追われる悪夢
三人は慌てて病室の扉に駆け寄る。
そっと、音を立てないよう注意して開けた。
隙間から見えた通路では、ティアーノの医師が会話をしている。
その傍らの虚空にエノクは浮遊していた。
宙に横倒しになって眠っている。
「間違いない、エノクだ」
「疲労で倒れたのか」
「それならばティアーノ先生だけでも簡単に治せると思います」
アナは、エノクの隣りにいる少女を見る。
足元のレイナルを撫でながら、瑠璃色の瞳でエノクを観察していた。
「あっ、ホタルさん」
「ホタル? あの少女とは知己なのか」
「はい。 我々エルフと、彼女の家は旧くから縁があるので、私も何度か」
「ああ、アイツは…………」
アレイトが顔を険しくさせた。
扉の隙間から顔を戻し、二人を部屋の中へと引っ込ませてから扉を閉める。
小首を傾げる彼女らを睨んだ。
「いいか、あの女には気をつけろ」
「はい?」
「何故だ」
「今は何もしていないが、あれはエノクを害そうとしている」
「……………はい?」
アナが戸惑いの声を上げる。
アレイトはそれだけ言うと扉を開けた。
そのまま躊躇いの無い足取りでティアーノたちへと歩み寄る。足音がするより先に気配を察したホタルが振り返った。
無感動にアレイトを見つめる。
「先生」
「どうかしましたか、アレイト」
「エノクは無事なんですか」
「ええ、少し気疲れを起こして――」
「無事とは言い難いですね」
ティアーノの言葉を遮ってホタルが答える。
アレイトはきっ、と彼女を睨んだ。
「朝から続出している意識不明者と酷似した容態ですので」
「なに?」
「ご存知ないのですか?」
「悪いが朝から気を失っていてな」
「それはお気の毒に」
ティアーノが嘆息する
二人のやり取りは険悪だった。
生徒を不安にさせまいと、今は伝えるべきではないと事実を伏せるつもりだったが、その意をホタルが汲むことはなかった。
否、敢えて伝えたのか。
「先生、意識不明者とは」
「…………朝から聴覚の機能不全を起こし、その後に意識を失うという症状です。 あなた方が襲われた朝の同時期に発生しました」
「我々が、襲われた朝から…………」
遅れて病室を出た二人もその言葉に固まる。
ティアーノはちら、とカスミを見た。――なぜ、寮部屋にいるはずの彼女がここに?
面会時間も過ぎているので見舞はできない。
じー、と半目で見つめる。
カスミもその視線にはっとして苦笑いする。
「エノクは無事なんでしょうか」
「………今は、そうであることを祈りましょう」
ティアーノの言葉に、全員の視線がエノクへと注がれた。
それは、全力の逃避だった。
転倒の危険すら顧みず、ただ前へと疾走する。
エノクの人生でも、これほどの速度が出たことはない。ひたすらに距離を取るため無我夢中ではあった。
それでも、水音は聞こえていた。
夢の中で響き渡る。
むしろ――近付いて来てすらいる。
『ぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃぴちゃ』
「何か、あっちも駆け足気味!?」
間違いなく、エノクを標的に追っている。
足音もないはずの空間でエノクの気配だけを捕捉して追跡しているのだ。
おそらく、声も届いていない。
壁を蹴った音すらしないとなれば、これは『自分が出す音』のすべてが封殺される、つまり声も他者には届かない。
もしかしたら、聴覚が封じられているのは自分だけで、あちらには露呈しているのかもしれない。
そんな思考すら過ぎって、だからこそ対処法が思いつかずただ走り抜ける。
音のしない世界で存在感を放つ。
それが、外界からの刺激を失った状態のエノクには何よりも恐ろしい物として映る。
「くそ、こんなときどうすれば――!」
ぴちゃり、と肩の上に滴が落ちた。
いや、滴というには粘り気があり、頭上から糸を引いて垂れている。黄ばんだそれは、嗅覚が機能していたのなら悶絶するほどの激臭を放っていただろう。
肩の上に温もりは感じない。
ひたり、と落ちる液体の音だけが耳元で存在を訴える。
問題は、そこではない。
そんな物が、頭上から垂れていることこそが怪しい。
「ま、さか」
『むぇああああああ…………』
力の抜けた奇声が降る。
エノクはゆっくりと視線を上げると、天井も見えない闇の中から太く艶のある黒い蛇のような首が伸びていた。
表面に皮膚を押し上げる太い脈が奔り、唾液が垂れる都度にどくりと大きく波打つ。
そして首の終端――エノクの間近まで迫っているそこに、二つの大きな孔がある。
孔の奥側へと列を成した臼歯が並んでいた。
「し、知ってるぞ…………これ。たしか動物図鑑で見た鼻の長くてデカい動物、の鼻…………っぽいな」
エノクはまだ知らない。
まだ文字を読めなかったばかりに、絵だけで心得た動物に関する知識から想起した。
レイナルの正体を知らず、調べるために集落で仕入れの老爺に頼んだ図鑑物を読んでいた故に既視感があったのだ。
俗に言う、象という生き物の発達した長い鼻に外見が酷似した器官であり、しかし外見ばかりでそれは全く別の用途を有したものであるということを。
並んだ牙が何たるかを言葉なく語る。
紛れもなく、この二つの孔は――口なのだ。
『むわぁぁぁああ…………!』
「いや、あれってこんな気色悪く無かったけど!?」
次。




