号令
治療棟の大広間は賑わっていた。
運び込まれた患者が床に敷いた布の上に横たわっている。列を作り、大広間を占める彼らの総数はエノクが見た限りでも百人以上に上っている。
エヴェリンダに感染した者たち。
エノクは周囲を見渡して青褪める。
犠牲者は、まだ出ていない。
だが、夢の中で確実にエヴェリンダと相対している。目が覚めないのは、それを退治できていないからだ。
あれから一晩、未だに悪夢の中に居続けている。
逃げても、逃げても追い続ける怪物。
床に落とした垂涎の音が、延々と自分に向かって近付いて来る恐怖を何時間も味わい続ける。
エノクは思わず想像して目眩を覚えた。
「エノク君」
「だ、大丈夫」
頭を振って、気分を落ち着かせる。
たしかに悪夢である。
だが、それに終止符を打てるのはエノクの働き次第なのだ。彼らが襲われている原因はエノクにあり、罪滅ぼしのためにも完遂しなくてはならない。
後退るエノクの背を使命感が押す。
「全員、助けよう」
「この数を救えば、ホタル派も一気に支持力を得るわ」
「…………そうですね」
心做しかホタルの目が輝いている。
作戦成功時の功績による影響を加味した展望が大きな物となると期待しているのだ。
ホタル派は発足と同時に大きな躍進を得る。
無論、それもエノク次第だが。
「気が早いね、ホタルも」
「常に先を見据えているだけ」
「目前の難関の厳しさ、忘れてない?」
「あなたほど迂闊ではない。 己の力を把握していない上に魔獣相手に必要以上の損害を被る戦い方しか思い浮かばなかった人とは違うわ」
「う゛っ」
「注意が必要なのは、あなたよ」
エノクは大広間を見渡した。
患者を運び、また診察している者たちがいる。
この中に敵は潜んでいるのだ。
魔獣被害を阻止しようとすれば、それこそ刺客側にとっては不利である。エノクの暗殺が失敗したことで多少ながら強引な手段に出なくてはならないほど切迫しているのだ。
ここで――エノクを仕留めに動く。
くい、と袖を引かれる。
エノクが視線を落とすホタルの白い手があった。
「安心して事に当たって」
「…………うん」
「何より、ティアーノ先生が警護に就くとなれば魔法使いであろうと魔獣であろうと怖い物は無い」
「そうなんだ」
「ええ」
「なら、頑張るよ。 レイナルも傍にいてくれることだしね」
『がうっ』
「そう」
ティアーノが入口の二人を見つけて歩み寄る。
眼鏡の奥の瞳は、いつになく険しかった。
「魔獣駆除についての放送を聞いて警護用の魔法使いが五、今診察に充てられている職員が十四名参加しています」
「警戒すべきは、十九人ですか」
「魔法使いに関しては、魔法学園の教員です。 ただ、キュゼとリードのとき同様の変身の術の場合も考えて本人確認は完了済み」
「職員は?」
「ええ。 一応、変身の術は無いですが思惑は知れません…………ホタルは彼らに注意を、私は魔法使いたちに」
「え?」
エノクは小首を傾げる。
魔法使いは本人だと確認されている。
ならば、敵側であるはずがない――そんな考えを、思わずこぼれた戸惑いの声から察したであろう二人が揃って嘆息した。
ホタルが胡乱げな眼差しをエノクに注ぐ。
「エノク君」
「はい」
ホタルの冷たい声に、エノクは思わず背筋が伸びる。
そっと彼女の美貌が近づいてきた。
「魔法学園にも派閥があると言ったでしょう」
「う、うん」
「平等という建前の中にも、政治が絡みます。 教員の中にも生家が貴族なのもあって、リューデンベルクにも通じる者がいるんです」
「あ、そっか」
単純に職員十四人が容疑者ではない。
ティアーノという例外を除けば、この場にいる全員が疑うべき敵なのだ。
魔法使いの格に身分は含まれない。
平等主義を謳うこの校風に心の底から順応している者はあまりいない。生徒然り、教員ですら貴族としての矜持や柵を抱えているのだ。
リューデンベルク王国に通ずる者もいる。
エノクへの殺意を抱く可能性は、この場にいる十九人にある。
「それでは、エノク」
「はい」
「あなたは大広間の中央へ…………ホタルは直近で彼の警護を」
「はい」
エノクは中央へと歩いていく。
その間、出来る限り周囲を見ないよう努めた。
疑っていることを悟られてはならない。
余計な警戒心を煽り、相手に用心させる心構えを作らせてしまえば、却ってティアーノたちが不利になる可能性があるからだ。
『大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫……………!』
唱えていく内に――メリーの顔が映る。
初めて――自分を受け容れてくれた子の顔が見えたとき、自然と心の中の焦燥や恐怖が凪いでいく。
そう、『あのとき』に比べれば。
「そうだ…………そうだよな」
「エノク君、どうかし――」
ホタルがエノクの顔を覗き込んで――息を飲む。
強面と呼ばれるほど険があり、相手に威圧感を出してしまう顔立ちを表情だけで和らげ、常に周囲に慮ることを念頭に置く。
ホタルも、彼のその顔で人の良さが分かっていた。
ただ――今は全くの別人である。
黒い瞳は虚ろで、平時の温和な空気が見る影もないほどに、どこまでも冷え切った表情だった。
「行こう、ホタル」
「…………ええ」
エノクの足取りに淀みはない。
ホタルを隣に伴って、所定の位置へ向かう。
大広間の中央に着いて、周囲を見回した。
示し合わせたようにティアーノがその視線に対して頷く。
作戦開始の合図。
エノクは一呼吸の間を置いて目を細めた。
「始めます」
魔獣を呼び出す。
悪夢の中で戦ったあの魔獣を退けたときのように、下手な小細工は要らない。
ただ純粋に訴えかける意思を声に乗せて、言葉にするだけ。
「――――『出てこい』」
そのとき、大広間全体から音が消える。
ただエノクの声だけが、空間全体を満たしていった。
患者たちの呼吸音も、遠くからの喧騒も、人の気配の悉くが消えたかのように静まる。
そして――声に呼応したように、患者の体が激しく痙攣し始めた。
「…………来た」
エノクが冷たい声で囁く。
その直後――。
『ほおおおおおおおおおおお!!!!』
横たえられた百以上の人体から無数の黒い怪物が姿を現した。




