2.幼時の思い出
祖父の遺した手記の第2節です。
*人物名は、全員鬼籍に入っているため、手記そのままに転記しています。
*手記の所有者である父に今後何か言われたら削除します。
私が小学生1年の頃と思われるが
お正月などは、私も幼いながら紋付羽織袴を着用し、
午前9時全員二階の広間に参集して「君が代」の合唱に始まり
それぞれ各人の新年の挨拶があった。
母や女中さんが丹精こめた手づくりの正月料理が台付膳で運ばれ
酒宴となるに及んで、その興は書きぬ(?)思い出となっている。
父の十八番は頭に紫の帛紗を巻き、
蛇の目傘をさして「我がもの」を舞うのである
(兵役服務中、役者の部でより習ったと聞く)。
女中のお勝さんの「のんきな父さん節」も印象に残る唄であった。
昔の商家は「お盆とお正月」にしか御馳走がいただけなかった。
現在珍重されている高価な「数の子」も盛りだくさんに思いのまま頂いたし、
餅柳など床桂に飾り、正月らしいのどかな、平和なよき時代であったと思う。
私のすぐ下に妹の静江(大正14年8月5日没)2才、
次男の誠(昭和3年3月1日没)3才といたが
たぶん誠と思われるが御葬式の情景がおぼろげに残っている。
私が田中町の幼稚園に通うになってから
中村の栄さんや西村の勇江さんがよく自転車で送ってくれたものである。
(市電で三つ目位の停車場のあるところ)
お盆の弁当は、お鉢入りのお寿司の配達があり、
友達と一緒のお弁当でなくては嫌だと
大泣きして駄々をこねて先生達を困らせたらしい。
次男の誠が生まれて間も無く母に抱かれて
亀山神宮の節分に参拝した時の写真など見て
恵まれすぎた平和な家庭のやすらぎがそこに見出され
思えば幸せな幼時をすごしたやうだ。
<今後の投稿予定>
3.朝鮮でのこと
4.父亡き後
5.下関でのこと
6.商人道の体験
ぼちぼち投稿中。