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悪意に傾く



 大広間の全体が凍りつく。

 血で染まった顎、獲物を噛み砕いた牙、味を確かめて爛々と光る獰猛な深紅の双眸に壁際の魔法使いですら、一瞬攻撃するか否かの判断に迷った。

 辛うじて味方であるというティアーノからの事前警告によって、魔力が抑えられる。

 だが、危険しか感じられない。


 床下から現れ、人間離れした襲撃者を粉砕した。

 如何に常人を逸した戦いぶりであろうと襲撃者が人の形をしていたことで、見る者の倫理観に訴えかける衝撃があり、総じて彼女の胴体を噛み千切って寸断したレイナルに戦々恐々とする。


 その姿は紛れもなく、誰もが伝説に知る魔獣。


 レイナル――否、ケティルノース。


 これまでに四回、世界を蹂躪した災厄の化身。

 常に一騎当千の英雄と多大な犠牲を支払うことで対価となり、漸く滅することに成功するほどの化け物が人に与しているという情報を皆が疑っていた。


「レイナル」

『ぐるるるっ』

「よくやった」

『がうっ』

「うええ、その状態で鳴くな血が凄い飛んでるから」


 まるで親に懐く子犬のように、少年エノクへと顔を擦り寄せる。

 本来ならば和やかな一時だが、レイナルが踏みしめる二つに分かたれた襲撃者の体と、顎から垂れる尋常ではない量の血がすべてを台無しにしていた。

 広間全体は未だ緊張感に満ちている。

 だが、事態の中心に立つエノクはそれに気づいていない。


 襲撃者を退け、『潮騒』は止んだ。

 今は存分にレイナルを褒めて甘やかす。


「良い子、良い子」

『ぐるるるる』

「後で洗ってやるか、少し臭いし」

『がうっ』

「うわ、ごめんて。 だから血を飛ばすな」


 一人と一匹の仲睦まじい遣り取り。


 それを眼前で繰り広げられて――ホタルは半目でエノクを睨む。

 無言の圧を感じて振り向いたエノクは、蔦で雁字搦めにされたホタルの姿に思わず顔を背けそうになった。

 ゆったりとした白いローブの下に隠された体の線が、締め付けられることでくっきり浮かび上がっている。

 若干スカートが捲れそうなのを見て、エノクは頭痛を覚えるほど顔が熱くなった。


「エノク君」

「はい」

「解いてくれないかしら」

「いや、君なら大丈夫じゃない?」

「多少は時間を費やせば可能だけれど、あの襲撃者が言うとおり徹夜で拵えただけはある拘束力なので容易ではない」

「じゃあ、俺にも無理なのでは」

「これは『縛られた者』以外の力なら容易く壊せるという外部干渉への脆弱性なる弱点を負うことで、拘束力を高めた魔法なの」

「へー、魔法って凄い」

「その顔は理解していないわね。 後で講義…………それより早く」

「う…………はい」


 聞き流そうとしたエノクは、しかし許すまじと眼力を強めるホタルに渋々と従う。

 レイナルの隣を過ぎて、ホタルへ向かい――。



「あら、やだ無視しないでよ」

「え――ぐがっ!?」



 血に塗れた襲撃者が上体だけで動く。

 レイナルの下を蛇のように這い、素早くエノクの体に取り付くと背中へ回って首を腕で締め上げた。

 死角からの奇襲に無抵抗同然で捕まったエノクを救わんとレイナルが振り返るが、主人を盾にされた体勢とあって動きを止める。

 ティアーノも魔法で救助しようとするが、エノクと襲撃者との距離があまりに近く、誤射でエノクごと致命傷を与えかねない。


「ふふ、素敵な主従愛」

「はな、せ」

「駄目よ、ヤンチャだからすぐ逃げちゃうものね」

「その傷で、何で…………生きてる?」

「心臓の無い女に、今更野暮な質問は止めましょう?」


 顎を血で赤い線を引くように指がなぞる。

 ぞくりと悪寒にエノクは全身を震わせた。

 異常な生命力と、半身を失ってなお平然とする精神に恐怖以外の何かを抱くことができない。

 エノクの腕力ならば容易く振り解けるが、その前に意識が絞め落とされそうである。


「ぐ、が…………!」

「さ、まずはお眠り」


 襲撃者は耳元で甘く囁く。

 力が抜けていく感覚にエノクは意識を失う直前と察した。酸欠で思うように体が動かない。

 このままでは、本当に連れて行かれる。


 誰か――と助けを求めて周囲を見回す。

 魔法使いたちは、レイナルと――そしてエノクに畏怖の眼差しを向けて固まっている。

 だがその瞳の奥は、誘拐されそうになっているところを、どこか期待するような感情を宿していた。


 ああ――と諦観する。

 やっぱり、誰かは自分の死を望んでいる。

 どれだけエノクが生きたいと願っても、その願いごと捻じ伏せんとする強大な悪意がいつだって立ち塞がった。


 助けは…………来ない。


 視界が暗く霞んでいく。

 エノクは誰でもなく、ただ前へと手を伸ばした。


「たす、け」


 届かないと知りながら、声を絞り出す。

 無力感で包まれるように、とうとう景色が真っ暗闇へと落ちていった。




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