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異形の兄弟



 床下から現れて、黒衣を翻しながら――昨日の襲撃者の女性が跳躍する。

 突然のことにホタルもレイナルもまだ気づいていない。

 ティアーノは――レイナルの巨体で隠れて攻撃できていない様子だった。


 エノクへと黒い影が飛びかかる。

 昨日の傷が嘘のように消えた機敏さに、手負いの状態である期待は呆気なく霧散する。


 エノクは床を転がって身構えた。


「魔獣退治、おめでとう」

「ッ、そりゃどうも!」

「私の警告は届いていたかしらぁ」


 凶刃が虚空を滑る。

 エノクは身を横へと傾けて躱した。

 肩のあった位置から過ぎ抜けた微風を感じてぞっとする。

 一瞬を空けずに再び翻った刃も回避した。


 刃の軌道は徹底して手足を狙っている。

 如何に戦闘経験に乏しいエノクでも、狙いさえ分かれば不格好であろうと回避の難易度は低かった――ように思えた。

 女性の攻撃は加速していく。

 すでにローブが襤褸になりつつある。


「エノク君!」


 襲撃者の後方でホタルが叫ぶ。

 走り出そうとした彼女は――しかし、襲撃者が床を突き破ってできた穴から伸びた蔦のような縄によって全身を絡め取られる。

 状況に気付いて主人を救出すべく翻身するレイナルの巨体も、同様に捕縛されていた。


「徹夜で用意したの、嬉しい?」

「全ッ然!!」

「仲間にどやされてね? 今日こそあなたを連れ帰ることにしたの」

「仲間もいるのかよ…………!」

「ええ、だから寂しくないでしょ――さあ、おいで!!」

「ぐはっ」


 蹴りを叩き込まれて後ろへと転がる。

 一瞬の呼吸困難――だが生存本能が怯んでいる場合ではないと体を叱咤した。次の攻撃に備え、敢えて転がりつつ床に足が着いた瞬間に大きく後ろへと飛び退いた。

 頬を鈍い刃先が撫でる。


「くっ…………!」

「あら、あまり烈しく動かないで…………怪我しちゃうわ」

「だったら、しまえよ!」

「もっと味わいたいの」

「く、狂って――んがぁっ!?」


 避け損じた刃に叩かれて、エノクの頭が後ろへと跳ねる。

 直撃した額はぱっくりと割れ、傷口から血が滂沱と垂れ流れた。

 蹈鞴を踏むエノクへと腕を伸ばして襲撃者が飛び出す。


「――――!」


 衝撃で脳が揺れていた。

 彼女の目的はあくまでエノクの捕獲。

 そのためなら多少の損害を問わないのか、四肢を切り落とさんと手足を刈り取ろうとする手元に容赦は無い。

 その攻撃を躱している内に、下手な回避で頭を刃が直撃した。

 その際、切られるのではなく辛うじて打撃のような形になったのは幸か不幸か。


「あ、ぐ」


 だが、今その衝撃でエノクは脳震盪を起こしていた。

 まったく思考が働かない。


 エノクの赤く濡れた視界はぐらぐると揺れている。

 重い血で染められた風景の中に、女性の影だけが踊っていた。

 まるで、黒くうごめく怪物のようで。


「…………あ」


 それを見た瞬間、エノクの脳内でぱちりと火花が弾けた。

 頭の奥で鳴っていた警鐘も、痛みで灼熱していた傷口も、切迫した状況に早鐘を打つ心臓の音もすべてが消えた。


 悪夢の中と、『あのとき』と。

 条件もまた同じ。









「――――はあッ!」


 エノクの意思を離れて、体が再び動き出した。


「あら――ぶぎっ」


 襲撃者の突き出した腕を蛇のように片腕で絡め取り、もう片手を握り込んで作った硬い拳固で無防備な顔面を真っ直ぐ突き刺す。

 直撃箇所から血が爆ぜた。

 だが、あのときとは違って損傷を被ったのはエノクの拳ではない。


 反動は無い。

 ただ純粋に相手だけが壊れる手応え。


「ふは」


 エノクの顔に狂喜の色が溢れた。

 味わうように、さらに相手を殴りつけた拳を押し込む。

 襲撃者が短い悲鳴と共に打撃の威力で顔が仰け反った。


 だが、それでも攻撃は中断めない。

 もう片方に駆る鉈だけは、攻撃を受けてもエノクの体めがけて走る。


「ぁあ!!」


 横殴りに一閃――その軌道を読んでエノクの振り上げた片足が鉈の平面を直下から叩き上げる。

 魔獣には通用せずとも、大人数人分に匹儔する拳打の力は、同じ常識範囲(にんげん)の持つ腕ごと凶器を弾き飛ばした。

 武器を失った襲撃者。

 高々と頭上へと振り抜かれた後の足で強く踏み込み、拘束した腕を引っ張ってその体を引き寄せる。

 そして、力を蓄えるように低く腰を落とした。


「あら、いけない」


 襲撃者は呑気につぶやく。

 エノクは手刀にした手を腰元で後ろに引き絞っていた。


 エノクの視線は一点。

 矛先は人間の形をしているならば、誰であろうと抱えている生命の源――数ある急所の内で、最も死の即効性を与えることのできる脆い部分に定まっていた。


「ふッ―――」

「ごぼ」


 エノクの手刀が捻り出される。

 蓄えた力を、人体の駆動の神秘を用いた円運動で解放した。

 エノクの殺意を乗せた全力の突きが、まるで回転する槍さながらに、彼女の胸面を突き破り、温かい肉を掻き分けた手はそのまま背中へと脱出した。


 襲撃者の口から血があふれる。

 二人は互いに凭れ合うようにして停止した。


「ふーっ、ふーっ」

「おぶ、げぶっ…………あら、痛いわ」

「……………」

「でも残念、そこ(・・)は昨日別の人に渡してしまったの」


 血を吐きながらも彼女は穏やかに笑う。


 貫いたエノクの手には――手応えがなかった。

 心臓が、ない。

 平然としている女性にとっては致命傷となっていない。


 だが、冷静な判断力を欠いて意識は朦朧とし、ただ意思と乖離して動いているだけの体にはそれを理解し、警戒で身を引き離す選択肢が無かった。


「あら、逃げないの?…………いえ、逃げられないのね」

「ふー…………ふー…………」

「そんな体の使い方、いつ誰に習ったの? あなたは優しい漁師の子のはずよ」

「ふー…………」

「それとも、余所の子(・・・・)かしら?」


 襲撃者が片膝でエノクの腹を蹴り付ける。

 だが、寸前で割り込んだエノクの掌に掴み止められた。骨を軋ませるほどの握力で膝頭を捕えている。

 襲撃者がうっとりと目を細めた。

 いまエノクに意識はほとんど無い。

 その状態で体を稼働させているのは単に生存本能のみのはずだった。


 ならば、これは何なのか。

 相手の攻撃を止めつつ、以降の動きを封じ、確実に相手を殺すことだけを意図する鋭く繊細にして獰猛な体捌き。

 本能に根付くほどに、エノクの体には何かの術理が刷り込まされている証だった。


「でも残念、それって人殺しの業でしょう?」

「……………」

「なら、私には通じないわ」

「……………」


 心臓がない敵。

 エノクの技が人殺しに卓越していたとしても、急所を貫いてなお平然としている怪物の類ならば技の意味は無い。

 エノク自身にも、襲撃者にもその技術が何処の発祥とは知れない。

 ただ、人間相手にしか通用しない拳術であるのは明確だった。


 だからこそ――襲撃者には通用しない。


「もう、逃さない」

「……………ああ」

「さ、このまま行きましょうエノクく――ん?」


 そう。

 体を離して、逃げる選択肢は無い。

 自分は、戦っているのだ。


「かはっ!?」

「アンタの相手は、俺じゃない」


 エノクが襲撃者の首元を肩で突き、腕を大胆に引き抜く。

 血飛沫を率いて抜けた血塗れの手を握り込んで縦拳を繰り出した。


 岩と岩が衝突したような音を打ち鳴らし、襲撃時の腹部を強かに撃ち抜く。

 衝撃は体の前面から体内を波として伝い、背部へと駆け抜けていく。

 そして――突き抜けた破壊の波濤が背中に到達したとき、肉が内側から弾けた。皮膚を突き破り、襲撃者の臓物が本人の背後へと飛び出す。


「あ゛……………!」

「おらぁッ」


 エノクが片足を振り上げる。

 爪先が女性の顎を打ち抜き、その体を後ろへと弾いた。


 この蹴りには、もう『エノクの意思』が宿っていた。


 先刻までの繊細さなどは皆無、およそただ力をそのままに叩きつけるだけの芸術性の欠片も無い暴力だった。

 既にエノクは意識を回復している。


 襲撃者は微笑む。

 ならば――仕切り直し。

 四肢を切り落として無力化するのは、失敗して胸に風穴を空けられる損耗に至った。

 今度こそ一撃で意識を刈り取るよう方針を転換する。


 つい、遊びすぎてしまった。

 そう自嘲しつつ、襲撃者は着地に備えて宙で回って体勢を整えようとする。

 緩やかに、宙に弧を描いて黒衣が舞う。

 着地と同時に様子見などせず、勝負を決めに行く。


 襲撃者の体は準備を整え終えた。

 床に降り立つまでの短すぎる間に、エノクを仕留めることに全力を注ぐ心身を整えている。

 ホタルもレイナルも拘束した。

 警戒すべきティアーノもレイナルの影に隠れたエノクたちを援護できない。

 これで、勝てる。


「終わりね」


 襲撃者は勝利を確信していた。

 たしかに、彼女にとって好適な条件がすべて揃った状況下にある。

 よほどの理不尽が無ければ天秤はエノクたちへと傾かない。


 だからこそ。


「ああ――アンタがな」


 襲撃者の失念を、エノクは嗤った。


 彼女の着地点には――いつの間にかレイナルがいた。


「レイナル――――『殺れ』」

『ゴルルァアアアアアアアア!!』


 襲撃者は瞠目して肩越しに振り返る。

 蔦を引き千切り、拘束を破ったレイナルが体を振って落下する襲撃者を大きく開いた口で迎えていた。

 いつの間に――いや、違う。

 レイナルが速すぎたのだ。


 女性が着地の姿勢を整えるのと着地までの刹那に等しい間。

 このレイナルは…………『声』など要らず、ただエノクの意図を察して行動していた!


 主従関係などではない。

 命令ではなく、互いの心で通じている。



 この一人と一匹の関係は兄弟のような絆で繋がっていた。



『ガゥルルルルルルッ!!』

「ごぼっ」


 がぶり。


 閉じた顎で黒衣に包まれた肢体を挟み取り、並んだ剣よりも恐ろしい凶器の間で盛大な血の花を咲かせた。







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