寝目醒め
寝台に眠るエノクは静かだった。
見守る三人の心配など露知らず安らかな顔である。
緊張感が無い、寝顔だ。
本来なら問題の発端そのものなのに、場違いな感さえするほどすやすやと眠る。
場違いと言えば、もう一人。
枕元に寄り添って丸まっているレイナルはともかく、隣に一人だけ椅子を持ち込んだかと思えば器用に座った姿勢のままホタルが入眠した。
カスミはそれを『私がそばに座りたかった』と悔恨し、アナは『何をしに来たんだ、この人』と訝しみ、アレイトは『帰ってくれ』と呆れと憤懣を含んだ眼差しを注ぐ。
エノクの病室は彼一人きりだ。
隣にあるもう一つの病床は誰もいない。
静かな病室に、すでに日が暮れて暗くなった病室の中で灯した小さな火とエノクの周りに四人は固まる。
「いったい、何が原因なんだろうな」
「私たちと何が違うのか」
「ホタルさん、分かりますか?」
「……………」
「本当に寝てやがる」
アレイトが呆れてエノクへと視線を戻す。
と。
エノクの口端から血が漏れていた。
体にかけた白い上掛けに、赤が滲み出す。
三人はぎょっとしてエノクに飛びついた。
「な、何だこれは!?」
「エノク、どうしたんだ!」
カスミとアレイトは叫んだ。
アナは青褪めて、すぐに医師を呼ぼうと病室を飛び出す。
エノクの体内で何かが起きていた。
三人の心配する現実とは離れた夢の中で、エノクは血反吐を撒き散らす。
「がはッ!?」
エノクの体が吹き飛ばされる。
凹凸の富んだ歪な壁面を跳ね返って、床を鞠のように転がる。夢の中とあって大した痛覚が無いことが幸いか。
床に転がって起き上がる。
意識を失うことはなかった。
だが、先刻の一撃が足に利いて立ち上がれない。
『むふうううううっ』
「く、そ」
悠々と『鼻』が近付く。
エノクはそれを睨むことしかできない。
転がって避けるとしても、次の一撃は回避ができない。
今度こそ捕らえられて食われてしまう。
このままだと、殺される――。
身を翻した『鼻』が再度接近する。
停止した思考と、恐慌に陥った意思。
傷ついて、さらに『鼻』の打擲で完全に機動力を失った。
逃げられるはずもない。
そんな諦観が、意味もなく己の内から湧いた。
たしかに、レイナルもいない現状ではこの怪物を退けるだけの力はエノクには無い。
このまま、じりじりと食われていくだけ。
絶望が、体を塗りつぶしていく。
脳髄まで、恐怖が浸透していく。
あらゆる感情を圧倒し、思考は己の最後の結果ばかりを演算する。
「結局、死ぬのか」
後ろ向きな感情が、体を縛っていく。
メリーに会うと奮起したばかりなのに、それすら叶わない。
最後に一つ息を吐く。
ふ、と諦観に体からすべての力が抜けた。
体が前へと、崩れていく。
『むああああああ!!』
これに『鼻』も歓喜して動いた。
獲物が死を覚悟し、受け入れた瞬間に飛びつく。
あとは、飲み込むだけ。
エノクは捕食され、『鼻』は欲を満たす。
もう誰にも変えられない。
両者を縛る法も無い中、ここはただの弱肉強食だけが適用された世界。
変えようが無い。
「――――」
変えられないはずの、死の運命。
だが、このとき微かな変化はあった。
エノクは死を受け容れた。
変えられないと諦めた。
それでも。
その程度では生き物の体において最も強い力――生存本能を上回ることなどない。
あの朝の襲撃者のときのように。
レイナルや、自分を支えてくれる者がいない状況下において、エノクの最奥にあるモノが生存本能の指令を受けて喚起される。
助けてくれる人は、誰もいない。
それは、『あのとき』と同じだ。
脳内で白光とともに記憶が再生される。
氷の大地と、その中央に聳える歪で巨大な角を有した何かの頭蓋骨があった。
その周辺には、異形の死骸が散乱する。
頭上は蚊の大群が渦を巻いて飛び交っていた。
氷の裂け目から、人の手が幾本も伸びている。
『は――――』
氷雪に赤い線を引きながら、そこから遠くへ、遠くへと歩こうとする。
蚊の大群は、黒い竜巻のように迫った。
裂け目から伸びた手は赤い線を辿るように追ってくる。
あれは、人ではない物だ。
逃げなくてはならない。
生きなくてはならない。
生に縋ろうと走ると、目の前に巨大な怪物がまた現れた。
退路は無い、眼前には人を飲み込む獣の大きな顎が虚のように開いている。
生きなくちゃ。
生きなくちゃ。
生きなくちゃ。
そのとき、エノクの視界は真っ赤になっていた。
記憶から意識が呼び覚まされる。
夢の中で眠る、という奇怪な状態にあった。
それは一瞬の内だったのかもしれない。
まだ『鼻』は自分に到達していない。
視界は薄く、赤みがかっている。
記憶とともに、自身の最奥にある物が叫んでいた。
――殺して生きろ、と。
「ッ――――!」
エノクの本能が躍動する。
絶望も恐怖も痛みすらもなぎ倒し、体が動いた。
次へ。




