脳を刺す香り
相談室から戻ると、講義室の前に男性が立っていた。
険しい面持ちから、既にエノクは今すぐ踵を返したい気持ちになった。次は、魔法文明における歴史学とされる魔法史学の講義の予定である。
恐らく、講義室前の男性はその講師だ。
一つ前の授業のことを聞き及んでいるに違いない。
開始前に問題を起こしたエノクに、どんな叱責が飛ぶことか。
目前の辛苦を前に足を止めたくなるが、少しでも歩調を緩める素振りでもあれば、一歩後ろのホタルから刺すような視線を向けられる。
退路を塞ぐように歩く彼女の位置は、果たして意図的なのか否か。
その真意を探ることすら怖い。
前門の龍と後門の虎。
その言葉を知っていたのなら、エノクはこれ以上いまの状況に該当する言葉は無いと断言しただろう。
講義室前に待機していた講師は、エノクを見るや小走りで駆け寄って来た。
「君がエノクか」
「すみません。 一限前では、彼が講義を妨げるような問題を起こしてしまって」
「え、ほ、ホタル君!?」
「このようなことが無いよう、私から言い聞かせますので、どうか本講義に参加することをお許し下さい」
ホタルが滔々と謝罪を述べる。
エノクも慌てて頭を下げた。
自身の問題なのに、代わりに先んじてホタルに謝罪をさせていることに申し訳なくなった。
頭を下げたエノクの姿勢に講師が面食らう――というより、ホタル本人の存在に驚愕している――が、次の瞬間には顔を曇らせた。
エノクとホタルを交互に見る。
やはり、授業に参加するにはあまりに看過できない問題として受け止められたのだろう。
エノクは奥歯を噛み締め、講師の言葉を待った。
「すまない。大変言いにくいのだが」
「はい」
講師の口がゆっくり開かれる。
「校長から、『しばらく、エノクとキュゼとリード三名は接触を禁ずる』と」
「………………………………………………………………はい?」
「…………」
「せ、接触禁止って、何で」
「講義の進行に妨げになると判断された場合、こういう処分が下ることがある」
その言葉に、エノクは小首を傾げた。
隣のホタルを見れば、顎先に手を当てて考え込むように足下を睨んでいる。
校長の意図は理解できないが、エノクとしては衝撃的に過ぎていた。がらがらと、中でけたたましい崩壊の音がする。
かなり出端を挫かれた挙げ句、最悪の始まりではあるが学友と同じ空間で学んでいくという、死刑執行猶予付きの罪人に許された細やかな喜びすら失われた。
世界が――エノクに対して冷たい。
引き攣った顔をエノクは俯かせる。
慰めるように肩上の小さなレイナルが頬を舐めた。その舌先の温もりだけで、膝から崩れ落ちて泣き出しそうなほど精神が弱体化している。
「ふ、はは、へへ」
「エノク君、現実逃避はやめなさい」
「じ、自業自得だから…………う、受け止めないとね……………ははは」
「私がいるから十分でしょう」
「ははは」
「…………」
「イデッ!?」
ホタルがエノクの足を強く踏む。
爪先を抉り貫くような圧力をかける彼女の踵に、エノクは痛みに堪えた。
「それで、何だが」
「はい」
「エノクに関しては、放課後にこの講義室でティアーノ教授から話があるだろう。それまで…………好きに過ごしていなさい」
「……………はい」
エノクはか細い声で返答する。
要件を伝え終えた男性は、やや後ろ髪を引かれるような情感のある視線をエノクに一度送ると、講義室へと入った。
隣でホタルが袖を引く。
「暇なら、放課後まで私の研究に付き合いなさい」
「研究って、俺はど素人なんだけど…………そういうのって危険なんじゃないの?」
「貴方に頼むのは別よ」
「別?」
「荷物運びくらいできるでしょう。大抵が丁寧に扱わないと容易く破損してしまう繊細な物だから、作業に対して常に気を張るだけで良いわ」
「え、それかなり重労働だよね」
「破損したらその場で処刑するわ」
「…………世界が俺に厳しい」
エノクは泣きそうになるのを堪える。
もう既に指導室でさんざ泣いた後なので、これ以上は情けない姿をホタルに見せたくはないという気持ちが辛うじて涙腺を締めた。
「それにしても、接触禁止………ね」
「ん?」
「何回かあるらしいわ。進魔法学科は、問題児が集まる傾向があるから、人格的衝突も多くて幾度も」
「ちょっと待って」
「なに」
「問題児が集まる傾向、って?」
「……………」
ホタルがぴたりと止まる。
それから声を潜めるように話した。
「進魔法学科は、研究者として先進的な教えを受けられる…………優秀な研究者を育む学科よ」
「それは、何となくわかる」
「ただ、それ以前に『自らを研究対象とする特異体』が集められる場所でもあるわ」
「え、それってどういう…………」
「続きは研究室で」
ホタルが先を歩いていく。
エノクは呆然と立ち尽くした。
自らを、研究対象とする特異体――その表現は、なるほどエノク自身には該当する。
だが、他の生徒たちもそうであるかという問題については疑問だった。
カスミについては、入試試験での巨大な剣を出現させた異様な魔法がある。
だが、アレイトたちは――。
『貴様らが進魔法学科に選ばれたのは、そういうことだろう』
ふと、思い出す。
たしか、あの庭園の迷路で結界に囚われる前にアレイトがそう呟いていた。
アナが希少な妖精族であること、エノクが魔獣との対話能力を有すると告げた際に、そんな言葉が返ってきた。
もしホタルの説明通りなら………皆が複雑な事情を抱えているのかもしれない。
「…………戻ったら聞いてみよう」
「エノクくん」
「あ、はい!」
エノクは先で待つホタルの傍まで駆けた。
そのとき、子供を連れたローブ姿の男とすれ違った。
一瞬だけ緑色の鋭い眼差しと視線が合う。
褐色肌の巨漢は、そのままフードをした同様のローブに身を包む子供を連れて去ろうとする。
エノクもそのまま子供の横を過ぎようとした瞬間だった。
「…………?」
微かに、潮の香りがした。
その次に、脳裏に『あの子』が浮かび上がる。
ぞわり、と背筋が粟立つ感覚がした。
エノクは思わず、その場から三間ほど距離を取るように二人から飛び退く。彼らはエノクの様子を気に留めずに歩いていった。
エノクは早鐘を打つ胸に手を当てる。
冷たい汗が全身から溢れ出していた。
「エノクくん?」
「え、あ…………だ、大丈夫、大丈夫だよ」
訝しむホタルに対して気丈に笑って誤魔化すと、エノクは彼女の隣に並んで歩いた。