3.朝鮮でのこと
祖父の遺した手記の第3節です。
*人物名は、全員鬼籍に入っているため、手記そのままに転記しています。
*手記の所有者である父に今後何か言われたら削除します。
「好事魔多し」というか「人生有為転変は世のならい」の通り
良いことばかりは続かぬものだ。
何が理由か原因も判らぬままに
ある日突然 家族全員 朝鮮の釜山に行く事になったのは
私が小学校1年生の時であったと思う。
次男の誠が亡くなり 三男照典が生まれた。
昭和4年の初春の出来事と記憶する。
始めての船旅で珍しさもあり喜んだ私を
父母はどんなにか 切ない思いをして眺めたことであろふ。
釜山港に着いて、父方の祖父の兄に当たる
佐々のお爺さんの家に寄寓することになる。
釜山の郊外で淋しい場所だった。
いかつい顔をした 体格のガッチリした方で 木製の揚水機を作製しておられた。
薄暗い中二階での寝起きは さほど苦にはならなかったが
急転直下 生活様式が変化した。
訳は判らぬまま 生活に順応していった。
父母と一緒に生活が出来ていたという安心感からかもしれない。
ここで父が何故朝鮮に渡ったのか特記する必要がある。
独立以来 事業も順風満帆の推移をみたわけであるが
一攫千金を夢みて 昭和2年頃 先物商品の「米相場」に手を出した模様で
裏庭の離れの部屋を父の専用として許可なく立ち入りを禁じて
そこで細工をしたらしい。
当初 仲介人を介してかなり甘い汁を吸わされ
深追いして 当時の金で一万五千円の赤字を計上、
整理倒産の憂き目を見たわけである。
苦苦心惨憺苦労して得た信用も
一朝にして消失してしまった。
心すべき大事件である。
債権者会議の席上 二割配当で決着!!
その商品 什器 販路の一切を、小西の叔父が二千円で引き受け、
対馬の祖父母の山と家・土地を担保として
二ヶ年後借入金を返済したと聞く。
その折 父は単身渡鮮して再起を計る為 対策を講じていた模様だ。
一方 小西の叔父は
その持てる才能を全身火の玉の如く商売に励み
・在庫商品の現金化 一千円
・手持金(対馬不動産担保)八百円
・国技三郎氏より借入れ二百円
合計二千円
祖父母の抵当権を一番に消滅し安心させ ホッと安堵したと聞く。
当時「猪」といって十円札はめったにお目にかかることもなく
千円も貯金している人などごくまれで小金持ちの人々であった。
整理は昭和四年頃の出来事である。
***
釜山では父母はオマケつきの「正ちゃん豆」の三角袋のお菓子を
駄菓子屋さんに、一軒一軒テクテクと遠い所まで歩きながら
訪問して商いをしていたもやうだ。
ある日、熱い泥、ほこりの舞う長い坂道を歩き続け
余りキツイので駄々をこねて母を困らせた事がある。
下関で多数の使用人にかしずかれ、奥様で過ごした日々に比べ、
現在の苦境は母もどんなにか辛く悲しい事であったろう。
それを口にださず ひたすらに耐え辛抱した根気と勇気は尊く
ほんとうに頭が下がるのであるが
私はその当時は母の苦しい気持ちを忖度できなかった。
現在私の事業も従業員に恵まれ年々発展途上にあり
東京への進出も地盤がかたまりつつあった。
急速な事業発展に 母は口ぐせののやうに
「自重して余り手を拡げないやうに」とよく注意してくれる。
釜山での生活体験を通しての諫言だと思うが 親心とは有難いものだ。
***
<2回目転居>
紺碧の空に白い夏雲が印象的だった頃、
電気会社かガス会社かわからぬが
大きな煙突の見える埋立地の海岸にある
社宅のやうなボロ家に引越をした。
ここでは西瓜の皮の漬物を食べた事が頭に残っている。
朝早く 父に先導され源治君とジョギングをしたり、
暗い裸電球、蚊除けの蚊帳の生活。
蚊帳の入り方が悪いと 父のしつけは今だに忘れられない。
学校は朝鮮の子供と共学だったが
朝鮮人の中にも正義感の強い人格者がいる事を知った。
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<3回目転居>
そろそろ肌寒さを覚える初秋又引越した。
今度は街の中で 公衆市場も近くにあり 便利の良い処であったが
何か落付けぬ家で 黒雲が私におそいかかり 悪夢に悩まされた日もあった。
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<4回目転居>
日ならずして その家の裏通りのかなり広い家に又引越した。
ここで父は以前のお得意様であった菓子問屋の
橋本商店に勤めていたやうに思う。
川筋の大きな店舗で、父によく弁当を持参した事を覚えている。
当時「日米もし戦わはば」など戦記ものの小説が
よく子供達の話題になった頃である。
父は子供達の勉強や躾はきびしく
出張先から宿泊地の旅館宛に
テキストや絵画や書道を送りなさいと言って
約束を履行せぬ時など帰宅してひどく叱られて
体罰もうけたものである。
反面、非常にやさしい面もあり、
約束通り所定の場所へ送達しておくと
学用品など土産物を持ち帰ってくれていた。
ある朝 朝食時に「今何時であるか」と聞かれ
予備知識もないまま答えられずにいると、
それが判る迄教えられ、遅刻して登校した。
厳しさ故に、時間に関してはその後
適確に正確に報告出来るやうになった。
この頃北風に乗せて朝鮮ダコを手造りで遊び興じて、お正月を迎えた。
父が出張の日、母が病気で寝込んだ時、
夜空に寒々とした街燈の下で(共同水道)
こごえた手を震はせながら炊事をした事もあったが
辛いと思った事はなかった。
たしかに小学校1年生の頃である。
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<5回目転居>
そして春の遅い釜山で珍しく小春日和が続き
水がぬるみ初めた頃、又転居した。
何でこんなに住居が変わるのか、私には合点がゆかぬままである。
ここでは大きな銅鍋に大豆を炒って砂糖でまぶす
正ちゃん豆の手伝いをよくさせられた。
ここでは遠足をした記憶が残っている。
***
<6回目転居>
それから初夏の頃、又、転居となった。
草場町というところで近くに海岸や大正公園があり
埋立ての新開地であったやうに記憶する。
お菓子屋の小売業と棒アイスキャンデーの製造をした
お店の姿を今でも思い出す。
お隣の風呂屋さんが家主で、母がよく豆乳を飲んでいた。
小学校は第六尋常小学校で日本人専用の学校で
ここでは友達もたくさんに出来た。
公園の海岸で竹の先に小石を結びつけ
カニ釣りに興じて遊んだ。
生まれて始めて夏祭りの御神輿を担ぎ、
母が夜なべして作られたハッピを着て 町内を練り歩いて喜んだ事なぞ
此の街での印象が釜山では一番思い出として残っている。
その頃から父の体調がすぐれず
腰に毛布をまき タライにつかって治療していたが
遊び盛りの私には何の病気かわからずじまいだった。
(肋膜と肝炎と痔病を併発・・・現代補足:肋膜は、おそらく今の結核)
忘れもしないが昭和6年6月26日
学校で授業中 父の容体が悪いと知らせがあり帰宅したら、
父は床の上で衰弱した体で手に力をこめて
「お母さんの言う事をよく聞いて立派な人になるんだ」と、
私をみつめたまま 天国に召されて不帰の人となった。
時に父は、数え年の33才の働き盛りである。
私が9才(満7才?)母やデン祖母や周囲の人々の嗚咽に
一家は深い谷底へ落ち込んでゆくやうな悲哀につつまれていった。
葬儀は幼心に簡素なものだったと記憶する。
火葬場も辺鄙なところで
父のお骨を木箸で一ツ一ツ拾う母の瞼は
赤く腫れ上がり 心に焼き付いている。
<今後の投稿予定>
4.父亡き後
5.下関でのこと
6.商人道の体験
他
ぼちぼち投稿予定。