死線
痛覚が無いことが幸いした。
体の損傷に疎い分、殺されることへの恐怖さえ超えれば呪縛は無い。
ただ体が稼働するからとて、打開策も、そも勝算すら見つかっていないのが現実だ。
ただ、エノクの体は飛び出す。
迫る死の壁にエノクの体が抗う。
「ふッ――――」
『ぼぉおお!』
短く鋭い呼気。
余計な力が抜けた体は、軽やかに動いた。
エノクは踏み込みと同時に、鋭く捻り出すように拳骨を振り下ろす。
接近していた『鼻』を叩いて逸らした。
黒く乾いた、けれど厚い革の裏に鋼が仕込まれたかのような手応えがする。
唐突な強打に『鼻』の直進は曲げられた。
懐を潜り抜けるように過ぎ去っていく。ローブごと脇の皮膚を削っていった。
通過した胴体に血を塗りたくるように、彼我の距離はすでに無い。
ごぐり、と手首で不吉な音が炸裂する。
片手が歪んでいた。
親指の根本が拉げて、腕の皮が捲れ上がる。
普段ならば、それだけで悲鳴を上げていただろう損傷に対して、今のエノクは他人事のように感じていた。
止まらない。
「ふッ!」
脇を削っていく巨体。
エノクは片膝を振り上げて『鼻』を蹴り上げる。
ぐしゃり、と鈍い音がした。
膝が血飛沫を上げる。
思いの外『鼻』の筋肉が固かった、エノクの打擲ごときでは押し負ける。たとえ大人数人分ほどの桁外れな腕力でも、この化け物には敵わない。
相手は常識外の獣、対して優れようとも常識の範疇を出ないエノクの差が歴然とする。
『ほぅっ――――?』
だがしかし、『鼻』の先端から苦しげな呼気が漏れた。
エノクは膝の惨状を目の当たりにしながらも、次いで跳ね上がった鼻へと肘を打ち下ろす。
『ふぉぼぇッ!』
さらなる衝撃が炸裂した。
今度は大きな悲鳴が上がった。
床に叩き落された『鼻』と肘先を血の糸が結んで、儚く切れた。
恐怖に凍りつき、硬直した寸陰の後の出来事。
一呼吸も無い間のエノクの反撃に『鼻』の孔から鼻血が溢れた。
黒く伸びた全体が、びくりびくりと大きく痙攣する。
深く息を吐いて、残心する。
「ふーー……………え?」
予想外の自分の行動に狼狽える。
今、自分が何をしたのか。
まったく理解ができず、瞠目した。
傷ついた片腕と片脚は、逃走と回避を続けるには困難とされる重篤な損傷具合を負っている。
片足で体重を支えている。
痛覚など元より無いが、折れた手足は動かない。
「体が勝手に…………これって」
――一体、なんだ?
理解不能だった。
咄嗟のことなので記憶も曖昧だ。
無我夢中だったのは確かである。
ただ無償に泣きそうな気分で、腸が煮えくり返るようで、どこか心地よい感覚だった。
何に奮起したのだろうか。
エノクは己の内面へと問いかける。
…………このとき、戦に長けた者ならば叱責を飛ばしていた。
戦いにおいて、勝利者とは勝った後にも注意を払う者である。反撃の隙を一切も与えずにその場を制することこそが勝利だ。
競技ならば、それを規則が担ってくれる。
だが、ここには身を護る法は無い。
法を定め、執行する秩序すら欠いている。
そもそも獣には本能しかない。
エノクとこの『鼻』に立つのは、夢の中という異空間にして無法地帯だ。
ならば死合う時点で、互いに言葉が通じず、どちらも妥協点を探す意思を最初から放棄し、命を懸けているとすれば勝敗は相手の死のみに依存する。
己の中に芽生えた一瞬の動揺と疑問が、そこまで体を動かしていた生存本能の支配を緩めた。
これがエノクにとっての失着だった。
普段ならばいい。
だが、この場においては最悪である。
結果――動きを、止める。
『むわぁぁぁぁあ!』
「しまった!」
方向転換した『鼻』が体へと巻き付く。
胴を締め上げて、床から持ち上げられた。
「離せッ!」
『ぶふっ、ぶふっ』
血を咳いて、鼻が近づく。
エノクは片腕でそれを払おうとする。
傷を負ったこの現状で、『鼻』の拘束に抗う術は無い。
先刻まで体を衝き動かした本能ならば、とどめまで事を運んだだろう。
ところが、それは果たされなかった。
エノクが勝利を確信した『鼻』の油断によって生じたわずかな隙を突いて逆境を跳ね返したように、『鼻』もまたエノクが見せた綻びを見落とさなかった。
完全な、敗北である。
「う、ああああ…………!」
体が絞られる。
痛みは無い、明確に体が破壊された実感は湧かない。
ただ体がみしみしと軋んでいる。
口から漏れた苦鳴は、それを紛らわせるような悪足掻きだった。
改めて、至近距離で『鼻』を見る。
伸びる『鼻』は見えても、象らしき顔や体は見えない。
天井の闇からただ伸びるだけ。
「何なんだこの生き物は」
見るからに動物、ではない。
エノクは己が如何に浅学か、自身が把握していないほどに蓄積した情報が乏しいと理解している。
それでも、これが異常だとは察した。
何より、『鼻』が放つ気配は――考えたくもないが――レイナルに根幹から似ている。
『むわぁぁああ』
「魔獣、なのか」
もし魔獣なら、と思ってエノクは目を眇める。
ここが現実ではない、夢の世界であることは確かである。
ただの悪夢よりも質が悪い。
この怪物は目覚めるまで獲物の意識を捕える。
これが、尋常な獣の狩りであるものか。
おそらく、この生物は自分の中に入っているのだ。内側からの侵食、意識そのものを捕食する生命だと考えれば合点がいく。
レイナルの能力然り。
魔獣などに常識など無い。
この世界を作り出す可能性など容易に想像できる。
円滑に進む思考による計算。
いつの間にかエノクの中枢には冷静さが宿っていた。
導き出された答えに対し、すでに体は実行に向けて動き出していた。
「おまえが魔獣だってんなら」
『むわぁあああああ』
身構えるエノクに対し、『鼻』が近づく。
その先端部――いや、口がエノクへと向いた。
獲物を前にした獣性の熱を孕む熱い吐息が正面から吐き出される。
だが、今のエノクには感じられない。
足の裏の五感以外が真面に機能していない異常状態で、この世界を作り出した獣の殺意だけは犇々と感じ取っていた。
「なら、やることは一つだよな」
『むわあああああああ!!』
エノクが深呼吸する。
同時に、『鼻』が奇声を叫びながら伸びた。
「『俺から、出ていけ』――――――――!!」
力の限り、エノクもまた叫ぶ。
目前の獣のみならず、世界全体へと響き渡るように腹の底から声を絞り出した。
エノクは思い違いをしていた。
何故、エノクは『鼻』が襲来したときに相手の声が聞こえたことに安堵したのか。
聴覚の不調が、勘違いだったことと精神面では判断していた。
だが、肉体面は異なる。
肉体は察知していたのだ。
思考や、多すぎる情報はときに自らの肉体で得た刺激を紛らわせることもある。
熟考が却って愚考と同じ結果を生むのと同じように、実際に見聞きした物で得た刺激が伝聞よりも正確なように、肉体は本質を把握していた。
相手は獣、声は通じる。
なら――エノクの専売特許だ!
エノクにとって最大の災難であり、最も優れた能力。
その声には、余人には無い『伝える力』がある。
そう、思い違いをしていた。
声が聞こえるから、伝えることができる。
相手が魔獣ならば、エノクの声にはこの状況を打破す力を充分に得られる。
『………………』
沈黙した。
寸前で停止した『鼻』の吐息と、エノクの吐息が至近で交わる。
やがて、ずるずると頭上の闇へ引き返していく。
その終端までもが見えなくなったとき、エノクはようやく力を抜いてその場に座り込んだ。
「げ、撃退した…………これで俺の中から消えてくれただろうか」
エノクは周囲を見回す。
水音はしない、きっと魔獣は出ていく。
この『声』が通じたのならば魔獣に違いないのだろうが、憑かれた原因は不明なままだった。
加えて、満身創痍。
無事というには程遠い。
ただ命の安全は保った。
万事解決というには違和感を残す結果でも、今は助かったことに安堵するしかない。
ほっと胸をなで下ろす。
そこで、ふとエノクは再び周りを見る。
「ここ、どうやって出るんだ…………?」
一段落して、エノクは周囲を見遣る。
出口らしき物は見当たらない。
いや、そんな物があればとうの昔に喜んで飛び込んでいた。
夢ならば覚めるものだが、原因と思しき怪物が去った後も明瞭な像として視界に納められている。
それに加えて疲労し、傷ついた体では移動のしようもない。
途方に暮れて泣きそうになる。
「ここでしたか」
こつ、と背後で靴音がした。
エノクは振り返って、そこに人影を見出す。
「君は?」
「やっと見つけました」
鈴を転がしたような、耳障りのよい声がする。
そこに立つ人は、エノクがすこし民謡や童話に詳しければ『冬の精』とさえ表現していたであろう、白いローブの可憐な少女が立っている。
「お迎えに上がった次第です。――エノク君」
瑠璃色の瞳がエノクを映していた。
次。




