嗅ぎ削る
お詫び
内容を一話、すっ飛ばした物を載せてしまいましたので改善しました。
混乱させたかもしれません、申し訳ありません。
暗い天井から垂れた『鼻』が急接近する。
「どわっ!?」
エノクはその場から飛び退いた。
その直後に、『鼻』はどんと床に叩きつけられる。あと一瞬だけ遅ければ、二つの怪奇な孔に呑み込まれ、狭い空間で咀嚼されていただろう。
この生物は、エノクを捕食するために来ている。
「何なんだよ、おまえ」
『むわぁぁぁぁあ…………!』
「気持ち悪い鳴き方しやが……………ん?」
エノクはそのとき察した。
声が、聞こえる。
他者という存在がいなかったので証明できなかったが、幸か不幸かこの生物と対峙したことで、一つ理解した。
声は、音として伝わっている。
「くっ」
『むぇえあああああ!!』
だから何だと言うのか!
音が聞こえたところで、何も状況は改善しない。
際限無く、『鼻』は伸びる。
太く筋肉の塊であるそれは、だが蛇体さながらに滑らかに、しなやかに機動する。
予想外の俊敏性に、エノクはひたすら体を狙って直進して来る捕食器官を、転がったり潜り抜けたりして躱した。
掠めたローブがたやすく食い破られる。
血が滲んで、指先から垂れて絨毯よりも鮮やかな色合いで足下に赤い点を作る。
背を向けて走った。
肩越しに確認して、その都度回避する。
「くそ、何処まで追って来るんだ」
『むぇあああああ』
不吉な吼を上げてついて来る。
逃げ惑うエノクの視界を、不意に飛び散った血が掠める。
着実に肉を食まれている。
けれど、痛みがまったく無い。
実感もなく削られていく己の体を見て、垂れた血を見てエノクの思考が凍った。
もしかしたら、気づかない内に死んでいるかもしれない。
痛みを損なった肉体と意識の齟齬。
命の瀬戸際に、まるで自分の心臓の鼓動が聞こえていないかのような感覚である。
気付いたら呼吸が止まっている。
気付いたら足が無くなっている。
そんな悍ましい未来の情景が、脳裏に浮かび上がった。
朝の襲撃ですら、傷は負わなかった。
それはレイナルがいたこともある。
そう、またエノクは真に命の危機というものを知らなかった。
まだ『鼻』の猛攻は続く。
いや増す速度にエノクは回避すら苦慮した。
「ッぐ!」
振るわれた『鼻』が避けた後頭部を擦過する。
背後では、壁面が崩れる破砕音がした。
破壊力は充分、さらに速度まで上がるとなればエノクには躱しようが無い。
「えっ?」
おもむろに『鼻』が深く息を吸う。
その吸引力が凄まじく、風を起こして少し離れたエノクの体を引き寄せた。
瞠目して、抗おうと足を踏ん張った。
抵抗できない風力ではない。
現に、エノクはやや上体を引かれる程度で一歩も後退しなかった。
だが、足は止まっている。
走力ではなく、耐久に力が傾いた。
それを狙っていたかのように、『鼻』は吸引を止めるや再び攻撃を繰り出す。
「かはっ!?」
筋肉を鎧う太い荒縄のようなそれが、一切の容赦などなくエノクの胴体を横殴りに払った。




