エノクの飼い主
その言葉を理解するまで、エノクは一分に近い時間を要した。
長い沈黙は、動き出した治療棟の物音があって居た堪れないものではなくなっている。
ホタルはその間、一瞬も目を逸らさない。
ただエノクの返答だけを待っている。
辛抱強い、のではなく相手の内心を察して理解するまでを待っているのだ。
「えっ、と…………犬、ときたか」
頭痛を覚えてエノクは額を指で押さえる。
漁村では、幼いながらに船仕事に参加するに当たって大人たちから漁人としての心得を説かれたことがある。
心得の一、動きは飛魚のように早く。
心得の二、耳は餓えた鱶よりも鋭く。
魚になれ、とさえ言われたことがある。
無心になって、幼心にそれを信じてなりきろうとした。
ただ――犬、とは?
「子分って、こと?」
「有り体に言えば、それが近しい表現ね」
「悪いけど、俺ってどうやら三大公爵の…………アルフレディア?の嫡子アレイトさんの子分らしいんだよね」
「派閥関連の話題の際に、無所属といった口振りだったけれど」
「バレてた…………」
保身の虚偽が一瞬で看破された。
期待はしていなかったが、欺くために張った防御を薄皮のように弾いて暴かれたエノクは項垂れる。
「俺を子分って、まずくないか?」
「熟考を重ねた上での判断よ」
「話を聞いて、厄介なヤツってならないか?」
「それ以上の価値があると判断したわ。――尤も、私の采配に従って行動した場合にのみ限られるけれど」
「…………」
「加えて、徒手空拳で魔獣を撃退する体術、人と円滑に話を進めようと努める気配り、強制力すら有した魔獣との会話能力、生存本能に従って直向きに状況に対応する姿勢」
「…………」
「あとは、これだけ言われても私を蔑むこともなく敬意を最低限払う精神性」
エノクは瞬時に理解した。
エノク本人は見ていない。
だが、人格や技術諸々を能力値として概算して評価を下している。一見、本来ならば人間を道具としてしか見ない冷淡な者にも捉えられる。
ただ、微妙な差異がある。
「それに」
「…………?」
「話せば退屈ではあるけれど不快にならないのが、ここに無い評価点になっているわ」
「…………嬉しくない」
「喜ばせる積りは無いわ」
ホタルは強要していない。
尊大な口振りに反して脅すことは無かった。
いや、これからあるのかもしれない。
エノクには指摘し、貶める陥穽になりそうな秘密や弱点が多くある。
勧誘に当たってその点を衝かない者はいない。
何よりも楽に人を絡め取れるからだ。
だからこそ、ホタルの言葉はそれよりも温かみがあった。
相手の退路を塞ぐ戦法ではなく、まず勧誘する動機となった能力に関する評価を先に話している。
…………犬は、非人道的ではあるが。
何より――好意的な物は無くとも、その言葉には偽りも無い。
それが却って信頼できた。
「俺を使って何をしようと?」
「私も派閥を作る予定なの」
「へ?」
「あなたはその一人目」
エノクは苦笑する。
エノクを勧誘するためには、組織に所属することで危険を回避することであり、そのために何かの派閥に入る必要がある。
そこでホタルは自身の下を提案した。
大きな組織だからこそ身を守りやすく、エノクにとってそれ以外は利がない。
ただ、仮にまだ未発達の派閥、それも彼女一人となればそれすらも失われている。
入る意味は最初から無いも同然だった。
「どう?」
「でも、俺の入る意味ある?」
「助けた恩を返してもらうわ」
「……………」
安堵から一変、エノクは怪訝な顔になる。
助けられたのは事実だった。
だが、この少女は臆面もなく己の成果を主張して相手に返礼を求める。本来、返礼とは相手が献身的に行う場合に発生する物であって、対価とは言いがたい。
ホタルの口振りでは、まるで契約の交渉だ。
厳かに利益の交換をし、相互補助をする。
断る余地が、ない。
いや、救われた時点でエノクは彼女が困れば幾ばくかの躊躇いはあっても協力を惜しまない。
だが、ホタルのそれは強制的な含意があり、素直にうんとうなずくには抵抗があった。
「君って、さては意地が悪いな」
「あなたは遠慮が無いわね。 救けた本人に物申せるなんて」
「たしかに君が治してくれなければ、今頃は死んでたかもしれないけどさ」
「身近な敵は生徒だけではないわ」
「え?」
ホタルは後ろを指差す。
「魔力の無駄遣い、と言ったわね」
「あ、ああ、あの医師がね」
「治療棟は最低限、誰かを救うために魔力行使は厭わないのが普通だわ。 多少の異常事態ではあれど、あなたに魔力を割かないのは不自然」
「ま、まさか」
「おそらくだけれど、あなたを厄介視する連中は既にいて、手を回しているわ。 事情から察するに、今回の襲撃者連中か、それとも国であなたを裁こうとした勢力の間者ね」
「はっ!?」
エノクの心臓がどきり、と大きく跳ねる。
「…………」
「アナさんから聞いているわ。 医師は忙しくて、中々こちらに足を運んでくれなかったそうよ………まるで渋るみたいに」
「ま、マジで?」
「最悪はそのまま死んでくれた方が良かったけれど治癒したから、足の調子は気付いたけれど放置したのね」
「放置、だけ?」
「まだ体が十全に動けないとなれば、次の手も来る…………かもしれないわ」
「…………」
思いの外、敵は多かった。
まだ断定するには早すぎるかもしれない。
ただ医師の話については、納得できる。
「なら、尚更どこかに所属しないと」
「あと、この提案にはあなたにも利がある」
「はい?」
ホタルは淡々と反駁する。
「庭園」
「……………………………」
「学園側でも、かなり騒がれていたわ。 何より、学生が魔獣に襲われたなんて話もある……………あなたの飼い犬の所為ね」
「あ、はは………………」
「本来は早急に介入してエヴェリンダを倒して恩を売って有無を言わさないつもりだったけれど」「…………何て悪どい」
「他の派閥も、ほとんどが魔獣を批判する…………受け入れてくれるところは、そう無い」
「そ、そうだけど」
「もし私に協力すれば、庭園の件も帳消しにすることもできる策がある」
「えっ」
エノクは沈黙した。
ホタルの思惑は、まるで見えない。
ただ、この数分の会話で意地悪な内面が垣間見えた以上は碌でもないことは確かだと直感した。
救われたのは事実、逆らう理由も無い。
退学と死が同義である身としては、庭園や襲われたという学生の訴えは無視できない問題だ。
外部に伝達されれば、やはり危険な存在として即刻処分される。
「君、本当に意地悪どころじゃないな」
「…………?」
「いいよ、受ける」
一つ片付ければ、また一つ。
息つく暇のない日々に、エノクは肩を落として次に直面するものへと向かう覚悟を決めた。
「犬にはならないけど」
「そう」
エノクが悲しくも強い意志で下した決断に、乾いた返事だけだった。
「とほほ…………」
「現状、この提案はあなたを救う。――であるなら、私はあなたより優位にある」
「う、うん?」
「つまり、あなたは私の使い魔も同然」
「つ、使い魔………犬同然だ」
「命令には逆らわないこと、私はいつでもあなたを見放せるのだから」
「そ、そうか」
ホタルは調子を崩さず続ける。
告げられる内容に理解が追いつかず、壊れた絡繰仕掛けの人形のごとく縦に首を振るしかない。
ただ、やっぱり…………。
「やっぱり、碌でもない予感しかしないな」
そう言うと――少女が薄く、微笑んだ。
「口答えは無し」
「………………………………はい」
エノクはその微笑みに、自身が辿る道の険しさを実感したのだった。
次へ。