集合場所
自ら五感を封じた力走。
もはや暴挙にすら近かった。
しかし、感覚を狂わせる隧道の罠に対しては有効だった。
延々と続くはずだった隧道の闇が晴れる。
エノクの肌に、温かい陽光の日が当たった。
爪先に草を払う感触を得て、ようやく驀進を止める。急激な運動で加速する呼吸と心臓を落ち着かせ、ゆっくりと瞼を開いた。
「おめでとう、エノク・クロノスタシア」
種類さまざまな花が咲く庭園。
張り巡らされた水路を跨ぐ橋の上だった。
エノクは隧道を抜けたのだと安堵して、声の主の方に顔を巡らせる。
橋の先にある磁磚張りの中庭に、しっかりと背筋を伸ばして直立する老婆がいた。
ベルソートと同じ円錐状の頭と広い鍔をした帽子、袖や裾はドレスのように膨らんでいるが絞められた腕や腹回りは細かった。
彼と異なるのは、腰に差している杖が短いことだけ。
顔には加齢の進んだ皺を深く刻み、鼻の頭にかけられた眼鏡の奥では爛々と精気のある眼が光っている。
穏やかなベルソートとは対照的な存在感だった。
「ここが集合場所です」
「そうなんですか」
「あなたが最初に来ると予想していました」
「そ、そんな」
慮外の高評価にエノクが手を振って否定しようとした。――が、その後に眇められた老婆の目がまるで品定めをするように厭らしく光る。
「あの老爺が見込んだだけはあります」
「あ……なるほど」
エノクの手が止まった。
納得すると声が萎んでいく。
老婆から受ける雰囲気は、この数日で慣れた敵意の臭いだった。貴族令息よりは賢しく探ろうとしているが、腹の底では賎しいと断定している。
そういう目だった。
それがエノクにはひどく残念に思われた。
魔法学園の先生は、物事を外だけに捉われず、内まで見てくれる人なのだと。勝手に期待していたとはいえ、少し失望した。
また、この老婆の敵愾心はエノクに留まらない。
エノクの授かった家名を介して、ベルソートまで及んでいる。あるいは、ベルソートが先であり、彼と禍根があるのかもしれない。
だからこそか。
エノクも老婆に苛立った。
目の前の少年から屈託を見取り、老婆もまた蔑むような眼差し。
言葉で謗らないだけ、幾ばくか教師として守るべき態があったからだ。
「あの老爺、ようやく後継者を見つけたのですね」
「……?」
「あら、『時空魔法』の継承者ではないと?」
エノクは何事かわからず首を傾げた。
その反応だけで読み取った老婆は、会話を中断するように隧道へと視線を移す。
「おや、来ましたね二人目」
エノクも言われて後ろを顧みる。
老婆が言ってから少しの間が空き、隧道の闇から踏み出す影をみとめた。
庭園の磁磚を踏む足音がし、陽光が照らす場所に出てくる。
黒髪の麗人――カスミだった。
「……おお、エノク!」
「よかった」
エノクはほっと胸を撫で下ろす。
険悪な老婆との会話を途切れたのもそうだが、最初に味方が来たので安心感が募った。
「試験のときは世話になった」
「俺も勇気づけられたよ」
「不安だった私を助けてくれた。忝ない」
「か……かた、かたづけ?」
「ふっ」
老婆の含み笑いが聞こえた。
エノクはくっ、と歯噛みして赤くなる。
聞き直しそうになったのは、おそらく謝意を述べた故国風の言葉なのだろう。……浅学を知られた。
対抗心を燃やしていただけに恥ずかしい。
カスミは楽しそうに笑う。
異国の装束ではなく、学生服に身を包んでいる。ローブで隠れた腰元から、見たことのない拵えの剣が覗く。
エノクが制服全体を観察していると、カスミは自慢気に胸を張った。
「どうだ、似合ってるだろう!」
「ん?ああ、そうだな」
エノクは苦笑する。
黒髪の時点で目立つのは変わらないが、試験の時と同じ場違いな雰囲気にはならない。制服が同じなだけでも随分と違った。
「髪も染めようかと悩んだが……」
「やめときなよ、カスミの髪は綺麗なんだから」
エノクは思わず首を振って否定する。
すると、カスミがやや面食らって目を見開き、老婆が青い瞳をかすかに動揺させる。
その反応に、自身の発言が失礼だったかとうろたえて、エノクは二人を交互に見た。
「ごめん、何か嫌なことを……」
「いや、何というか……エノクは素直だな!」
「まさか、言葉を慎めって言ってる!?」
少し頬を赤らめて破顔するカスミ。
エノクは誤解して、カスミに怒られたかと心の中で悲嘆していた。
女性への礼儀などは知らない。メリーと両親以外は、ほとんど漁師としか繋がりがなかったからだ。
「昨日聞いたが、これからここで私は勉学に励まなければいけないらしい」
「その情報は昨日なのか」
カスミが身を翻して手を差し出す。
「よろしくな!エノク」
「お、おう……よろしぐ……!」
「な、なぜ泣く?」
エノクは思わず感涙で咽び泣く。
敵地のようだった学院で幸先がよく友人ができたことが予想以上に嬉しかったのだ。
カスミが窘めるようにエノクの背中を擦る。
ふと、彼女の黒曜の瞳がレイナルを映した。
「その魔物……」
「ああ、レイナル。俺の家族だ」
「家族……魔物が、か?」
エノクは魔獣を『魔物』と呼ぶのは、彼女の国の風土であると察して答える。
「実は、俺は魔獣を従える力があるらしくて」
「害は無いんだな?」
「うん」
警戒して見るカスミの険相。
エノクは当然の反応に苦笑した。
少しして、カスミがゆっくりと手を伸ばす。
「な、撫でられるのか?」
「大丈夫。……レイナル、噛むなよ」
エノクが先んじて注意する。
肩の上のエノクが不満げに鳴いた。
恐るおそる伸ばしたカスミの手が頭に触れても、噛みつこうとしなかった。少しずつ撫でる手つきから警戒が消えていく。
「この手触り……中々に面妖だな」
「そうか」
「こうして穏やかに触れられるとは」
「そうなの?」
カスミが頷いた。
その表情は、心なしか深刻そうだった。
次。