遠ざかる現実
寮部屋へとエノクは帰還した。
半ば這うほうの体だったのは、あれだけの一件の後に事情聴取に駆けつけた教師たちの質問攻めに遭ったからだ。
遅れて現れたティアーノが彼らを諌めて聴取を後日に回し、約九日間の休学を発令して生徒を部屋へと戻した。
医療棟を出るまで療養中のアナとアレイトが目を覚ますこともなかった。
ただし、エノクとカスミはその後にティアーノの説教を受け、さらに反省文を書かされた上に彼女の仕事を手伝うという懲罰を受ける。
出自が貴族であろうと平民だろうと平等。
その理念に従ってこそ、また罰の重みも同じだった。
…………何を理由に罰せられたか、は詳細にされていないが。
そんなこともあって現在は夜である。
独りきりの部屋へと入る。
食堂が開いているぎりぎりの時間帯だった。
肩の上ではレイナルが欠伸を掻く。
エノクからは重たいため息しか出なかった。半年前のレイナルの暴走、裁判、そして今回の黒装束による襲撃という命の瀬戸際を体験することになった。
危ういにもほどがある。
如何に前向きに乗り越えていく覚悟ができても、肉体がついて来ない。
エノクはよろりと寝台へ寄った。
「ふへぇ…………死ぬ」
『がうっ』
「嘘、死なないけど凄く疲れた」
エノクは気の抜けた返事を返す。
寝台に倒れかかる――その前に、ぐっと傾く体を足で支えて文机へと方向転換した。
机上にある燭台へと近づき、その下に挟んでいた紙を手に取る。
『気をつけろ。 耳無しには近づくな!』
「これが、燭台の下」
エノクは次にローブの懐中から紙片を取り出す。
襲撃者が泥と化して離脱した後、その場に残されていた物である。
その中にも、短文は書かれていた。
『耳無しに気づかれた。 足音に気をつけろ!』
「また耳無しか」
エノクは嘆息する。
疲弊した思考回路を必死に稼働させた。
前回の燭台の内容から、安直に『耳が欠けている者』を示唆していると考えて頭に留めていた。
そして、今日の医療棟に運び込まれた異常状態の患者たちは聴覚の機能が停止していることで、『耳無し』は人ではなく状態を示していると考えはした。
ところが、また新たな情報でそれは変わる。
「耳無しに気づかれた、か」
耳無しに捕捉されたということ。
それは単体であれ集団であれ、文脈から察するに間違いなく人を指している。ならば変わらず『耳の欠けた者』を警戒する他ない。
そして、この新情報を残したのは襲撃者だった。
関係者ならば間違いなく危険だ。
だが、わざわざエノクに伝えるということに着眼すると違和感がある。
エノクを連れ去ることが目的だった襲撃者が、接近を伝える、危険を報せるメモを残したということは彼らともまた異なる勢力の存在なのかもしれない。
襲撃者とも相容れない立場の敵。
「次から次へと…………」
エノクは頭痛を覚えて椅子に座る。
特別な事情があるとはいえ、およそ十二歳の子供に降りかかる不幸の度合を超えていた。
一生の先にあったはずの不条理が前倒しで課せられているような事態に気が滅入る。
仮に『耳無し』の狙いがエノクだとすれば、襲撃者と競争していることになる。
つまり、注意すべき敵勢力が二つもあるのでより困難になったとも言えた。
「かわいいレイナル拾って育ててもふもふしてただけなのに、メリーや皆と会えないどころか命狙われるなんて…………」
『がうっ』
「うん、何言ってんだろ俺」
脱力して机に突っ伏した。
寝台に行く体力すら残っていない。
重くなる瞼を制止する気力も絞り出せず、頭の深くに暗幕が垂れる感覚に身を委ねて、エノクはそのまま眠ろうとする。
それを肩の上のレイナルが耳を噛んで阻止した。
「あ、そうか。 まだ晩飯たべてないや」
『がうっ』
「食堂がまだ開いてる時間だっけ。 ティアーノ先生って慈悲深い、のかな」
疲労困憊の体に鞭打って立ち上がる。
寮部屋を出て、食堂へと向かった。
誰もいない通路を歩み、独りきりの足音と床が軋りが聞こえる。レギューム中央部が常春とあって常に穏やかな気候だが、今は目が覚めるような冷たさが欲しかった。
体が重い。
自分の足音が――遠く聞こえる。
「あ――」
ぷつん、と糸が切れる音がした。
エノクは力を失ってその場に倒れ込む。
「無理、レイナル…………ごめ…………ん」
起き上がる力もなく、今度こそエノクは眠った。
読んで頂き、誠に有り難うございます。
二章終了。
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