーは閉幕する。

 今やエルシスは将来王太子の座を追われるなどと思っている者は一人もいない。

 リズレナとエルシスに全てを取られたレルトゥラとミゲルは、呆然とした表情のまま兵士に連行されていった。

 これ以降、この母子の名が歴史に登場することはない。


 騒動が落ち着いた頃を見計らい、エルシスはテュロス家令嬢リズレナとの婚約を正式発表、そのまま婚姻に至る。

 リズレナが王子妃となったことで、彼女からの更なる報復を恐れたアドルト一家は領地から行方をくらました。目撃者によるとまるで夜逃げのようだったという。リズレナとしてはもはや彼らに関心はなかったのだが、領地を当主不在のままにしておくわけにもいかない。

 テュロス家領地は王都から近く、信頼できる代官を置けば統治は難しくない。リズレナはテュロス家領を治めつつ、王子妃としても活躍する二足の草鞋を履くこととなった。


「お父様とお母様の愛した土地です。あのままにしておくことはできませんから」


「君ならできるさ。もちろん僕も手伝う」


 エルシスはそんな妻の肩に優しく手を置いた。



***



 王子妃となったリズレナ。

 テュロス家の領地を統治しつつ、王子妃として公務をこなす。

 忙しいが、充実した日々を過ごしている。

 いずれ我が子ができたら、そのうちの一人にテュロス家領を任せたい、と青写真を思い描く。


 日が窓から穏やかに差す昼下がり、リズレナは王宮の私室で夫エルシスとともにティーを嗜む。

 今日のおやつはチョコレートドーナツだった。

 リズレナの好物であり、美味しそうに頬張る。

 エルシスは幸せそうな妻に喜びを感じる。


「よかったら、僕のもあげようか?」


 エルシスが皿を差し出すと、いつの間にかその上にあったドーナツは消えていた。


「あれ?」


 消えたドーナツは、スカーレットティアの指輪が光るリズレナの右手に握られていた。


「ごめんなさい。もう手に取っちゃった」


「早い……。さすがだね、リズレナ」


 リズレナの指は、結婚してからより一層しなやかさを増している。

 彼女はその指先で様々なものを手に入れてみせた。

 形見の指輪も、両親の土地と財産も、王子の愛も、そしてこれからの幸せさえも――






おわり

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― 新着の感想 ―
形見を取り戻す為に器用度に全振りします! という事だな。 世界観が違えば、拳銃の弾倉からも弾を抜き取れそうだ。 器用度MAXバンザイ! 自身の幸せもその器用さで掴み取ったリズレナ。 お幸せに。
痛快で爽快な話でした。 この話好きです。 指先のテクニック以上に志の強さに魅せられ、小手先ではない芯のしっかりとしたキャラクターに心を奪われました。 これだけぐだぐだ言っといてなんですが、一言で言…
DEX全振りの令嬢モノとは珍しい。器用さと言えばシーフや職人のようなキャラですが、こうして器用さに特化したキャラを見ると器用さと頭の回転の速さって相性の良い要素ですね。 リズレナが自身の失った物を取り…
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