その靴音を待っていた
「仙道企画その5」参加作品です
シルクハットの紳士が、雨模様の街を歩いている。爪先裏の金具がコツコツと石畳を叩く音に、びくりと身を震わせる老女がいた。驚きと、悲しみ、期待と不安。たくさんの感情が老女の乾いた顔を通り過ぎてゆく。
しばし躊躇したが、決意したように唇を引き結ぶと、老女はスラリと立ち上がる。少女のように弾む足元は、くたびれた茶色い短靴で覆われていた。心持ち透けたその姿は、生者とは思えない。
堤を登り、路に出ると、銀青の背中が角を曲がるところであった。
「待って!」
嗄れた声は悲痛に響く。夕暮れに滲む長身の背中は、立ち止まる気配もなく角の向こうへと消えた。老女はもつれる足にも構わず走り出す。
「待って!お願い!」
叫び、角を曲がれば、腕を伸ばして袖を追う。ようやく追いつく頃には、ぜいぜいと息が上がっていた。
「何をなさる?」
肉厚の絹を仕立てた上衣を掴まれ、紳士は目を見張る。
「あなたはちっとも変わらないのね」
シルクハットから流れ落ちるまっすぐで銀色の髪は、仄暗いガス灯の光で縁取られ、亡霊のように浮かんでいた。
「私を知っているのか?」
紳士は驚きの声を上げた。
「あ、わたくしは、こんなにお婆ちゃんになってしまったから」
老女は残念そうに眼を伏せる。その仕草を見て、紳士はハッと息を呑んだ。
「まさか、あなたは」
老女は顔を上げる。希望が濁った瞳に兆す。
「あの柳の木陰でお逢いしやしませんでしたか」
紳士の問いかけに、老女はふんわりと微笑んだ。
「ふふ」
忍び笑いを漏らし、枯れた指で取り出したのは、小さな小さな細い銀の笛だ。色褪せた唇が笛に触れると、密やかな音が漏れた。
「ああ、なぜ。なぜ今まで吹いてはくれなかったのですか」
「待っていたのよ、ずっと」
「どうして」
「来て欲しかったの」
「呼んでくだされば、いつだって参りましたのに」
「ふふ、そうね。ごめんなさい」
老女の笑みは艶やかに輝き、紳士の目元は和らいだ。
銀青の袖が静かに上がると、その手には明るい銀の細長い棒が握られていた。
「こちらへいらっしゃい」
もう一方の腕が老女の腰を取ると、灰色の粗末なチュニックがたちまち藍色に染まった。広く開いて垂れ下がる袖は、星屑を散りばめて眩いほどだ。白く傷んだ髪は波打つ紫銀に変わる。黒ずんだ瞳が美しい夜空の青紫に戻る時、老女はもはや老女ではなかった。
ふたりの船は三日月の形で、遥かな空に漕ぎ出して行く。互いに待ち続けた永く虚しい月日は、悦びの中に溶けて行く。
◆
仙道企画5参加作品
『靴音』
靴音嬉しく
石畳夕暮れ
雪はちらちらりと
そわそわ待つ窓辺
花盛り木陰に
川風も優しく
温もり愛し
微かに触れる肩
翻る裾に誘われ夢遥か
弓の弾みも軽やかきらり
回るふたりの指先
星の吐息
石畳灰色
ガス灯はぼやけて
微睡の葉陰
あの日の歌を聴く
靴音は幻
遠ざかる面影追いかけ
月漕ぐ雲の波間
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