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それではみなさん、お達者で

作者: 雪芳

 あなたが生まれてきたとき、

 あなたは泣いて、あなたのまわりのひとたちは笑っていた。


 だから死ぬときは


 あなたのまわりのひとたちは泣いていて、あなたは笑っている。

 そんな人生を送りなさい。


――――ネイティブアメリカンのことわざ。




「父さん、赤ん坊になってくれませんか」

 西村育にしむらいくは意を決し、咽喉から搾り出すように呟いた。風がざわめき、桜の花びらを掬い取る。一枚が、育の父の盃にひらりはんなりと、浮かんだ。

「いいですよ」

 温厚な父が美しい皺をより一層深める。その時不思議と、花見の喧騒が聞こえなかった。消え入るような小さな答えが分かってしまったのは、そのせいだ。

 ……三月のことだった。


「どうしましたか」

 ハッとして現実に引き寄せられて、育は頬杖を反射的にやめた。目の前に、幼い顔に似合わない賢明さを醸す微笑がある。

 小動物のようなくりくりした瞳。純真無垢な童顔、けれど無邪気ではない空気。

 朝食を終えた食卓の上で、それはとても眩しく見えた。なんだか神々しくて、余計気恥ずかしさが込み上げる。

 誤魔化してもきっと、見透かされてしまうだろうなぁ。

「うん、とね。三月に三人で花見に行ったでしょ。それを思い出してて。なんでかな」

「ふぅむ。解りました、これのせいでしょう」

 父は掌いっぱいのテレメラテーゼを育に見せると、そのひとつを指先に抓み、額の上にかざした。


 ひらり、はんなり。テロメラテーゼは薄いピンクの光を翻しながら彼の柔らかな手で空中に踊る。


「桜の花びらの色です。大きさも形も、ちょっと似てますね」

 そしてひょいと、小さな唇で食む。

「味はとても苦いですが」

 その動作がどうにも可愛らしくて、育は思わず唇を手で押さえた。

「育、笑わないで下さい」

 父の抗議。照れくさそうに頭を掻く仕種も可愛らしい。

「だって父さん、すごく、可笑しい」

「こら、父親をからかうんじゃありません」

 殴るように父が手を上げたので、育はゆっくりと頭を下げた。こうしなければ、背の低い彼には届かないからだ。拳骨とはとてもいえない優しい振動が後頭部に囁く。


 懐かしいような、切ないような気持ちがジンと心臓に滲む。

 でも少しだけ、育は後悔した。卓上のテロメラテーゼを入れた瓶が目に入ってしまったから。


 テロメラテーゼは、この国、日本で開発された。最近になりようやく認可された薬物だ。とは言っても、開発されたのは二十年も前で、そういう意味では古い薬になる。

 認可が遅れたのはその独特な効能のせいだった。


 若返る。


 この奇異極まりない薬は元々、人の寿命を延ばすためために生まれた。簡単に説明するならば、浦島太郎の宝箱の真逆のもの、といった所だろうか。

 人間の細胞の中にあり寿命の長さを司るテロメア。その物質に影響を与え、そのようになってしまう。

 だが、その驚きの力は、近年まで使われることがなかった。ある、奇妙な後遺症のせいで。


 若返る、ゆえに赤ん坊になってしまう。テロメアテーゼにはそんな奇異極まりない特徴があった。

 このことは同時に、服用者にとって望ましい生活が出来なくなること、全てを忘れてしまうことを意味する。その決定的ともいえる後遺症のせいで、近年まで封印されてきた。そう、近年まで。


「ずいぶんと縮んでしまいましたね」

 洗面台より小さくなってしまった体を台に乗っけて、背伸びしながら歯を磨く、父。

「そうだね。そろそろ新しい服が必要かなぁ」

 服用前は育よりも背の高い人だった。だから昔着ていた服をお下がりならぬお上がりさせている。最近では、それも間に合わなくなってきたような気がする。

「詰めれば大丈夫です。せっかく私の介護を楽にするために薬を服用しているのに、そんな風に散財してしまっては意味がないでしょう」

「そういうの、散財って言わないと思うけど」

「いいえ、薬代だけで結構かかるんですから。医療保険も降りないし」

 父はぴょんと台から飛び降りると、いっちにと体を動かした。

「うん、今日も健康のようです」


 にんまりとポーズを取ると、今度はステップを踏んだ。

 薬のせいで若返り、身軽になった体が嬉しいらしく、父はこの踊りのような踊らされているようなステップをよく踏むようになった。

 まるで絵本から出てきた小人のように軽快な動きは、育をいつもウキウキさせる。


 調子に乗って二人で踊ってみる、……と。

「何やってんの?」


 父が石像になった。それもそのはず、彼の背後に育の夫、晴樹が立っていたからだ。耳まで一気に赤く染めると、父はまるでバランスを崩して転びましたという風に膝をつき、立ち上がる。

「うーん、朝はやはり血圧が……」

 家族とはいえ少し前までは他人だった晴樹の前となると、彼は常に厳格でありたいらしい。妙なぶつぶつと独り言を呟きながら素早く晴樹の脇をすり抜けると、廊下へ出た瞬間に走り出してしまった。

 父の奇怪な行動に

「おいおい、あれはなんだ?」と指をさす晴樹。

「さぁ。暑くなったからでしょ」

 育は肩をすくめてみせると、夏の光溢れる廊下へと足を向けた。




 週に三回必ずやってくる日。今日は父の診察の日だ。


 財布から診察券を出して受付に出すと診察番号の書かれたカードを渡される。父にそれを握らせて、二人で時を待つ。

 病院の待合室には、父と同じくテロメラテーゼを服用しているお年寄り、いや子供の姿が、ぽつぽつと見受けられた。挨拶を交わすわけでもないが、何故か親しさを覚えてしまう。

 テロメラテーゼの服用者は一目で判別できる。彼は相応にして白髪交じりだ。

 そして痩せている人の中には皺も残っている者もいる。父もその例外ではなく、幼くも整った顔に綺麗な白髪がかかっていた。ヘルマンヘッセの作品集を抱えた手の甲には、小さな皺もある。


 と、父の本がパタンと閉じられた。診察番号を呼ばれたらしい。

「育、今日はついて来て下さいよ」

「はいはい」

 育はよいしょと腰をあげると、父の手を握った。リノリウム張りの廊下の、一番奥の診察室に向かう。中には、父の担当医である若い医者が座っていた。

 なんとなく彼にはいつも冷たい印象を受ける。無愛想なわけではなく、寧ろ優しいくらいなのだが、私は苦手だった。


「お元気そうですね、西村さん」

 そんな医師らしい定型句から父の診察は始まった。「今日は保護者の方もご一緒ですね」

 保護者という言葉にピンと来ないまま、頷く。これから始まるだろう話に緊張しきっている育の背中を、無意識なのか父が撫でる。

 医師の柔和な微笑み、糸のように細い目から育へと滑り込む、何か。私は姿勢を正した。


「西村、えー、お父上の西村真さんのことですが。経過は極めて順調です。懸念されていた発作もないようですし、このまま最終段階に入るでしょう」 最終段階、つまり乳児期のことだ。


「最初のご説明のとおり、食事は離乳食に入ってください。ベビーベットはご用意されていますよね」

「はい」

 育の堅い返事に頭を傾けると、医師は続けた。

「離乳食がしばらく続いた後に歯が全て抜けます。気をつけてください。全て抜け終わったら、すぐに乳児期に入ります。哺乳瓶と赤ん坊用のミルク、おしめも必要になります。場合によっては、現段階でもおしめをしてもいいでしょう」

「それは」

 育は息を呑んだ。考えていなかったわけじゃない。ちゃんと説明されていたが、いざ医者に言われると、ドキリとする。

 気持ちを整えて、答えた。


「待ちます。父の尊厳を大切にしたいので」

「分かりました。ただ、お父上はこれから御自分の意思のままに動くことが困難になるでしょう。それは貴方にとっても、辛い意味を指します。それは近い未来に来る。二週間か、三週間か……」


 深刻さを帯びた医者の口振り。思ったより乳児期が来るのは早いらしい。

 個人によって早まるということは通院する前から知っていたが、ふいに息苦しさを覚えてしまう。

「……そしてこれは、全ての方に聞いていることですが」

 育の考えを見透かそうとするように、医者が更に育を観察する。

 瞬時に、繰り出そうとされている質問を理解した。

「虐待はしません。絶対に」


 そう育がきっぱりと放つと、医者は細めていた目をパッチリと丸め、次の瞬間、綿菓子の頬をふんわりと緩めた。


「うん、さすが西村さんのお子さんですね。ご自分で勉強されてる。実に素晴らしいです」

 冗談なのか本音なのか、子どもっぽく語尾を延ばすと、医者はカルテを看護師に回した。

「ええ。自慢の子ですから」

 誇らしげに父が同調したので、育は気恥ずかしくてチョット居た堪れなくなった。

 病院の帰り道、父の機嫌は上機嫌そのものだった。普段は理性を極力保とうとするタイプの父は時折、子が困惑するくらい茶目っ気を出す。

 ホップ、ステップ。

「父さん転ぶよ」

「大丈夫」

 はぁ、呆れる。

「何がそんなに嬉しいの」

「育が褒められたろ」

「ああ、そうなの」


 育の気分を知ってか知らずか、父は育の顔をのぞき込み、

「そうだ服を買いにいこう!」と幼児独特の甲高い声で叫んだ。「服? 買うの? 今朝は買わないっていったじゃないの」

「いいんだ、幸せだから」

 意味が分かりません。


 こう言い出したら父は止まらない。丁寧な言葉遣いからよく優しく鷹揚に見られがちだが、実は頑固なのだ。自我の育った大学生相手に教鞭を振るっていたことが彼の性格をそのようにしたのだろうか。まぁ、育も父に服を買ってやりたいと感じていたし、丁度いいといえば丁度いいのだけれど。 駅前にある伊勢丹へと足を踏み入れた。伊勢丹なら子供服も大量に売ってる。

 二人してエスカレーターに乗る。


 が、父はあろうことか子供服のある四階ではなくどんどん上を目指して行くではないか。

「ちょっ、ちょっと父さん!?」

「ほらほらどうしたんですか、五階ですよ?」

 意外な言葉に思わず驚く。

「お父さん、子供服じゃなくて私の服買うつもりだったのっ?」


 五階にまで登り、父の肩をひょいと掴む。父はというと、一体なにを言ってるのかしらこの人、という目で私を見上げている。

「父さん。私、子供服を買うんだと思ってた」

「何を言ってるのですか。私の服については今朝、詰めればいいと言ったでしょうに」

 父は呆れたように溜息をつくと再び歩きだそうとしたので、育は手に力を入れた。父の提案には賛同しかねる。

「そういう意味なら、帰ろう」


 父のものでない服を買うには行かない。服ならばたくさんある。昔から使っているとはいえ、不便はないのだから。

 だが父は納得いかない様子だ。


「どうしてですか」

「必要ないからだよ」

「必要ですよ。育も晴樹君も去年と服が変わっていないし……」

「いいから帰るよ」


 父の肩から手を離し、さっさと育は逆側にある下りエスカレーターに向かった。

 だがそれを父は許さない。父は育の後ろ袖にしがみつくと全体重を乗せ始めた。重くて歩きにくいったらない。 振り解こうと父の首根っこを掴んだ。父はそれでも抵抗する。頑固者の父はスッポンよりしつこいのだ。

 ……スッポンよりしつこい時の父には、いつも理由がある。


「私の介護でお金がかかったことは謝りますから」

 父のその一言で育の力は緩まざる終えなかった。

「父さん、そんなこと思ってたの」

 父を行動させた理由に唖然とするしかない。そして同時に苛立ちを覚えた。

 確かに父の医療費や介護にお金がかかっていたのは事実だ。デイサービスの利用や介護グッズの使用で我が家の財政が逼迫したのは紛れもない事実だ。それだけでなく認知症の進行で精神的にも追いつめられてきた。

 だけど、それは過去の話だ。だから育は父にテロメアテーゼの服用を願い出たのだし、父もそれで納得したはずだ。


 それなのに

「どうしてそんなこと言うの」。


「どうしてって……だから育は反対してるんでしょう?」

「違うよ。父さん分かってない、変じゃん。服を詰めればいいとか言ってた癖に。紳士服なんて、晴樹もあれ以上のびたり縮んだりする予定はないよ」

「使えるものは使えるんです。古くなったものは買い換えないと」

「父さんのそれだって皆から貰ったお古だよ。ほらっ帰るよ」

 育は父を強く引っ張った。だが父は抵抗し、さっと逃げる。 そして育を睨みつけると一喝した。


「父さんの話をしてるんじゃない!」

 甲高い怒声が売場に響きわたる。何人もの視線が一気に降り注ぐ。

 ……前まではこんな、大勢の前でカナキリ声をあげる人ではなかったのに。

「こっちだってそうだよ。もういいよ。勝手にして」

 父にそう吐き捨てると早々と下りエスカレーターに乗り込んだ。自分の行為に反省してついて来るかと思った父は育の後を追うことはなかった。 二人は別々に帰宅した。


 テロメアテーゼの服用条件のひとつに年齢は八十以上、という項がある。いくら若返っても八十年の経験が記憶として残っているのだ。

 年をとれば丸くなるというが、それは違う。ただ、人生への未練も活力も弱くなり、気持ちを押し込めてしまうだけだ。若返り、体が動くようになれば八十年以上育てた自我が主張する。周囲の誰もが、己より若く青いのだ。 ……あぁけれど、もしかしたら薬物投与の不安が無意識に働いているのかもしれない。

 それにしても正直、唖然とし、苛立ち、衝撃を受けていた。

 父が五十近くになってようやく出来た子供であることもあり、育は溺愛されて育った。逆算すれば孫でもおかしくないくらい父と年の離れた育は、声をあらげられたことなど今までなかった。母が死んだときでさえ、父は静かにすべてを受け入れていた。感情をぶつけられた事などなかったのだ、一度も……。

 育の中には、穏やかな父の姿しかなかったのに。


「おい、どうなってんだ?」

 会社から帰るなり、晴樹は呆然と口を開いた。それもそうだ。二人が珍しく喧嘩しているのだから。

 育は怒りに仏頂面になりながらソファーの上で丸まりテレビを鑑賞していた。父はというと、同じく居間で、とは言ってもソファーの反対側にクッションを敷き、育の顔を目に入れないように新聞を読んでいる。いつもは二人で仲良く食事を作っている時間帯だ。


「珍しい。たまにはってやつか? でも少し迷惑かな」

 晴樹はあくまで中立の立場という風な口振りでネクタイを緩めると、熊のような体をノソノソと動かして家庭用電話の前に座った。丁度、居間とキッチンの間にある。

「さて、出前でも取りますか。さて、何が食べたい?」 二人は寡黙に徹した。ここで機嫌を直して

「ピザが食べたぁい!」

なんて言ったら負けである。

 晴樹はキョロキョロと私たちを伺うと、じゃあ適当に決めるよ、と呟いた。

「もしもし……あ〜、西村のマスオです。そうそう久々にやってるみたい。うんうん、まぁ、特上一人前と並二人前お願いします並ひとつサビ抜きで」


「「寿司ィ――ッ!?」」 不覚にも父と台詞が被ってしまう。いやいや。「ちょっと待ってよ、寿司って!」

「良いじゃん。パチンコで当ててきたんだよ。まぁ喧嘩中のおこちゃま達には関係ないっしょ。お前等は並で十分だ」

「ややや、晴樹君、それはいけないよ。並なんていう質の悪い生物は年寄りの体には悪すぎるよ。せめて上でないと」

「ずるっ! 父さんずるっ! 若返って胃は成長期の子供のくせにっ」

 父に噛みついた。父も負けずに、自分がいかに繊細か語り始める。私も自分にどれほど特上寿司が必要なのか反論し始める。

「……仲が良いよなぁ」

 晴樹はそう言って、笑った。



 今でもたまに思う。

 仲がいいというか、物事を有耶無耶にしてもいいから傍にいたいだけだと思う。不満を隠して一緒にいようとするのを、本当に仲がいいと言えるのかは分からない。二人は親子だし、縁が切れないから、いつまでも喧嘩を続けるわけにはいかない。

 そういう意味では、自由がないと、思う。


 ……晴樹が寿司を選んだのは、父の症状を予測してのことだった。

 翌日、いつも朝の早い父が自分から起きてこなかった。階段をあがり父の寝室を覗くと、嘔吐していた。急いで春樹を叩き起こし、老人科救急のある病院へと駆け込む。

 臓器が、幼児のそれになっていた。


「若返りが急速に進んでいます。まもなく、自分の力で胃にたまった空気を抜くこともできなくなります。げっぷの促しかたは分かりますか」

 申告を受け入れられずに呆然としながら、父を背負い、帰路へついた。渇いた葉が足に絡み付く。季節はもう、秋に変わろうとしている。あの決意の春から時間は確実に過ぎていたのだ。

 人間は衝撃を受けると重力を失う。些細な人生において、幾度かこうして地面を亡くして、何もわからなくなる。もし背中に父を背負っていなければ、きっとふわふわと浮いてしまう。何処ぞへと。それは何処なのだろう。 ふいに左腕に重みを感じた。

「俺が変わろうか?」

 晴樹がこちらを見ている。変わる? 何を? この熱を? 重みを?

 父の命を?


「いやだ……」

 晴樹の姿が滲む。歪む。

「いやだいやだいやだ……」

 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。

 ねじ曲がる。

「いく」

 痛みが背中に走った。首を後ろに向けると、父のもみじの手が映った。少しずつ朱色から白へと変色する。力が込められる。

 この拳を一度見たことがある。母が死んだとき、父の拳はこんな色だった。

「服を買いましょう。いくの服を」


 伊勢丹の五階にあがる。きらびやかな入り口を過ぎ、人々の笑顔の隙間を抜ける。エスカレーターへと慎重に乗り、浮上する。二階、三階、四階、そして五階。

 そこは紳士服売り場だ。


「いく。まっすぐに行って、突き当たりを右です」

 父の言われるままに、育は進んだ。父が私に服を買うのだと、だだをこねた理由を知るために。その決意を思い知るために。

「この服を、私が死んだら着てください」

 今でも父の、柔らかい愛が聞こえる。




 四月、町に桜が降る。ボンヤリと、昨年のことを思い出していた。

 テロメアテーゼを認知症の父に服用したこと。

 小さかった父が少しずつ若返り、育より大きくなり、そしてまた小さくなっていったこと。

 それを受け入れてくれたこと。そして残してくれたもの。

 裂かれたように、血が噴き出るように、痛み続ける日々を。

 許されようとは思わない。育は、――私は、父を殺したのだ。


「育」

 呼ばれて振り返ると、晴樹が廊下から顔をのぞかせていた。

「いま、大丈夫?」

「ん」

「俺じゃ無理だ」

 その言葉に、背筋が伸びる。白いベランダを背にして、部屋へと足を向けた。

「ごはんは? おしめとか」「ダメ。そういうのじゃない。ただただ機嫌が悪い」

「まだお父さんって、認識がないんだろうね」

 泣き声が響いている。

「はいはい、育お父さんが来ましたよ」

 急いで、部屋の奥におかれたベビーベットに上体を突っ込む。中では艶やかな茶髪はボサボサに、大きい瞳が目を腫らし、小さな手足をばたばたと広げていた。“彼”をだき抱えると、高く掲げる。

 途端に彼は笑みとなる。艶やかな肌を、紅色の頬を、無邪気に輝かせて。




 テロメアテーゼが認可された背景は三つある。

 寿命や認知症という、人間が逃れられない病に打ち勝てるということ。

 超少子高齢化社会を迎えた日本において、海外の力を借りず破綻しかけた経済を立て直すための特効薬であること。

 何らかの理由で出産が望めない夫婦、及び同性カップルの、“血の繋がった家族を生み出す”最後の希望であること――――。


 父の逆成長がとまり、父の自我と記憶が全て消え去った冬、育は愛する息子を手に入れた。

 育は子供が欲しいという欲望に負けたことを、一生許せないだろう。自分の息子と引き換えに、父を殺したことは紛れもない事実なのだから。

 泣き止んだ息子を再びベビーベットへ預けると、育は晴樹に向き直った。晴れやかな日の桜を背に、白い服を纏う彼は眩しい、笑顔までも。彼から育は、同じように感じられるだろうか。父が二人に残した、純白のウェディングスーツ。

「やっぱり、血の繋がった親子だな」

 真っ白な服に雨が降る。それなのに世界は明るく、残酷な希望に、こんなにも満ちる。

「そうだよ。私たちは、紛れもなく親子だ」

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