凶兆の音
エノクの承諾を受けてホタルが動く。
立ち上がって机に置いた書を脇に抱える。
それから扉の方へと振り向いた。
「そろそろ精密検査の時間ね」
「うん、その予定だね」
「私も付いていくわ」
「ど、どうして?」
「もう既に庭園事件の帳消しに向かって事態は開始している」
「…………」
ホタルの思惑は読めない。
作戦内容が伝えられないことへの遺憾は隠せなかったが、采配に従う上で配下になると了承した以上エノクは口答えできないと悟った。
渋々と医師の到着まで黙って待機する。
昨日の襲撃者は何者の刺客か。
その情報はまるで得られていない。候補として有力なのは、エノクの出身であるリューデンベルク王国、あの法廷にいた者の誰かである。
最もエノクへの判決に不満を抱き、声を上げていた男からならば納得できた。
ただし、そうだとすれば『耳無し』たる今回の魔獣について襲撃を警告するようなことはしないはずなのだ。
加えて、目的は殺傷でなく誘拐。
そも魔獣自体も怪しい。
北海の『凪』の胎窟という、世界の中央からは明らかに遠い土地に、その魔獣がどうやって辿り着いたのか。
伝染して数を増す魔獣なのだとすれば、レギュームに辿り着くまで相応の犠牲者を出して接近している。
それを大陸が、況してやレギュームが関知していないはずがない。
突然の出現。
これもまた誰かの工作か。
「…………?」
沈思に耽るエノクは、ふと聞き馴染みのある音を耳にする。
遠くから海の声――『潮騒』がする。
同時に、通路を歩んでくる医師らしき気配の足音がしていた。近づくにつれて、『潮騒』もまた大きくなっていく。
「…………?」
エノクの背筋に悪寒が走る。
この『潮騒』が聞こえたときは異様なことが多かった。
フレイシアとの邂逅、部屋から出ていないはずのキュゼとリード。
前者の理由は未だ不明だ。
ただ、その後に燭台の下で文が発見されている。…………誰が置いたかは全く知らない。
後者は、よく考えればキュゼとリードに扮した別人であるということが分かる。現に、部屋の中で発見された二人が治療棟に搬送されているのだから。
その二人が何をしていたかも判明していない。
ただ、あの庭園事件の前だった。
そして、もう一つ。
昨日のフレイシアとの会話中にも聞こえていた。
あの後、魔獣に襲われている。
いずれも不吉な予兆だった。
エノクの体がなにかに反応している証。
「…………エノク君?」
「ホタル、何か嫌な予感がする」
「どういうこと」
「分からない。 ただ、冗談じゃないから真剣に聞いてくれ」
「…………」
異変を悟ったホタルが振り返る。
エノクは扉から視線を外さないまた話した。
「今通路を歩いてるヤツ、何かおかしい」
「…………」
「不吉なことが起こる前に、『潮騒』が聞こえたんだ。 昨日の事件といい、魔獣の件も」
「今は?」
「足音が近づくほどはっきり聞こえる」
「…………そう」
ホタルはローブの裾を払う。
袖の中から飛び出した白い短杖を手にした。
エノクもまた身構える。
「あなた、災難な人ね」
「一体、何者かな」
「この事態の後となれば、あなたの抹殺を仕損じた者の追撃と考えるのが妥当ね…………次から次へ、充実した毎日ね」
「心が磨り減るばかりなんだけども」
扉が開くと、白衣の男が現れた。
エノクはその顔に覚えがある。
昨晩、エノクの容態について魔力の浪費を削減すべく、治療は不要と診断し、最低限で済ませた人物だった。
ホタル自身も会った人物である。
特に変わった様子はない。
ただ一点――以前は聞こえなかった『潮騒』を除いて。
「ホタル君もいたのか、仲が良いんだね君たち」
「これから検査ですか」
「そうだよ。 さ、エノク君、立てるかい?」
男が寝台へと歩み寄る。
ホタルは自然にその横を過ぎて、背後へと回った。身構えるエノクに訝しむ男の後頭部に、そっと触れるように杖先を当てる。
「聡いガキどもめ」
その直前に男が身を翻す。
ホタルの杖を持つ手を掴み、もう片手で首を捕える。
先刻とまるで異なる男の豹変ぶりに、エノクは唖然としていた。
背後の行動を察知するまでなら、警戒した人間に可能である。ただ、後ろへと回転する速度は明らかに狩りで獲物に飛びかかるレイナルのように速く、首と手を掴むまでの動作は流れるようだった。
明らかに、医師の動きではない。
むしろ、昨日の襲撃者に近い剣呑な闇を孕んでいる。
ぎろり、と男の視線がエノクへと向けられる。
エノクはそっと、枕元に手を伸ばす。
「気付いていたのか」
「き、気づく、とは?」
「まあ良い。 極力被害は抑えたかったが、ホタル君にも死んで貰わなくちゃ」
「っ――レイナル!」
エノクの枕元で眠っていた毛玉が飛び跳ねる。
男へと虚空を切り裂いて飛んだそれが巨大化し、獣としての本性を露わにして男に頭突きを食らわせる。
ホタルを残して、白衣が弾き飛ばされた。
壁面に叩きつけられた男が床に倒れて呻く。
エノクは寝台を飛び降りてホタルを抱え上げた。
咳き込む彼女に怪我はない。
もはや大虎じみた体格のレイナルが二人を庇うように立ち、唸り声を上げて男を睨む。狭い個室のほとんどを占めるような体が、七色に微光していつでも排除できるよう魔力を滾らせる。
「けほっ、けほ」
「大丈夫?」
「ええ、さっきので男の動きは封じた」
「封じた? で、でも」
ちら、とエノクは見る。
すると、男は床に倒れたまま動かなかった。
レイナルが力加減を誤って轢殺したかと危惧したが、男の胸は正常な呼吸によって上下している。失神というよりも、入眠後のような安らかな面持ちだった。
レイナルの攻撃を受けた後とは到底信じがたい状態である。
まさか。
「レイナル、もう力加減を覚えたの?」
『ぐるるっ』
「………昨日聞いてない風だったけど言われたことがよほど堪えてたんだな」
レイナルが不満げに顎をくいと上げる。
その傍らをすり抜けて、ホタルは男へと歩み寄った。
それから触れて男の状態を調べる。
「何をしたんだ、その人に」
「私の首を絞めて睨んできているときに、視線を合わせた相手に対して視覚から訴える催眠の魔法を仕掛けたわ」
「催眠」
催眠の魔法――入学初日の隧道と同類の力。
エノクには苦しそうに見えていた彼女だが、すでに反撃の挙に出ていたのだ。
「抜け目ないね」
「魔獣を落ち着かせたら、尋問開始。 治療棟に協力者が紛れているなら、他にも何人かいるはずよ」
「…………マジでか」
「敵の正体を吐かせた後、名誉挽回ね」
ホタルが首をさすりながら呟く。
瑠璃色の瞳が仄暗く光る。
エノクはその表情と倒れる男を交互に見て、しばらく自分に平穏などないのだと落胆のため息をついた。
次。




