通学の呪い
研究棟を出ていく少年。
その影を目で追う法衣の人物がいた。
木陰に身を潜め、走っていく少年から一切視線を逸らさない。
その胸元に垂れた女性を象る紋章の首飾りに口づけして、その場から飛び出した。
「件の少年をこれより連行します」
風のように素早く駆け出す。
遠くを行っていた影とぐんぐんと接近した。
一方で――。
「ゆっくり徒歩、とはいかないよな」
そんな気配に少年――エノクは気付くことも無かった。
遅刻の免罪符がある。
それでもエノクは道を急いでいた。
魔法初心者の自分が一つでも授業を怠れば、それこそ死刑案件である。
何より、これまで経験した窮地で痛感したのは知識の量が総じて生存確率を上げることにも繋がることだ。
魔獣についても、魔法についても。
もはや門外漢の他人ではいられない。
せめて緊急用に治癒の魔法は会得したい。
エノクは無傷で事を乗り越えたことがなかった。
必ず傍には負傷者がいて、そして単身で挑めば傷は必至である。
何より――ホタルの助けにもなる。
「まあ、まずは基礎知識だけど」
『ぐるるるっ』
「一緒に勉強していこうな」
エノクは学園生活を想像する。
これまでが、ただ異常だったに過ぎない。
これからこそが本格的な学生としての第一歩であり、ホタル派の成長戦略を除けば安穏とした日々が待っている。
いつかリューデンベルクの刺客や、あの『襲撃者』の仲間も襲来するかもしれない。
だが、今は――。
「やっと学生生活だ!」
「いいえ、君は裁きます」
「え――ぐはッ!?」
突然かかった声にエノクは振り返る。
ただし、それは背中を襲った強烈な衝撃によって阻まれた。背面を打った鈍い一押しに、エノクは無様に受け身も取れず前の地面に倒れる。
咳き込むように口に入った砂を吐く。
予期せぬ襲撃である。
身構えてもいない無防備な背中に受けた一撃で肺腑が絞め上げられたように呼吸が苦しい。
視界が一瞬だけ白く染まった。
――何が、起きて…………!?
エノクは横へと転がった。
呼吸困難に陥って思考もまともに機能しない。
その無我夢中な状態が条件を満たしたのか、体の機能に半ば『スイッチ』が入り、猫のように靭やかな動きで素早くその場を離脱した。
襲撃者を撃退した体術。
身体の根幹に根付いたその力が、人体の機能性を十二分に活かして敵意から逃れんとする。
一瞬遅れて。
過去位置の地面に白い杭が突き立てられた。
「速い――!」
「げほっ、ごほっ」
距離を取るエノクを追走する黒い影。
その行動速度もまた、一瞬で間隙を塗り潰すような速さだった。
革靴の靴底が風を巻いて顔に迫る。
まだ冷静な思考力は戻らない。
エノクは感覚――本能にただ身を委ね、相手の攻撃を両腕を交差させた面で受け止め、後ろへとさらに飛ぶ。
相手の威力を利用した跳躍は、潰された距離を再生させた。
相手――黒い影が舌打ちして再接近。
そのとき。
『ゴァァアアアアッ―――――!!』
「ッ―――!」
エノクの肩の上でレイナルが吼える。
その体格は生後三日の仔猫ほど――だが、放たれた声の音圧はもはや壁が迫るような衝撃として大気を震わせ、風どころかエノクの前方にあった足下の地面もろとも斥けた。
土砂とともに。
相手は一瞬の抵抗も許されず弾け飛んだ。
中空に黒い法衣姿が舞う。
エノクはその間にようやく呼吸を整えた。
白んでいた景色が冷静さとともに色と明瞭さを取り戻していく。
そして――その中に法衣の人物が着地した。
「けほっ、レイナル、助かっ、た」
『ぐるるるっ』
「やはり魔獣と結託しているのですね――罪深い」
エノクは改めて法衣の人物を観察する。
肩に触れないほどの短さにまとまった金髪と、敵意に爛々と光った金の瞳の少女だった。
エノクよりも齢は四つ、あるいは五つほど上と思えるほどの成長した女性としての相貌をしている。
首からは首飾り――女性と思しき形の装飾があった。
誰の目に見ても宗教的な装いだ。
よほど世俗に疎くなければ法衣を見て瞬時に悟る。
しかし。
「裁くって、まさか今度は裁判所の人間!?」
「……………」
女性すら呆然としていた。
法衣を見て、『裁く』という口振りから宗教的な教義を察するのが一般的だ。
それでも、いつ如何なるときも例外はある。
エノクの村にも教会はあった。
だが、廃れたそれは神父も不在な上に北の海の『守護神』を祀る祭壇がある程度の小屋ほどの小ささなのだ。
エノクの生活は宗教とは深く結び付いている感覚が無く、単語は知っていても内容的な部分までは深く把握していない。
つまり。
法衣や僧衣を見ただけでは『宗教』を察知できないのだった。
「…………どうやら知能も低い、と」
少女が侮蔑を込めた眼差しを送る。
その口振りにエノクは微笑んだ。
「な、何を笑っているんです…………!?」
「え?」
「知能が低いと言われて喜ぶなんて」
「ああ…………何か、最近は笑顔のまま襲ってきたり皮肉とか遠回しに心傷付けてくる人ばかりだったから、直接悪意をぶつけて罵ってくる方が落ち着くなぁ、と」
「被嗜虐的な趣向も、ですか」
「それは違う」
不名誉な勘違いにエノクは首を横に振る。
金の瞳はちら、と肩の上のレイナルを見た。
「ともかく、その魔獣ともども駆逐します」
「あの、俺これから学校――」
「我らが主神ヘルベナ様に誓い、粛清を執行します!」
物言わせぬ少女の気迫。
エノクは呆然としつつ、空を見上げた。
「俺、学校に行けない呪いとかかかってる?」
『くぅぅん』
「いい加減、普通に登校させて……………」
そんな悲嘆を口にしつつ、少女を如何にして躱すか思案を開始した。