明鏡
明治十年。秋。
司法省の役人である唐澤幸光は数日の休暇をもらって、妻の貴子の妹の葬儀に参列した。貴子の妹は昨年から病に臥していたのだが、元々体が弱かったのも重なって病状が悪化してしまい、そのまま息を引き取ったのであった。
今、唐澤夫婦は葬儀に参列した帰りの汽車に揺られながら、客室で静かに身を寄せ合っている。向かい合う席では幼い娘二人が頭を付け合って居眠りを始めたので、幸光は喪服の上に着ていた自分の羽織りを脱いでその上に被せた。
窓の外……汽車が走っている闇夜の森には風が吹き荒れ、震える木々の音が客室のランプの暖かみを妬んでいるかの様である。
「お前も、寒くないかい?」
幸光は窓側に座っていた貴子の羽織が肩からずれ落ちそうになっているのを掛け直してやりながら言った。
「いえ、平気です」
細々とした、それでいて凛とした声で貴子が言った。無理をしているのが明らかに分かって、幸光にはそれが痛々しく思えた。
慰めてやった方がいいのだろうか、それともそっとしておいてやった方がいいのだろうか。四十を目前とした年齢でありながら未だ妻の扱いに窮する自分を情けなく思って足元に目を伏せていると、押し殺した啜り泣きが隣から漏れ出して、幸光は慌てて顔を上げて貴子の横顔を見た。
「ごめんなさい。武家の長女ですから、絶対に泣かぬと決めていたのに……」
羽織の袖で涙を拭う妻に不器用にハンカチを差し出して、精一杯の心遣いを見せようと頑張った幸光であったが、貴子は顔を隠す様にしたまま、
「ありがとう」とサッと受け取って、目元に押し当ててしまった。
幸光が貴子の華奢な肩口に手を添え、ふと窓を見ると、打ちつける風に硝子はしなって見え、ランプに照らされ反射する散切り頭の幸光本人と妻子の姿が歪んで映し出されていた。森の暗闇がその背景として朧げに浮かび上がっているのが何とも不気味で、身震いがする。
「ねえ、あなた」
ハンカチを持った両手をパタリと膝の上に落とし、そこに視線を下げたまま貴子は何やら逡巡していたが、やがて幸光の方に顔を向けて、言った。
「随分、優しくなられたのですね」
潤む瞳に皮肉を孕んだ笑みを向けられて、幸光は思わず貴子の肩から手を離し、
「えっ……」と言葉に窮して、
「そうかな?」と聞き返した。
「ええ。奉行所にお勤めされてた頃は、冷たい人でしたよ」
その言葉に、幸光はトゲを感じた。
御一新の前には町奉行所の廻り方同心であった幸光は、日々の勤めの中であらゆる罪人達と対峙し、その内の何人かは斬り捨てた事もあった。やがてその心はすり減り、人の情と言うものを捨てていた時期は確かにある。御一新の後に子が生まれ、かつての上役であった士族の口利きで司法省に入ってから徐々に落ち着いていったものの、貴子の方はまだ引きずっているのだ。
尽くされても支えられても、妻の存在を顧みず独り廃れていた、小銀杏髷を結っていた頃の幸光を……。
「私も戸惑っておりましたよ。ひどくお疲れになって帰って来るあなたをどんなに慰めても、眠れぬ日のあなたに一晩中付き添っても、一目たりとも私の方を見て下さらなかったんですもの。私は妻として嫌気が差されたのかと思って、哀しかった……」
ハンカチを持つ両手が小さく震える。幸光はその手に向かって、
「すまなかった」と言おうとしたが、そんな言葉では軽過ぎる気がして、どうにも憚られた。
貴子はそれを察して、首を横に振る。
「いいのです。私が至らない妻であったのです。その上こうして過ぎた事を掘り起こしてあなたを責める私が悪いのです。ただ、亡くなった妹とあの時の私達をどうにも重ねてしまって、辛くなりますの。病に臥せてからあの子は独り苦しんで、弱り果てて、最期もまた独り……。誰にも看取られぬ内に息を引き取っていたと言うじゃありませんか。それがあの子にとってどんなに寂しかっただろうかと思うと……」
とうとう嗚咽は大きくなり、娘二人が起きてしまわないかと不安に駆られた。
しかし、今度こそ幸光は妻の震える小さな手をしっかりと握り締めた。
「貴子」と真っ直ぐに妻の瞳を見つめる。その瞳から溢れている涙は幸光の姿をぼやけさせているのだろうが、構わず見つめた。
「すまなかった。お前が傍にいてくれながら俺は、お前の事を何も見てやれていなかった。許してくれ。至らなかったのは俺の方だ。これからは必ずお前たちを幸せにする。義妹さんの分も、必ず。きっと義妹さんだって、ずっとお前と一緒にいるのだから」
いつになく思いの込もった夫の言葉に、貴子は目を見開き、再びハンカチで目元を押さえてからふと息を吐いて、幸光を見つめ返した。
「ねえ、あなた」
「うん?」
「散切り頭の方が素敵ですよ」
貴子は何かを取り戻すかの様に言って、微笑んだ。
「えっ?何だい、急に。今更……」
苦笑する幸光の困った顔に貴子はくすっとしながら、
「だって、昔のあなたに言ったらきっと嫌な顔をなされたじゃありませんか」
幸光は見事に一本取られた気がして、「ぐぬ……」と呻いた後、
「すまん……」と言って片手で頭を抱えた。
「いいえダメです。許しません。嫁にあんな冷たい仕打ちをしたのだから、一生かけて埋め合わせをしていただきます」
頬に涙痕をつけたまま貴子はキッパリと言った。
「えっ、そんな……あ、いやいや、そりゃ勿論そうするさ……」
それから急にオドオドし始めた夫を、
「だから……」と制した。
「だからあなたも、私を独りにしないで下さいね。いつかこの子たちが巣立って行っても、ずっと一緒にいて下さいね」
愛おしく目を細める妻の表情に、幸光は心の曇りが晴れていく気がした。
「ああ、勿論。約束するとも」
妻の手の暖かさを両手で包み込むと、いつしか窓の外に風は止んで、硝子に反射する家族の姿はもはや歪む事なくランプの明かりに映し出されている。
穏やかな寝息を立てている娘達の顔に目を奪われながら、幸光はそっと、愛妻を抱き寄せた。