謎の湿気に悩まされるMの話
いつからだろうか、守康は湿気に悩まされている。今はもう十一月の終わりだ。外は乾いた風が吹き、猫もこたつで丸くなり始める時期なのに、生温かくじめっとした空気が彼から引っ付いて離れない。夏に汗が乾かないで夜中に気持ち悪くなって起きるのも、音がやたらうるさい割に涼しい風をちっとも送って来ない、黄色く変色した古いエアコンのせいだと思っていた。いや、実際そうだったのかもしれないが、その夏が過ぎ、台風がいくつも通り過ぎ、冬に片足を突っ込んでも澄んだ空気を吸う事さえままならない。もう気のせいにも季節のせいにも出来ない。きっと何か別の原因があるのだろう。と言っても思い当たる節が無いから困ったものだ。例えば、自分が住んでるアパートの二階の一室のみがむっとしているのであれば、大家に相談すれば良いが、四六時中彼の周りのみジメジメしている。ジメジメしているが別に白く靄がかかる程ではない。だがしゃれた喫茶店の窓際のカウンター席で勉強していたりすると、彼の前だけガラスが曇ったりする。腕が乗っかっていたノートもすぐに水気を含んでよれてしまい、黒鉛の乗りも悪くなる。まるで新陳代謝の良すぎる人間だ。守康は流石におかしくなって自嘲気味に一人で笑ってしまったが、不快感は消えない。
しかし、こうやって自分に起こる数々の不可解な出来事を反芻した所で、一向に原因も解決策も見つからない。そう判断した守康は一度頭をリセットするために、さっき沸かした風呂に入る事にした。風呂は彼にとって唯一以前と同じ様に過ごせる場所になっていた。入浴時は蒸気に満ちている。元々湿度が高いのだから彼に付いてまわる湿気も大して気にならないという訳だ。片膝を立て、のそりと立ち上がる。彼が歩いた後のフローリングには露で出来た足跡がついていた。
日はとうに沈み暗闇が外を支配している頃、彼は脱衣所で格闘していた。服の首元を掴んで脱ごうとするが、守康の肌にぴったりと張り付いてなかなかするりと剥けない。下手をしたら皮膚まで服に持って行かれそうだ。しょうがないから手を交差させ、下からめくり上げてなんとか衣服をはぎ取り、洗濯機へ放り投げる。裏返っていたが面倒くさいからもう元には戻さない。元に戻したとしてもまた脱ぐ時裏返る。毎回裏返る。どれもこれも鬱陶しい湿気のせいだ。全裸で過ごせれば幾分かマシなのかもしれないが、季節も警察もそれを許してはくれないだろう。
浴室の扉を開けるとゴムパッキンの擦れる安っぽい音がした。風呂場の白いタイルの壁には黒カビが目立つ。溝が全部黒く染まっていたらそういう模様だとごまかす事も出来るかもしれないが、所々黒ずんでいるから腹が立つ。何度か掃除して綺麗にしようと試みたものの、深く根を張っていて出て行く気配がまるでないので、根を張ってそのうち花でも咲かせればいい、と彼は大分前にさじを投げた。床はひやりとして冬の到来を感じる。目の前にある低い風呂椅子に腰を下ろすと、残っていた水滴が尻を斑に冷やした。湯が出るまで手のひらでシャワーからでる水の温度を確かめる。湯気が上がって来てもう良い塩梅だと感じ、正面に備え付けられている鏡を見ながら頭からシャワーを浴びようとした刹那、彼の後ろに白い霧がかった人影のようなものが見えた、気がした。しかし頭から無尽蔵に滴り落ちるお湯のせいで瞬く間に視界が遮られる。この時、守康は初めて薄ら寒い恐怖を感じた。背中に悪寒がし、鳥肌が立つ。恐怖を払拭する為に確かめたい気持ち半分、気のせいにして恐怖そのものを無かった事にしたい気持ち半分が彼の中でせめぎ合う。ジャージャーというシャワーの音と、排水溝に飲まれていく水の音のみが鼓膜を揺らす。いつまでもこうしている訳にはいかぬ。時間と水道代の無駄だ。やはり確かめるしか無い。シャワーを止めてえいと後ろを振り向く。何も居ない。ただの水蒸気が浴室を満たしていた。そして彼が入浴している間、結局人影は姿を現さなかった。
見間違いだったのだと思い、浴室を出てバスタオルで体を拭く。しかしまたあの湿気が邪魔をする。拭いても拭いてもまだ体表に水分が残っている気がするのだ。水気も不快感もぬぐいきれないまま、彼は毛玉のついたグレーのスウェットを着る。風呂から上がった瞬間から守康は湿ったベールに覆われ、爽快感なんてどこにも無い。ただ食い物まで湿り気の魔の手に襲われなかったのは幸運だろう。そこまでされたら最早守康はゾンビだ。周りを腐らせ、自分も腐っていく。昨日適当に炒めた野菜達と、近所のスーパー買って来た惣菜辺りで夕飯を済ませる。美味くも不味くもない飯を食いながら、こんな生活がいつまで続くのかと彼は考えた。だが考えた所で風呂に入る前と同じく、明るい答えは見つからない。いつから始まったのかもはっきりしないこの不可解な現象に悩まされ、妙案も見つからず、こうやって食い物を箸でつついている。目に見えない靄が心をも侵蝕する。彼は思考するのを止め、寝支度を終えるとさっさと床に就いた。だらだらと時間を持て余さず、すぐ寝る様になったのは健康的になったと言えなくもない。彼は心の中でそう自身の生活を皮肉った。
いつもの様に夜中に目が覚める。夏からずっとこうだ。相変わらず体がじっとりとしている。用を足し、顔でも洗おうとベッドから起き上がった。立派に尿意をもよおすと言う事は、この湿気は彼の中の水分が外に出て来ている訳ではないのだろう。何か外的な要因が彼を苦しめているに違いない。明かりをつけずとも家具の位置は把握しているが、さすがに便器に飛沫を飛ばしたくないからトイレの電気はつける。それから洗面台で顔を洗い、別段スッキリもしないまま、ベッドに戻った。
一度起きてしまうとなかなか寝付けない。仰向けに寝転がったまま後頭部に手を置いて、何の気無しに辺りを見回してみる。段々目が慣れて物の輪郭がはっきりして来た。すると壁際にあの白い影がこちらを向いて立っている。ただ立っている。猫背で首がやや前に出ており、こちらに来る事もせず、ただそこに居た。カーテンから漏れる月の光に照らされ、対流した水蒸気が鮮明に見える。守康の背筋は凍り付いたが、同時に彼に纏わり付いていた生理的嫌悪感を伴う湿気は消えていた。白い影に対する恐怖の感情からか、はたまた久しぶりの心地よい冬場の冷たい空気を吸い込めた安堵感からか、守康は意識を失う様に眠りに落ちた。
翌日、もう体の周辺は水分を含んだ空気で満たされている。昨晩のは自分の欲求が見せた夢だったのかと思ったものの、ベッドから這い出てあの影の居た辺りを一応確認しに行く。しかし夢ではなかった。水垢のような白い足跡が床をくすませている。ギョッとして雑巾を探す為に辺りをキョロキョロ見ると、今度はベッドのベージュのシーツに黒っぽいシミが付いてるのが目についた。嫌な予感がして、乱れた掛け布団をがばりとひっぺがす。そこには右肩を下にし、うずくまった人形の痕がくっきりと残っていた。これは守康のものではない。彼はいつも仰向けで寝ている。例え滝の様に汗をかいても、こんな風にはならない。我を失った彼は急いでシーツをはぎ取り、それで足跡を拭いたあと洗濯機へ放り投げた。
汗腺から粘着質な汗が出てくる。乾く事もせず顎から滴り落ちる。まずい。ただ事じゃない。一度深呼吸をしてわなわなと震える気持ちを抑えた守康は、友人律子に連絡を取ることにした。彼女おおらかで人当たりがいい。話をするには持って来いの人物だ。そして律子は「霊感」がある人間だと自称している。正直守康は霊や妖怪については半信半疑だったが、現在彼の身に説明不可能な現象が起き続けている。藁をもつかむ思いで律子にコンタクトをとった所、快諾してくれた。守康は早速身支度を整え、外に出る。白い吐息が出るが寒さは感じない。ただじっとりとした水分子が全身に張り付いている。彼はアパート二階の一番端の部屋に住んでいるが、隣の部屋から人の居る気配は感じられない。彼はため息をついて歩き始めた。
彼女の指定したカフェへ向かう。電車は空いていて本来なら快適なはずだが、満員電車のような生温かさと息苦しさが守康を圧迫する。もう慣れたつもりだったが、朝の一件を思い出すと吐き気がして来た。
律子は彼より先に着いていた。気を使って窓際の席をとってくれていて、すぐに見つける事が出来た。守康は外から手を振って彼女に到着した合図を送る。律子もそれに気づいて笑顔で答えるがすぐに顔をしかめた。愛想がいい彼女がこのような態度を取るのは珍しい。守康は真顔になり喫茶店へ入り、彼女の向かいに座った。律子はごめんなさいと謝りながら眉をひそめ、ハンカチで鼻をおさえている。体が拒絶しているのか、律子の目はうっすら潤んでいた。彼は自身に起きているただならぬ事態を改めて実感し、戦慄した。ただ他の人間には凄まじい臭気は感知されておらず、どうやら彼女のみが必死に耐えているようだった。
申し訳ないと思いながらも、守康はさっそく律子に何が見えているのか質問した。彼女によると外から見てまず気づいたのは、彼を取り巻く様に無数の黒く小さい何かが飛び回っている事だった。さらに守康が喫茶店に入った瞬間、形容し難い強烈な腐乱臭が鼻をついたらしい。腐った臭いなのは分かったがこんな臭いは今まで嗅いだためしがなく、兎に角臭くて臭くて堪らないと言う。そして守康が正面に座った時、その黒い物の正体が無数の蠅である事が分かり、彼の目や口、鼻、耳、穴という穴から蛆が這い出して来ているのがはっきりと見えたそうだ。這い出た蛆が蛹になって、羽化して、うるさい羽音をたてる蠅になって飛び回るのを繰り返しているのだと言う。それを聞いた守康は肌が粟立った。自分では全く見えないし臭いも分からないが、自身の体の上を蛆が蠢き、蠅が飛び回っているのを想像しただけで虫酸が走る。ただ律子によると守康に命の危険は無いらしい。そしてこの原因は彼が少し勇気を出せば解決出来る問題で、恐らく心のどこかで気づいてはいるが、目を背けているだけだとも言った。守康は呟く様にお礼だけ言い、二人分の会計を済ませ、その足で彼の通う大学へ向かった。
辺りが薄暗くなった頃、彼はアパートの階段を上っていた。コツコツと乾いた金属音が響く。守康の部屋の隣の玄関の郵便受けには、新聞がこれでもかと詰め込まれており、地面にも散乱していた。相変わらず人の気配は無い。深いため息をつき、部屋に入る。気分転換の為に風呂へ向かう。また脱いだ服が裏返る。浴室に入りシャワーの蛇口をひねる。室内が湯気で満たされる。今度は隠れる事も無く、ずっと白く濃い影が彼の後ろに佇んでいる。守康はまた深いため息をついた。いつもの様に乾かない体を拭き、美味くも不味くもない飯を食う。鬱陶しさに負け、床に就く。真夜中に不快感で目が覚め、用を足し、ベッドに戻る。また白い人形の靄が壁際に居る。今度は壁の方を向き、ただ黙って隣の部屋を指さしていた。はあ、もううんざりだ、もう、うんざりだ。
「分かった。今まで放っておいて悪かった。明日だ。明日ちゃんとやる」
守康がそう言った途端、白い影はすっと消えていった。
翌日、彼は大家に電話を入れた。隣室から右肩を下にしてうずくまって死んでいた老人の遺体が見つかったそうだ。孤独死だった。奇妙なのは死後数ヶ月経過していたにも関わらず、腐敗はほぼしておらず、からからに干涸びたミイラの様な状態で発見された点である。それ以来、彼が謎の湿気に悩ませる事は無くなった。