空の心
通路を歩いていく。
その内に冷静さが取り戻されていった。
エノクは講義室での己の行為を省みる。一歩間違えれば、即刻死刑となっていただろう。
キュゼに対して親が情報を提供した意図を考えると、エノクが激情に駆られて手を上げることを狙っていたのかもしれない。
ともあれ。
ベルソートには助けられたのだ。
先を行く老人の背中を見る。
「ベル爺、ありがとう」
「うむ」
謙遜する素振りなど微塵もない。
ベルソートは嬉しげに喉を鳴らして応えた。
ただ振り返った表情はどこか苦々しさを噛み締めているようにも見える。
「すまんな、ワシの不在時にヌシが襲われておったとはのぅ」
「…………死にかけたぞ」
「さすがワシの弟子」
「それ嬉しくないからな。まだ魔法だとか弟子らしいこと教えてくれてないだろ」
エノクの鋭い指摘にベルソートの笑顔が凍る。
誤魔化すように長い髭を弄り始めた。
「い、いや、まあヌシって案外やる男じゃし」
「案外やるって?」
ベルソートの視線がホタルへと向く。
ホタルは始終その目を閉じ、我関せずといった風に会話を聞き流しながら隣を歩いていた。
退室時の背中を押す手の優しさが嘘だったかのように気配を消している。その態度には、必要以上にベルソートと関わりたくない意思が感じられた。
対して、ベルソートはにやりと笑う。
少し歩調を緩めてホタルの横に移動した。
広い通路とはいえ、三人が横帯で歩いている上に授業中の時刻ともなれば、誰かに見られた途端に注意は免れない。
そこまで考えて、エノクははっとする。
事情があるとはいえ、二連続も授業を放棄している己の現状を自覚した。
これは…………後に響きそうだな。
残酷な現実に痛みを堪えるような表情で沈黙するエノクの傍ら、ホタルとベルソートが言葉を交わしていた。
「まさか、孤高の姫を口説き落してたとはのぅ」
「…………」
「もしもし?」
「勘違いも甚だしいのでやめて下さい」
「昔みたいにベル爺って呼んでくれて良いんじゃよ」
「呼んだ覚えがありません」
会話というには一方的だった。
ホタルは依然として冷たい。
意に介さないベルソートの態度を煩わしげに一瞥して、再び目を閉じる。
「むぅ、相変わらずつまらんのぅ」
「…………」
「昔は少女趣味の塊のかわいい夢見る女の子じゃったのに」
「少女趣味、ホタルが?」
意外に思って、反射的にエノクが尋ねる。
すると、薄く開いた瞼の下から放たれ、突き刺すような鋭さを帯びる瑠璃色の眼差しと目が合う。
エノクは口を噤んだ。
追及するのは後の我が身に危ういという保身のために黙る。
だが、時すでに遅し。
「そうなんじゃよ。昔なんか兎や猫なんかとよく遊んで、気に入った子にリボンなんか付けたり、本の王子様に――」
「――――」
「あ、ごめんなさい、ワシ調子に乗ったわぃ」
ゆらり、とホタルのローブが揺れる。
その全身が微かに銀色の光を帯びた瞬間にベルソートが平謝りする。
殺気を放つホタルの様子にためらいは無い。
あと一音でも言葉の先を紡げば容赦なく殺さんとする勢いだ。
固唾を呑んで見守っていたエノクは、ふと彼女の耳が赤くなっているのを見咎める。
「――――」
「ごめんなさい」
ホタルの視線がエノクへと戻る。
エノクはさっと顔を背けた。
「…………エノク君、あとで少し話があるわ」
「それって重要?」
「ええ、今後の主従関係に関わるもの」
仄暗い響きを持つ言葉にエノクは泣きそうになる。
とんだとばっちりだ。
批難するようにベルソートを睨めば、飄々と老人は口笛を吹いている。
そのまま逃げるようにベルソートは一つの部屋の扉を開けた。
標札には『相談室』と書いてある。
エノクはようやく本題を思い出して気を引き締めた。
ホタルと共に入ればそこは窓と、部屋の中央で板張りの机を挟んで革製の柔らかい長椅子が置かれただけの空間である。
あとは部屋の隅に小さな本棚があるのみ。
「さて、ふたりとも座りなさい」
「あ、ああ」
エノクは深呼吸してから椅子に腰掛けた。
その隣に間隔を置いてホタルが座る。
正面でベルソートが骨の音を鳴らしながら腰を落ち着けたところで、急に空気が冷たくなっていく感覚がエノクを襲う。
「エノクや」
「はい」
「デルテールや村のこと、が訊きたいんじゃったな?」
「……………はい」
ベルソートの確認にエノクは頷く。
「なら、単刀直入に言おう」
言葉を選ばず、告げる。
そう予告しながらも、ベルソートは深く考えるように沈黙した。
伝えるには躊躇う内容だからか。
相手の理解を得るための説明として、長過ぎるから順を追って話すべきかを考えているのか。
その意図などエノクにはどうでもいい。
ただ、告げられる現実だけを待った。
しばらくして、ベルソートの瞳が暗い諦念を宿す。
しわを刻む乾いた唇が動いた。
「…………ヌシを引き取ってすぐ、村は壊滅した」
不穏な話が、残酷な事実として確定する。
エノクの中の時間が停止した。
そこから刺激も情報も、一切を遮断するかのように、これ以上を拒むようにエノクの感覚が閉じる。
予見していたのか、呼び戻すように肩にホタルの手が触れた。
他人の体温が、辛うじてエノクの意識を繋ぎ止める。
「それは、前から…………近辺の村を襲ってた魔獣被害?」
「違う。 何故かは知らんが、前からヌシを探していた連中の仕業でな、虱潰しに北部の村を探っていたらしい。あれは大胆な証拠隠滅じゃ」
「俺、を?」
エノクはそれなら、と口にして止まる。
ベルソートの情報から読み取れたのは、最も残酷なことだった。
理解したくはない。
――俺がいたから、村が襲われた。
過たず伝わった真意に、エノクは打ちひしがれる。
「結界があるから大丈夫だって言ったじゃないか!?」
「それを破るほど規格外な奴らじゃった」
「大魔法使いの結界を…………?」
ホタルが眉を顰める。
ベルソートは大魔法使いと称えられ、魔法使いの界隈では自他共に認める最強の一人。
たしかに、結界に特化しているわけではないが彼の魔法全般は、どんな分野においても高い水準の効果を発揮するので、結界の魔法においても突破するには相応の力が要る。
「何ですぐ教えてくれなかったんだ!」
「家を空けていたのは、その調査とヌシの身柄を最優先で守るためじゃ。教える暇が無かったというのもあるんじゃが、第一なのはあの頃のヌシに伝えていたら危なかったからじゃ」
「危ない…………?」
「ヌシは数日前に襲われたが、レギューム外だったら更に危険じゃった」
「ッ…………!?」
「レギュームの警備だからあの程度。ヌシ単体で外界に放置しておれば確実に捕獲されとった」
ベルソートの説明にエノクはぐ、と詰まる。
屋敷では安穏と過ごしていた。
家族に思いを馳せ、これから対峙する難事の気配を薄々感じながらも、警戒は全くしていなかったのだ。
手元にはレイナルという味方もいない。
ベルソートが加勢に入ったとしても、敵の正体が分からない以上は危険だと判断したから伝えなかった。
たしかに。
そこには正当性しかない。
「む、村の人たちは」
聞いてはいけない。
全身が警鐘を鳴らすが、一縷の希望がエノクからそれを遠ざける。
村は壊滅しても、人がまだ生きていればいずれ立て直せる。
そんな、か細い希望だった。
ベルソートはそれに対して、首を横に振る。
その動作に込められた意味を噛み締めて、エノクは顔を手で覆った。
脳裏に去来する村人たちの面影が、一つずつ闇に溶けていく。
最後に見たメリーの顔も、薄くなっていく気がした。
「エノクや」
「…………」
「これはリューデンベルクの連中の仕業ではない。まだはっきりと正体は分かっとらんが」
「…………」
「ワシの調べだと、連中は…………ヌシが村に引き取られる前に関わってた連中かもしれん」
「は?」
エノクは顔を上げた。
海から村へと流れ着く前の話に、正直興味を持ったことはなかった。村に馴染むこと、家族を守ることに必死で、いま現在にしか意識を向けていなかったので持つもたない以前の話ではないのかもしれない。
ただ、ベルソートの提示した可能性には目を剝いた。
「そんなバカな」
「奴らが行動を開始したのが、ヌシが村に入る少し前からでのぅ。何処を出自とするかまでは断定できんが、大陸に数少ない未開拓地かもしれん」
「どうして、俺を」
「ヌシを狙う理由としては、その『魔獣を従わせる魔力』じゃろうな。それと――」
「それと?」
ベルソートが言葉を紡ごうとして閉口した。
「ともかく、エノク」
「…………はい」
「ワシはメリーとかわした約束に懸けて、ヌシを守ると誓おう。…………前回はアレじゃったけど」
「本当だよ」
「じゃから、復讐心…………なぞで連中と対峙するな」
ベルソートの見透かした言葉に、机の下で握り込んでいた拳が止まる。
「でも、アイツらは」
「少なくとも、そういった部分を利用されかねん。敵の姿をきっちり把握した上で……………ボコボコにするのが復讐の理想形じゃ」
「えっ」
エノクは小首を傾げた。
「復讐は、ダメって言ってんじゃ…………?」
「復讐心で戦うんじゃないわぃ。復讐自体はむしろお勧めする」
「な、なんで」
「気に入らないのを捻り潰して何が悪いんじゃ。こっちの大切なモノをぶち壊したんじゃから相応の報いを与えたいのは当然じゃろ」
「……………」
「ただ猪突猛進になって、メリーとの約束を損なうような目には遭わんようにするのがワシの役目」
その一言にエノクは奥歯を噛みしめる。
メリーはもういない。
信じられない、信じたくない。
エノクがこれまで死に目に遭っても奮い立って逆境を跳ね返してこれたのは、紛れもなくメリーのあの笑顔があったからである。
あの言葉が、あったから。
エノクは頭を抱えて俯く。
それを隣でホタルは見つめていた。
「ホタル、ちょっと良いかのぅ?」
「何ですか」
「廊下でちと話さんか」
「彼を一人に――」
笑みは絶やさず、だがそれと不釣り合いなほど真剣な瞳のベルソートにホタルは口を閉じる。
黙って立ち上がり、二人で室外へ。
ホタルの体温が消えた後、レイナルがその顔を肩から覗き込んだ。
「レイナル」
『がうっ』
「俺と、おまえだけになっちゃったな」
『くぅうん』
レイナルを抱きしめて、エノクは笑う。
復讐心を動力源にするな。
ベルソートの言葉は、たしかにエノクの生存率を高める魔力がある。
ただ――現状、エノクに賦活できる力もまたそれしかなかった。
復讐心でなければ、何を糧に頑張れば良いのだろう。
――もう、帰る場所もないのに。
エノクは独り、部屋の中で泣いた。




