新たな主人
「エノク君」
その声にエノクは顔を上げない。
長椅子の上で項垂れたままだった。
隣に腰を下ろしたホタルの気配にも、視線すら動かさない。膝上には主人の憂い顔を見つめるレイナルがいる。
ホタルはその様子を傍で見つめた。
エノクの精神的支柱。
現在はレイナルがその大半を占める。
互いに海から流れ着き、疎まれた異物としての仲間意識がある。レイナルまでもがそれに共感しているかは不明だが、少なくともエノクの感情の向き方はその表現で間違いない。
拠り所だった村。
無意識に縋っていたメリー。
その双方を失った今、エノクの心は無防備な状態にある。
――利用するのは気が引けるけれど。
まるでこれからの自身の行いが業の深いことであるという自覚があるホタルからすれば、彼を最初から下僕として契約した身ではあるものの、多少は躊躇われる。
ただし、それ以上に。
――既にわたしの物なら、これ以上壊されることは許さない。
ホタルは隣のエノクの肩に手を置く。
「エノク君」
「…………ホタル、戻って来てたのか」
赤くなった目元と、虚ろな瞳。
たった数分の席を離れただけなのに、以前と同一人物であるかすら疑わしいほど弱っていた。
エノクの生態以前の問題だ。
誰だって、同じ状況下ならそうなり得る。
今は――空っぽの状態。
ここからが、ベルソートの思惑通りである。
「これから敵はまた来る」
「…………うん」
「きっと悲惨な戦いになるでしょうね」
「たとえそうでも、必ず復讐する」
「あなた個人の戦いのように言っているけれど…………わたしもエノク君を奴らの手に渡す気はないから」
「えっ?」
「わたし、自分の物が人に横取りされるのが一番嫌いなの」
「…………」
「私の物に手を出すんだから、相応の報いを与えるつもり」
ホタルは事も無げに言ってみせる。
エノクは目を瞬かせた。
たしかに、契約通りなら彼女の犬ではあるが――敵と立ち向かう動機にしては、いささか以上に単純で度肝を抜かれる。
「ホタルの苦労が増えるだけだろ」
「あなたを受け入れたときから、敵が多いことは承知済み。……………余計な敵を増やされても困るけれど」
「あ、ははは」
ホタルは短く嘆息した。
「あなたの主人は私。わたしの慮外で死ぬことは断じて許しません」
「…………その台詞だと、ホタルが死ねといえば俺は死ぬべきみたいに聞こえるけど」
「それくらいの主従関係よ」
「げげ」
エノクは顔をしかめる。
だが、落ち込んでいた調子が幾分か平時のものに戻りつつあった。
長椅子に深く沈み込んでいた体が少し軽くなる。
「その代わり」
「ん?」
「わたしのことを最優先に、全力で守りなさい」
「…………そうだね」
エノクは疲れたように笑う。
帰る場所は、もう無い。
生きる理由といえば、せめてレイナルにとって安全な環境を擁立することだが、自分の命に頓着がなくなったことは事実。
ならば、せめて。
「じゃあ、ホタルに誠心誠意尽くすさ」
「賢明ね」
「ただ俺は非常識だから、当分は足枷だぞ」
「その状態を早期脱却できるよう、善処して。怠慢は許さないから」
「き、厳しい」
エノクは深呼吸して天井を見上げる。
敵への報復には身長を期す。
村のために注いでいた熱情をまだ持て余しているが、それらをホタルに尽くす方向で転換させる。
せめて――死んだ村の皆の分まで幸せに生きる。
それが罪だとしても。
「話は終わったかのぅ」
「うん」
「もう機嫌直った感じじゃな」
「まあ…………でもベル爺はしばらく許さないから」
「ぬぁ!?」
「俺に村のこと黙ってたし、暫く放置だし」
「ま、魔法の修行も本腰入れてやってやるわぃ」
「エノク君は基礎がなってませんから、まずは私が教えていきますので」
縋るようなベルソートを、ホタルが突き放す。
嘆く彼を無視して、エノクはひとり青褪めていた。
忘れていた。
――授業、二連続欠席だ!




