赤い潮騒
「来ましたね、三人目」
やり取りを見守っていた老婆の唇が動く。
「なっ、平民が先だと!?」
「げッ、この声って……」
庭園にこだまする声。
まるでその場の空気を知らなかったその声に、しかしエノクは嫌な予感を覚えて振り向いた。
隧道からずんずんと闊歩して出てくるのは、赤髪と人を見下した感のある紅瞳が特徴の公爵家の跡取り。
的中した予想に、エノクは暗澹とした気持ちで老婆の背中に隠れた。
「来ましたね。アレイト・アルフレディア」
橋を渡ったアレイトが老婆の前まで寄った。
そして、その影に身を潜めるエノクを睨む。
変わらない敵意の目に、不思議と安心感を得てエノクは微笑みを返した。とうぜん、更に強く睨まれた。
「私のクラスで集合可能なのは、あと三人ですか」
老婆が小さく呟いた。
耳敏く聞き咎めたエノク。
集合可能なのは、とは……?
疑念が残りつつも、エノクは改めてこの場にいる人間をあらためる。相変わらず快活なカスミ、相変わらず癇に触るアレイト。
かなり破滅的な面子だ。
自尊心の業火を燃やすアレイトと、無自覚に火に油を注ぐカスミ。
爆弾と着火材が揃ってしまった。
これ以上の不安要素が加わらないことを祈って、エノクは胸前で小さく合掌した。
「来ました、四人目」
ばっ、と一同が振り返る。
隧道から来たのは、短い金髪の少女だった。ローブの袖をベルトで絞っている。どこかざっくばらんとした印象を受ける。
いや、それよりも。
エノクが気になったのは、鋭角を作る長い両耳だった。初めて見る耳の形である。
緑の瞳は、人懐っこそうに待機している老婆たちを映していた。
小走りで駆けて、橋の上で止まると腰を直角に曲げて一礼した。
「アナ・マテリオートです。以後お見知りおきを」
アナ・マテリオートが微笑んだ。
すると、アレイトが小さく呟いた。
「まさか、エルフがいるのか……」
エルフ。
その初めて聞く単語に、エノクは思わず質問を投げかけそうになって――舌なめずりしているアレイトの気味の悪さに口を閉じた。
下卑た下心の気配がする。
「何だか気色悪いな」
「黙ってろ平民、罰されたいのか?」
「罰せられるのは、そなただろう」
「この……ッ」
アレイトがカスミ飛びかかろうとした。
その寸前、老婆が軽やかに杖を腰から抜いて手中で回す。小さくふるわれた杖先から淡い光の粒が虚空に散った。
すると、アレイトはその場に膝を屈した。
磁磚の上に頭を垂れて驚いている。自分に何が起きたのかを把握していない顔だった。
「ここは魔法を学ぶ場です。つまらぬ諍いは許されません」
エノクは瞬時に理解した。――魔法だ!
また隧道と同じ催眠の類いだろうか。
「き、貴様……公爵家に無礼を働くか!」
「学園内では身分など瑣末なこと。これからの身の振り方を弁えなさい」
老婆の冷たい声に、反抗的に見上げていたアレイトの顔が凍りつく。
魔法が解けて立ち上がった後も、悔しげに地面を見下ろしている。
そんなアレイトを尻目に、続く五人目と六人目が挙って隧道の暗中から飛び出した。
エノクはまたも嫌気がして顔を逸らす。
それは、アレイトの両脇を固めた子分の貴族二人だったからだ。
「キュゼ・クライマンです」
梳いた長い茶髪を靡かせる少年。
眼鏡の奥で伶俐に光る鳶色の眼差しは、しかし奥に根強くある貴族としての誇りが宿っていた。
エノクを見咎めるや、その眉根を寄せている。
「リード・ブライナルです」
体格が大きい、といえば聞こえはよく、やや肥やした巨体に制服を詰めた少年。こちらは顕著で、老婆も含めたアレイト以外の面子に冷たい笑顔を浮かべていた。
「あれは運動した方が良いのでは?」
「カスミ、口閉じて」
また喧嘩の種を撒くようなカスミの言動に、エノクの心臓が大きく跳ねる。
アレイトから依然として敵意の目。
エノクは自分の行いの他に、カスミの行動で退学を予感した。
リードとキュゼも橋を渡って合流する。
全員を見回した老婆は、嘆息混じりに手を叩く。
「全員集合ですね。……はあ、やはり、あの二人は来ないか」
愚痴のような語調で老婆が呟く。
「では、教室へ案内しますね」
老婆が庭園の奥へと進み出す。
全員がその後ろを従いていった。先頭を歩くのはアレイトと子分三人、そしてアナ、エノクによって押されるカスミと続いた。
カスミの扱いに難儀しながらもエノクも庭を去ろうとしていると。
奇妙な音を聞いた。
地鳴りのような、水音のような、どこか懐かしさを覚える音だった。
これは、知っている。なんだったか……。
「潮騒……こんな内陸で?」
エノクは周囲を見回す。
庭園の石段の上に、誰かが座っていた。
赤い髪の少女である。宙に垂らした足を左右交互に振って、空を紫紺の目で見上げている。
綺麗な横顔に我を忘れて見入っていると、彼女が振り向いてエノクに手を振った。
「早く行かないと遅れるよ」
少女がそう言った。
はっとエノクは我に返る。
少女に慌てて一礼しつつ、先に進んでいた老婆たちを追った。
実はヒロイン……?