感情売買
「さてと、そろそろ感情の記録作業でもやるか」
俺はソシャゲの周回作業を一時中断し、ぐっと背筋を伸ばしながらそうつぶやいた。凝った肩を片手でほぐしながら、棚から感情記録装置を取り出し、ラベルを剥がして新しい感情記録媒体を装置にセットする。感情記録媒体はまだまだ高価で、しかも、上書き不可であるため記録は一回しかできない。つまりは、失敗はできないということ。俺は感情記録中に別の感情が混じらないよう、呼吸を整え、一度感情を無に近づける。十分に気持ちが落ち着いた後で、俺はリモコンを手に取り、リビングのテレビに向けた。スイッチを押し、画面に感動アニメの代表格、『フランダースの犬』を表示する。俺はビデオを早送りし、目的のラストシーン一歩手前で一時停止する。最後に感情記録装置の脳波パッドを俺の頭にペタペタと貼り付け、準備完了。
「よし、泣こう」
俺はビデオの再生ボタンを押す。流れ始める感動シーン。情緒的な音楽と、主人公ネロの消え入りそうな声。パトラッシュの弱々しい鳴き声。何度も何度も見ているため、この先の展開はわかっているものの、俺の目頭はどんどん熱くなっていく。そして主人公に死が訪れるシーンの直前、視線を画面に向けたまま右手を伸ばし、感情記録装置の記録開始ボタンを手探りで押す。主人公が天使によって天国に運ばれていく。その瞬間俺の涙腺が崩壊し、両目からとめどなく涙が流れ始める。止まない嗚咽。形容し難い感動。音楽と演出がさらに俺の感情を掻き立てていく。
「うう……。パトラッシュ……。かわいそうに……。」
アニメが終わり、エンディングテーマが流れ始める。俺は泣きながら、感情記録装置の記録停止ボタンを押す。ジーっとアナログな機械音を発した後で、感情記録装置は感情の記録完了を告げる効果音を鳴らす。俺はハンカチで涙を拭きながら、感情記録媒体を装置から取り出し、解析用ソフトできちんと感情が記録されていることを確認する。周波はきちんと感動の感情と近似しており、その形も他の人にはなかなか出すことのできない理想的な周波。一丁上がりと俺は泣きながら笑い、そのまま感動を記録した記録媒体をフリマアプリで出品するため、出品用の写真と説明を準備し始める。
感情を専用の記録媒体に記録し、それを特殊な機械で再生することで、記録したその瞬間の感情をそっくりそのまま再体験することができる。この感情記録・再生の技術の発明により、誰かがある場面で感じた感情を、他の人が体感することができるようになり、その結果、感情を売り買いするということが可能になった。感情記録装置や記録用の媒体は高価であり、さらに感情の再生は数回しか行えないというデメリットはあるものの、この革新的な装置は瞬く間に普及し、多くの人々が他の人間の感情を再体験して楽しんでいる。
そしてこれは、幼い頃から感じやすい性格だった俺のための技術だと言っても過言ではなかった。同じ映画を何回見ても、何回とも同じだけ感動してしまうという俺の性格は、この感情を記録して売るというビジネスに恐るべき程マッチしていた。すぐさま感動を記録し、それをフリマアプリで売り始めると、これがもうバカ受け。もともと俺が繊細な性格だということもあって、他の人よりも純度の高い感動を得られると話題が口コミで広がり、一度出品すれば1時間もしないうちに売れてしまうほどの大人気ぶりだった。泣き虫だと子供の頃から散々にバカにされた俺にとって、この性格が肯定され、色んな人間から求められるという経験は今までに体験したことのないものだった。俺はこのビジネスに没頭した。もちろんお金のためもある。しかし、それ以上に、この感じたことのない快感を何度も体験するために。
俺は先ほど記録した感動の感情を、早速フリマアプリで出品した。それから1時間ほど放置した後で、再びアプリを開いてみると、そこには取引完了の文字。俺は自分が提供する商品の価値、いや自分自身の価値が認められたことに得意な気持ちになる。そして、いつものように、購入者からのレビューに目を通す。
『いつも購入させてもらっています。簡単に感動できて、ストレス発散ができました』
『他の人の感動よりも笹介さんの感動が一番気持ちいいです! この感動を経験したら他のやつには戻れない!』
『知人から紹介されて購入しました。他の方が出品している感動ではあまりピンとこなかったのですが、笹介さんの感動はとても良かったです。正規製品として売っててもおかしくないくらいの質だと個人的には思います』
俺はにやにやと高評価のコメントを読み進めていく。時計をちらりと確認すると、あと数回は感動を記録できる時間的余裕がありそうだ。俺は腰を上げ、再び感情記録装置の脳波パットを頭に貼り付ける。そして、感動を記録するため、テレビのリモコンを握りしめた。
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しかし、感動をフリマアプリで売り続けていたある日。俺はふと、出品から取引完了までの時間の間隔が少しずつ長くなっていることに気がついた。相変わらず、同じ『フランダースの犬』を見て、同じだけの感動をしている。出品する内容に違いはないはずなのに、どうしてなのだろう。今まで経験したことのない状況に、不安が少しずつ大きくなっていく。
たまには違う感動ビデオを使うべきなのだろうかと考えていると、購入者からのコメントが投稿される。そのコメントとともに付けられていたのは、今まで見たこともない低評価の星。俺はその低評価の数字を見た瞬間、身体全体が熱くなり、血圧が急激に上がっていくのを感じた。いかんいかん。いくら感じやすいと言っても、怒りまで感じやすくてどうすると俺は自分に言い聞かせ、呼吸で気持ちを落ち着ける。しかし、低評価にはそれなりの理由があるはずだ。俺はどんなコメントが描かれていようが絶対に怒らないと決心を決めてから、恐る恐るコメントの内容に目を通した。
『感動の感情の中に、気持ちの悪い承認欲求とか自己顕示欲が混じっていて受け付けませんでした。出品者はここでちやほやされるのが嬉しい構ってちゃんなんですかね(笑)』
そのコメントを読んだ瞬間、俺の血管がぶち切れる音がした。
「あああ!!! このクソ野郎がぁあ!!!」
俺はスマホを投げ出し、狭い部屋の中、怒りの感情に突き動かされるがまま奇声をあげた。髪をかきむしり、机を拳で全力でなぐり、足元にあったゴミ箱を蹴飛ばす。俺は三十分ほど暴れ回った後、疲れでヘトヘトになりながら、その場に崩れ落ちた。俺は何とか冷静さを取り戻そうと深呼吸を行う。
だめだだめだ。こんな匿名の人間相手にバカみたいに切れるのは相手の思う壺だ。このコメントを書いたやつはそもそもが性悪なやつで、嫌がらせのためにこう書いているだけに違いないんだ。いや、ひょっとしたら素晴らしい感動を提供できる俺に嫉妬した同業者かも知れない。ふとそのように思考を逆転させると、憑き物が落ちたように怒りの感情が過ぎ去っていくのがわかった。もう大丈夫だ。これだけ気持ちが落ち着いていれば、もう相手がどんなコメントを書いていようが冷静でいられるはず。気持ちの整理をつけるため、もう一度あのコメントを読み、それから心のなかで相手を嘲笑ってやろう。俺はそう思い、胸に手を当て、もう一度先ほどのコメントを読む。そして、誹謗中傷のコメントを最後まで読み終わった瞬間、先ほどと同じ熱量の怒りが俺の身体を襲った。
「ああああ!!! てめぇに俺の何がわかんだよぉおお!!!」
俺は再びコントロールできない感情に突き動かされるがまま奇声をあげ、暴れ始める。足がもつれ、その場に倒れ込む。ゴホッと大きく咳き込み、そのまま過呼吸にも似た症状が現れると同時に、怒りのあまり身体全体が痙攣をし始めた。しかし、しばらくすると隣の部屋から「うるせぇ!!」と怒号が飛んできて、壁が思いっきり叩かれる。俺はビクッと身体を震わし、そこで我に帰る。そして、暴れ回った後の惨状を見ながら、俺は自己嫌悪に陥る。何回フランダースの犬を見ても同じだけ感動できるのと同じように、何回同じ誹謗中傷のコメントを見ても、同じだけ激怒してしまうなんて。
俺は部屋を片付けながらため息をつく。あんなひどいことを言われた以上、もう感動の感情を出品する勇気なんてない。少しずつ購入までの頻度が下がっていたのも、ひょっとしたらあのクソ野郎の言うことが当たっているからかもしれない。もしこれ以上続けて、あれと同じような誹謗中傷を投げかけられたら、俺はきっと憤死してしまう。
しかし、その一方で、高い金を払って購入した感情記録装置をどうすればいいのか。ストックとしてまとめ買いしていた記録媒体もまだまだたくさん残っている。フリマアプリで売るとしても、二束三文で買い叩かれるのが関の山だ。俺は机の上に置かれた感情記録装置を手で触る。それもこれもあの野郎のせいだと思うと、ふつふつとコメント主に対する怒りが湧き上がってくる。しかし、その瞬間、ふと俺はあることを思いつく。いや、でもこんなものに需要があるのか? 俺は自分で自分に疑問を覚えつつも、一度だけなら試してみる価値はあると自分を納得させる。
俺はすぐさま記録媒体を感情記録装置にセットし、そして脳波パットを頭に取り付ける。そして、呼吸で気持ちを十分に落ち着かせた後で、俺は携帯を手に持ち、先ほどの誹謗中傷のコメントをゆっくりと読み上げた。
「あああああ!!! ちくしょうがぁああ!!!」
俺は怒りの叫びをあげながら、感情記録装置の記録開始ボタンを押した。
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思いつきで出品した俺の怒りの感情は、信じられないくらいの大ヒットとなった。感動を出品したいた時の何倍もの反響があり、さらには企業から正式な商品化をしないかという打診もあるほど。購入者からのコメントには誹謗中傷のひとつもつかず、こんな風な感謝のコメントで埋め尽くされるようになったのだった。
『昔から気が弱く、人に対して怒れない性格でした。そのせいでずっとストレスが溜まっていたんですが、笹介さんの怒りの感情を体験することで、ストレスが解消できました! こんな商品のことをもっと早く知っておけば良かった!』
『温和な性格が災いして、部下から舐められっぱなでした。しかし、笹介さんの怒りの感情を使って、普段から抱えていた鬱憤を部下に直接ぶつけてやることができました! おかげで部下は私への態度を改めるようになり、仕事がはかどるようになりました。笹介さんのおかげです!』
『会社の新人研修で利用させてもらっています。近年、怒られ慣れていない新入社員のメンタル強化をどうするかという問題があったのですが、研修担当者が笹助さまの怒りの感情を使って実際に新入社員に怒りをぶつけるというトレーニングを導入することで、新入社員を怒られ慣れさせることに成功し、結果的に新入社員の離職率が劇的に低下しました。大変助かっております。今後とも質の高い、笹介さんの怒りの感情を期待しております』