憤怒の後ろ
ホタルの横に腰を落とす。
二つの眼光は至近から注がれていた。
目の前にいる二人からは目を逸らすこと自体が不自然だし、ここまま無視を通せるほど肝は据わっていない。
ちら、と隣のホタルを見遣る。
もはや我関せずといった風だった。
エノクは本能的に察知していた。
主人として。
飼い犬ならば、露払いとなれ――いわば態のいい身代りですらある。
自分を心配してくれた様子で思い上がっていたが、ホタルは以前からこうした非情な部分が無くはない。
なので。
今日の自分は星の巡りが悪かったと納得せざるを得なかった。
「おい、下民」
「その顔に張り手の痕をつけたままでは、隣の彼女まで恥に晒されるだろ……………他の席に行ったらどうだ?」
「…………」
敵意を隠しもしない物言い。
それにエノクは心做しか安堵した。
エスメラ然り、笑顔で襲ってくる襲撃者や直截的な言葉を避けて皮肉でじくじくと自責の念を煽ってくるホタルよりは優しく思える。
無論。
これが間違った慣れであるのは承知していた。
肩の上でレイナルが怒りに震える。
主人への危険や侮辱の類には敏感な相棒の感情が触れた部分から痛いほど伝わり、窘めるようにエノクは撫でる。
レイナルは研究棟からずっとこの調子だ。
原因は、頬に刻まれた紅葉。
頬の赤い痕――これはエスメラから受けた一撃である。
話し合いの後、今回はエノクの成敗に失敗したことにして、彼女を本拠地に帰すことにした――のだが。
帰り際に捕縛されたことやその他諸々の原因で頬を強か張られたのだった。
唐突で驚きはした。
だが、正義に従ってエノクを成敗しに赴き――それで失敗した、何より敗北した内訳で本拠地に戻らされることこそ最大の屈辱である。
理不尽ではない。
エノクは粛々とその痛みを受け入れた。
「隣に誘ってくれたのは彼女だから、それを無碍にはできない」
だからこそ、この頬の痕を恥じて動くことは断じてない。
これは無自覚で愚鈍な、その上エスメラを心的に辱めた自分への罰である。
これを抱えたまま、自分なりに行動するしかない。
腹を決めて、エノクも応答した。
「その無様な面で?」
「うん」
「彼女に配慮もできないのか、貴様が隣りにいるだけで侮辱なのだぞ。疎い奴め、これだから――」
何を言われても堪える。
ホタルのためにも、あんじてくれた友人たちのためにも。
ここは――。
「――潰れた漁村の出というわけだ」
「――――はっ?」
キュゼかリード。
どちらが言ったか、一瞬だけ分からなかった。
ただ、その言葉に…………エノクの視界が赤く明滅する。
潰れた?
何が、漁村が?
どこの、俺の?
「お、その顔は知らないのか」
「……………何を」
「貴様の村は、ずいぶんと前に壊滅したそうじゃないか…………村人は全滅して。
僕の父上から届いた連絡で、同級生である貴様の故郷でそんなことが起きたらしい上に、最近の事件も貴様が発端だとか」
「…………」
「不吉なこと続きなのは貴様のせいなんだろ?僕らの傍にいられちゃ困るんだ。彼女だけじゃなく、ここから出ていけよ」
ひたすら追い打ちが続く。
エノクは一つずつ聞き取って、情報を整理する。
――村人が全滅、なら父さんや母さんは、仕入番の老翁、仲良くしてくれた近所のファルネや子供たち、仕事を教えてくれたみんな…………………………………………………………………………メリーは?
隣ではホタルすら凍りついていた。
だが、エノクはそれすら気づかない。
告げられた内容に戦慄している。
「どうした、言い訳が無いなら――」
「おい」
続けようとしたキュゼに、すっと手が伸びる。
意識とかけ離れた何か――それがエノクの体を動かしていた。
単なる怒りかもしれない。
だが、原動力などどうでもよかった。
『ようこそ、おにいちゃん』
エノクの内側で声が響く。
眼球の内側が沸騰したよう熱くなり、視界が赤くなる。
がしり、とキュゼの首を掌握した。
「ぎっ!?」
「今の、どういうことだよ。…………もう一度、言え」
「――エノク君」
静観していたホタルが動く。
横から伸ばした手を、首を絞める手に添えた。
「やめなさい」
「何で」
「その行為はあなた自身の首も絞める」
「関係ない。村のために頑張ってきたのに、もういないんだろ…………コイツが言うには」
「まだ真実とは限らない」
「嘘でもさ、人に触れちゃならない部分はある……………君だってあるだろ?」
虚ろな瞳で告げるエノクに、ホタルも一瞬だけ固まった。
剣呑な雰囲気に、遠くで見ていたアレイトやカスミ、アナも動けていなかった。
「『また』奪うんだよ、こういうヤツらが」
「何を言ってるの」
「だからさ、教えられてたんだ…………奪われる前に、こうすれば良いって――」
ぐ、と手に力が込められる。
いよいよ危険だと察知したホタルが短杖を抜く。
それをエノクに構えて――。
「むぅ、見ない間に風紀を乱す子になってしまったかのぅ」
講義室に呑気な声が響く。
びくり、とエノクの体が震えた。
ここ最近、聞いていなかった声だった。
手を止めて、後ろを振り返る。
講義室に列を作る座席、その最後列にて老人が手を振っていた。
「ベル、爺」
「バカ息子め」
誰にもさとられず、途轍もなく場違いな人物――ベルソートが、そこで微笑んでいた。




