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夢の来訪者

混乱させてしまって申し訳ありません。



 エノクは少女を見上げる。

 瑠璃色の瞳には感情がない。

 それどころか、満身創痍の惨状を目の当たりにしても興味がないような顔だった。床に落ちた小石を見るように無感動である。


 そんな所感はさておき。

 今度こそエノクは心底から諦観した。


 この少女が誰かから使嗾された敵であっても怪しくはない。

 エノクの夢であるはずの空間に姿を見せる異常さと、重傷の体を目を逸らすか、憐れむかもせず具に観察している。

 エノクへの心配や傷の具合より、傷の付き方に着眼したような眼差し。


 敵であれ、味方であれ――エノクにはもう抗う術は無い。

 魔獣ならば声で追い払えるが、人はそうもいかない。

 諦めて、床に倒れ込んだ。


 少女は屈み込んでエノクの足を見る。

 肉が弾けて露出した膝蓋骨に指を這わせた。


「痛覚は無いんですね」

「あの、普通に触って欲しくないです」

「敬語は不要です、歳は同じだと聞いているので」

「自分の言動と矛盾してません?」


 惨状に対して呑気な会話が展開する。

 一度弛緩してしまうと、改めて気を引き締めるには相応の苦労がいる。

 エノクにはそんな余力は残されていなかった。


「無事なら構わないわ」

「無事って」

「傷は治癒した」

「えっ、あ」


 エノクは言われて体を確認する。

 すると、損傷が甚大だった肘や脚部が完治していた。破けたズボンやローブの隙間からは、健康的な皮膚が覗いている。

 血に濡れた衣服に反して、若干の違和感を呈するが肉体の回復は間違いなかった。


「すごいな、一瞬だった」

「初歩の治癒魔法よ」

「俺には魔法、が何たるかも微妙なところなんだ。 だから君にとって些細でも凄いことだと思う」

「そう」


 無感心な風に少女は呟いた。


「傷を治してくれてありがとう………えっと」

「…………?」

「悪いけど、君の名前とここにいる理由を教えて貰ってもいいかな」


 エノクが訊ねると少女は瞑目してその場に正座する。

 その表情は、『やっとか』と言いたげだった。

 注視しないと気付けないほどに感情の機微に乏しいところや、動かなければ絵画のように美しい姿はメリーを想起する。


「ホタル」

「改めて、エノクです」

「私がここにいるのは、あなたと感覚を共有する魔法で夢の中に介入したから」

「魔法って、そんなこともできるのか」

「本当に無知ね」

「…………まあ、その無知のせいで死に目に遭ってきたから、殊更勉強を頑張る意欲に転換されそうだよ」

「いい教訓(こと)だわ」


 淡々と少女――ホタルは応える。

 エノクはむっとして心做し彼女を睨む。

 窮地を切り抜けた人間に、当事者でなかったとはいえど労りが欲しい。そんな細やかな期待を抱くのは筋違いだが、あまりにも冷たい反応にいささか不満が胸中で首をもたげる、


「でも危険じゃないか」

「危険」


 ホタルが真っ直ぐエノクを見る。

 危険、が何を指しているのか視線で訊ねている。


「さっき魔獣に襲われて、ああなっていたんだ」

「あなたは魔獣を操れると聞いたけれど」

「いや…………無我夢中で、満身創痍になるまであれが魔獣だと気づけず」

「――――」


 ホタルの瞳が呆れの色を滲ませた。

 その鉄面皮に隠れた表情を読み取る力がある己に奇妙な感慨を抱きつつ、エノクは彼女の感情に共感して自嘲的に苦笑する。


「どう見ても魔獣よ」

「はい」

「知識が乏しいにも限度があるわ」

「ご、ごもっとも」

「でも、先刻の『エヴェリンダ』を見るに…………相当な接戦だったのね」

「そう見えますか」

「ここから少し離れた先で、あれは血を噴いて死んでいたわ」

「は…………!?」


 エノクが驚愕に声を上げた。

 肘と足、手首を代償にした格闘が効いているのだ。

 ただ、命の瀬戸際の最中にありながら記憶が明確ではなく、どう反撃したかも思い出せない。


「お、驚いたな」

「一体、どんな魔法を?」

「いや、『出ていけ』って命令するまでに三発くらい打撃を浴びせてた、ような」

「…………」

「…………」

「魔法も使えないのに、『力』を使わず素手で応戦したの?」

「逃げ切れなくなって、気付いたら」


 ホタルが再び瞑目して、おもむろに立ち上がる。

 す、と手を差し伸べた。

 白く綺麗な手に、エノクはなぜか掴むのを躊躇った。

 訝しむ彼女に気付いて、そっと握る。

 まるで羽に触れたかのような感触に潰してしまわないかという危機感が湧く。反射的に悲鳴を上げそうになったのを堪えた。

 挙動不審なエノクを、だがホタルは変わらない無表情で見つめる。


「それで、『エヴェリンダ』って?」

「魔獣の一種よ。

 これは『凪』の胎窟から発生した生き物で、人の夢へと入り込み、意識を食らう(ヒル)。 増殖した後は、付近にいる人間の夢へとまた感染的に移っていく」

「恐ろしい化け物だな、あの長鼻」


 エノクはぶる、と体が震えた。

 たしか『凪』の胎窟といえば、レイナルもそこから現れる固有種とされる。ベルソートの半年以上前の説明を朧げに思い返した。


「長鼻…………?」

「ほら、たしか鼻の長くて体躯の大きな動物がいただろ。 あれの鼻に似てないか?」

「それは象よ。 …………あれが?」


 少女はおとがいに手を当てて考えている。

 エノクはその横顔をじっと見つめた。


「ともかく、死んでいたのか」

「ええ」

「なら、あとは脱出だけだ」

「そうね。 でも、エヴェリンダが死んだなら直に目を覚ますはずよ」

「そっか」


 ほ、とエノクは胸を撫で下ろす。


「改めて助けてくれてありがとう」

「感謝は不要。 下心があって助けたのだから」

「えっ」

「それではエノク君、話があるので夢と一緒に忘れてしまうということは無いように」


 やや低い声で注意すると、ホタルは指を鳴らす。その足下から、蛍光色の花びらとなって体が分解していく。

 やがて暗い通路を埋め尽くす花吹雪の景色の最中から、ホタルの姿は消えていた。


「下心、なのか」


 包み隠さない彼女の様子に呆気に取られる。

 ふとエノクは自身の体が透けていることに気付いた。


「そろそろ、起きる時間なのか」


 ホタルのことも含め、まだ現実にも多く問題が残っている。

 エノクは果たして、先刻までの夢も現実も、どちらが悪夢なのかと考えながら、そっと夢の世界から離脱するのだった。






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