抑止力
ティアーノは眠りに落ちたエノクを医療棟へと運ぶ。
魔法で浮遊させた体に余計な負荷をかけないよう、細心の注意を払った。
背後ではレイナルが思案げな眼差しを頭上の主人へと投げかけながら歩く。
朝から続出する意識喪失者の初期症状は聴覚が機能しなくなることだった。
エノクはその予兆を確認することができていないので断定はできないが、呼びかけても起きない状態に不穏な予想が脳裏を過ぎった。
ちら、と後ろを顧みる。
レイナルはエノクだけを見つめる。
「貴方の主人は助けますよ」
『ぐるるる』
本棟と医療棟を繋ぐ長い一本道の通路。
ティアーノはふと目の前に人影を認める。
医療棟のある対岸から少女が歩んできた。
肩口に触れない短さの灰色の髪は、中に一房だけ交じる青が混じっている。肌の白さや身にまとうローブまで白く儚、まるで雪結晶の化身のような儚さを感じさせた。
彼女は音もなくランプで足下を照らしながら歩く。
「ホタル」
ティアーノがよびかける。
少女もまた、ティアーノを瑠璃色の瞳で見つけた。
「ティアーノ先生」
「こんばんは、ホタル。 医療棟で何か用事でもあったのですか?」
「睡眠導入剤を」
「睡眠導入剤」
「寝付きが悪いので」
少女ホタルは無表情で返答した。
返答は簡潔で、訥々としている。
感情の機微に乏しい顔も相まって人形めいた立ち居振る舞いだが、しかし少女の美貌もあり、却って美しい人形のようにティアーノの目に映る。
一瞬だけ見惚れて――ティアーノははっとする。
「今は緊急事態、あまり不用意に出歩かないように」
「はい」
「普段から大人しい貴女にこんなことを言うこと自体省くべきなのでしょうが」
「…………?」
ホタルは中空に浮くエノクを見遣る。
「その人は?」
「また意識を失った生徒を発見しましたので、医療棟で診察を行うため運んでいます」
「見ない顔ですね」
「今年から貴女の級友になる、エノク・クロノスタシアです」
「…………」
ホタルは無感動な瞳でエノクを観察する。
それも一瞬で、すぐ興味を失って視線を外すと一礼した。
「では、私は部屋に戻ります」
「ええ、気をつけて」
ホタルはそのまま隣を過ぎる。
音もさせず、体幹が優れているのか真っ直ぐ伸ばした背筋を揺らさずに歩いていく。
「……………」
『ぐるるるっ』
そのまま本棟へと向かっていくはずだったホタルは、しかしレイナルの横で足を止めた。
しばらく無言でレイナルを凝視すると、屈んで撫で始める。嫌がる様子もなくレイナルもその手に身を委ねた。
「それはエノクの飼い犬です」
「魔獣ですが」
「この子は、魔獣を従える力があります」
「――――」
ホタルは微かに目を細めた。
立ち上がるや、方向転換してティアーノの後ろにつく。
「良ければご一緒しても良いですか」
「寮部屋へ戻りなさい」
「…………」
「…………」
ティアーノは嘆息した。
生徒を不用意に連れて回るわけにもいかない。
原因が判明し、それを取り除くまでは寮部屋で待機させることが賢明である。
だが、エノクが眠っている間にレイナルが大人しくしているかが疑問だった。
医療棟には他にも複数人が泊まっている。
いつエノクの制御下を離れたことによる暴走を始め、半年間隔離したときに人を無闇に傷つけたという記録は無いが不安もあった。
医療棟に届けた後、ティアーノはまた巡回に戻らなくてはならない。
「では、しばらく魔獣の面倒を頼めますか」
「はい」
たとえ暴走しても――この子なら大丈夫。
ホタルには、その信頼を預けるに足りた。
何せ、進魔法学科の歴史において最も異端とされる魔法使い。
研究者としての能力も幼いながらに高く、さらに実力としては魔法学園の教員よりも高いという異質な強さを有している。
そして――過去にケティルノースを斃した、あの伝説の家系の出となれば、尚更だった。
「では、お願いしますね」
「はい」
ティアーノの言葉に、ホタルがかすかに微笑んだ。




