評議会
シオンは目を擦り、大きく上へ伸びた。日は地平線から昇ったばかりで室内はやや薄暗い。鏡の前でくるりと回り、用意された着替えを眺めた。使用人に慣れないコルセットからブーツまで着せてもらったは良いものの、今度は1人で脱げるだろうか。日常生活にまで支障をきたす記憶の欠如は、実に困ったものだ。
最後にペンダントと古びた地図を隠して部屋を出る。
部屋の外には、すでにアーネスが待っていた。彼女と短く挨拶を交わし、早々に2人で玄関へと向かう。彼女はこの肌寒い中でもショートパンツを履いていた。
「早朝からすまないね、シオン」
「いえ……。むしろ、ベッドから着替え、朝ごはんまで用意していただいて、感謝しか……」
「僕にはこれくらいしか、君にしてあげられないからね」
自嘲気味にアーネスは笑った。
外では冴え冴えとした空気に包まれ、一台の馬車が待機している。スフェノスと乗った荷車とは大違いだ。繋げられている4頭の馬も一回りは大きく、地面に生えている芽を大人しく食んでいた。
真っ黒な馬車をシオンがしげしげと眺めていると、馬車の扉が1人でに開く。アーネスに譲られ馬車へ乗り込むと、待っていたローズにじとりと睨まれた。
「遅いですわよ。フルゴラ様や元老院の方々を待たせる気ですの?」
「待ち合わせは日が暮れてからだし、君が僕の馬車に乗る必要もないはずだよ、ローズ」
シオンはローズの向かいに、肩を竦めたアーネスも彼女の隣へと腰を下ろした。
ローズは昨日とまた違う、赤いドレスを身にまとっている。今日は巻き毛を止めている髪飾りまでも赤い。黒い馬車の中で、彼女の周りだけが華やかだ。
「あなたが変な気を起こさぬよう、見張りが必要でしょう」
「いくら僕でも、フルゴラを敵に回すようなマネはしないさ」
扉が閉まり、窓から見える景色が流れ出した。蹄の音は次第に早まる。
窓の外ではうっすらと朝もやが広がっており、静けさが耳うつ。馬車の中は不思議と温かく、先ほどの肌寒さが嘘のようだ。
「どこへ向かっているんですか?」
「リブラとシュティアの国境にある魔術師の集会場だ」
「あんまり良いお話しではなさそうですね……」
「すまない……。昨夜、この件は任せて欲しいと頼んでみたけれど、僕の力不足で……」
「どこぞの小娘と、スフェノス石が仮契約を交わしたままなのです。今さら魔術師協会が手を引くはずがございませんわ」
「…………」
シオンはぐっと言葉を呑み込み、アーネスに向きなおる。
「その、傾玉との契約って、具体的にどういうことを……?」
「契約の儀だけに関して言えば、そう特別な儀式は不要だ。互いの了承が得られているのなら、口頭だけの契りでも問題ない。主従の契りを交わし、魔力の供給さえ行っていれば、彼らは基本的に従ってくれる。ただ、僕の所感だと君はスフェノスとまだ本格的な契約を交わしていない様子だ。だから仮契約と呼ばれる、命令で彼らを従わせる前段階の状態じゃないかな」
アーネスは手を伸ばし、馬車のカーテンを閉めた。薄暗くなった中で、アーネスの胸に光るブローチが輝いて見える。
「基本的には……? 断られることが……?」
「そこが傾玉と、一般的な使い魔との違いだ。彼らは何でも首を縦に振ってくれる下位の使い魔と違って、あの通り。強い自我と、自分で思考し、行動できるだけの力が備わっている。そこが傾玉の強みでもあり、欠点でもあるけどね」
アーネスは足を組んでため息をつく。ちらりと、視線を己の胸元で輝いている胸飾りへと落とした。歯切れが悪く、語尾に進むにつれ声が小さくなる。
「まあ、例えば……僕の保有するジェドネフ。彼は最初期に創られた傾玉の一つで……。作者であり、最初の保有者であるシュティア公は、建世の魔術師たちの中でも特に優れていたとされている魔術師だ。性能面も、現存する傾玉でも最高位だと、言うことに、なっている……」
「あんまり、嬉しそうじゃないですけど……」
「実際問題……。従者なんて名ばかりだ……。従者、様って感じかな……。少なくとも、僕の常識にある従者は、主である僕のことを『ちんちくりん』とは呼ばないし、僕の客人を勝手に門前払いしないし、僕の書いた報告書を勝手に書き換えたりしないし……。うるさいぞ、ジェドネフ。僕は事実を言っているだけじゃないか」
「意外に大人げない……」
シオンは昨夜のジェドネフの様子を思い起こしてみる。皮肉は口にしても、そんなことをする男には見えなかったのだが、彼らも人間と同じく見かけにはよらないようだ。実際にスフェノスも美しい容姿や柔らかな物腰と裏腹、過激な行動も取っていた。人間ではないと聞けば聞くほど疑わしい。
アーネスは見えないジェドネフに向かい、何やら文句を連ねている。それを見ていたローズが鼻で笑い、なぜか胸を張る。
「傾玉に侮られるあなたに非があるのですわ、アーネス。私のようにしっかりと手綱を握っていれば、そのような無様など有り得ません」
「その程度の理由だったなら、むしろ喜ばしいくらいだ……」
アーネスのぼやきが僅かにシオンの耳に届いた。
「ジェドネフは俗に言う、強い傾玉の分類だ。優れた魔術師にはこれ以上ない、信頼できる相棒になる。裏を返せば、僕みたいな若輩の魔術師が無理に扱うと、こうして、彼らのいい玩具にされてしまう。傾玉の意思を一切無視した契約、命令を行使しようものなら、彼らも黙ってはいない。主従の契りを交わした後であっても、死なば諸とも、なんて十分あり得る話しさ。だから、シオンのように傾玉から契約を申し込まれるのが、魔術師としても、彼らとしても理想の形だよ」
「傾玉はどうしても、主がいないと消えてしまうんですか?」
「ああ。主の不在が続けば、傾玉は実体化のための特別な魔力が生成できず、枯渇して消えてしまうらしい。彼らは一度消えると完全に消滅してしまう。だから、傾玉を管理している僕ら、魔術師としては嫌でも主を選んで貰いたい。でも、野心に燃えている人間の手に渡りでもして、千年前の大戦時代に戻りでもしたら、笑いごとでは済まされない」
アーネスは言葉を切り、背もたれに体重を預けた。声にため息が混じっている。
「そう言った最悪の事態を避けるためにも、契約主の選抜は慎重に。と言うのが、魔術師協会の建て前だ。本音は、自分が傾玉の主になりたいだけのじい様も、少なくない。ここが、僕としては情けない話しでね……」
「ええ、全く。身のほどをわきまえない欲深な輩を、同胞とは思いたくありませんわ」
「彼らも君だけには言われたくないだろうな……」
アーネスのローズを見る目は冷ややかだ。思うところがあるらしい。
シオンは頭を悩ませていた。疑問がひとつ解決したところで、また次の疑問が出てくる。
「例え、その契約を結んだとして……。私は魔術師じゃないのに、スフェノスは大丈夫なんですか……?」
「彼らが実体化できているのは、特別な術式によるものらしくて、それに必要な魔力は、契約主との『繋がり』だと言われている。これによって、契約主の魔力の保有量は、そこまで重要にならないと聞いている」
「繋がり?」
「そう……。とても興味深い術式だ。主との『繋がり』を魔力に変換して、彼らは生物を模した体を得ているらしい」
アーネスは口元を緩めて頷いた。向かいでローズも彼女へ同意を示している。
「傾玉の作り手であられた『建世の魔術師』たちは便宜上、魔術師の括りですが、実際はさらにその上。魔法使い、奇跡使いと呼ばれた、神代の血を引く方々です。私たちでは考えの及ばぬ領域に至っての施しなのでしょう」
「おかげでこれまでにも、君と同じ。魔術師でない人間が契約主に選ばれた時代も、なくはない。けれどね……」
アーネスは明るかった表情に影を落とす。
「先も言った通り。傾玉との契約はその主に大きな力をもたらす。魔術師だけじゃない。様々な人間が、喉から手が出るほど欲しい代物なんだ。どんな手を使ってもね。だから、自分の身が守れない一般人が傾玉と契約を交わしてしまうと、それまで通りの生活は、まず諦めないといけない」
アーネスの言わんとするところを察し、シオンは生唾を呑んだ。彼女の懸念を汲み取れないほど鈍感ではなかった。それくらい逞しい精神であれば、気は楽だったのだろうが。
ローズの冷ややかな視線も、それ故なのだろう。しかし、その後に続くアーネスの声音は和らいでいた。
「これから行く場所で、君は似たような脅しを、飽きるほど聞かされるだろう。そして、それらは脅しでは終わらない。僕からも推奨できる選択肢ではない。それでも、スフェノスの願いを君が受け入れると言うのなら、僕は君を応援するよ。傾玉に選ばれてしまった大変さは、僕も知っているからね」
「……アーネスさんは、ジェドネフさんに選ばれたんですか?」
「あー……語弊があったな……。僕の場合、選ばれたとは、また違うから……」
アーネスの笑みがぎこちなくなる。彼女は咳払いをし、足を組み直した。
「何はともあれ、選ぶのは君だ、シオン。記憶のない君に決断を迫るのは、卑怯だと思うけどね」
「まだこの娘が記憶喪失だと決まったわけではありませんわ」
「君はまだシオンを疑っているのか、ローズ……」
アーネスのため息に、ローズはむ、と口をへの字に曲げた。2人はシオンを差し置いて口論を始める。口を挟めそうにもないシオンはカーテンを少しだけ開けて外を眺めた。
朝もやは晴れ、日差しが大地に降り注いでいる。馬車の周囲は深い森に代わっていた。背の高い木々が生い茂り、一本道を進んで行く。果ての見えない道の先を見つめ、シオンは無意識に胸元の冷たい感触へ触れていた。
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馬車に乗っていた時間は長かったが、昨日の腰の痛みはない。柔らかな椅子のおかげだろうか。こうも快適なら何度乗っても悪くはない。
アーネスが懐中時計を取り出すと、針は昼過ぎを差している。
「途中でもう少し休んでも余裕だったな。いつもの癖で早く着き過ぎてしまった」
「早いに越したことはありませんわ。毎回、手続きに妙な時間をかけられますもの……」
「仕方ない。協会の本拠地ではないにしても、危ない代物が山ほどあるからね」
アーネスとローズが一足先に馬車の外へ下りる。窓から見えるのは、屋敷と言うよりも宮殿。ここからでは全貌が見えないほどの広さだ。正面の入口には大きな白い彫刻がそびえている。周囲には人影が等間隔で並んでおり、目深にローブを被った彼らは微動だにしない。
続いてシオンが馬車から下りようとすると、アーネスが彼女を手で制す。
「悪いけど、シオンは協会の人間ではないから、僕が迎えにくるまで中で待っていてくれ。手続きはすぐそこでしているから、大事があったら、遠慮せずに大声で僕を呼んでほしい」
「わかりました……」
シオンは元の位置へ大人しく座り直す。扉が閉ざされる。一人となると、やはり心細い。ローズの声すら恋しく思えた。広くなった椅子の上で、彼女は目を閉じる。
成り行きに従って、ここまで来てしまった。この先、自分は無事に帰れるのだろうか。とは言っても、帰る先に宛ても無い。アーネスは応援すると言ってくれたが、彼女の言葉を全て信じて良いものかも定かではない。だが、シオンには彼女が嘘をついているとは思えなかった。このまま、彼女の元でスフェノスを待ち続けるべきなのだろうか。
ため息はいくつ吐き出しても切りが無かった。
「疲れているのかい?」
「!!」
驚いて開いた口が慌てて塞がれる。彼はシオンの口を押え、人差し指を口元へ立てた。
「僕だよ、シオン」
「……もう少し、私の心臓にも配慮してくれると嬉しいです」
「ご、ごめん……。次から気を付けるから……」
スフェノスはゆっくりと手を放した。シオンはとりあえず胸を撫で下ろす。
カーテンの端をめくり、外の様子を窺う。等間隔に並ぶ人影は相変わらず直立不動を続けていた。
隣へ腰を下ろした彼は、別れた時と何ら変わりない。
「どうして……どうやってここに?」
「もちろん。君を迎えに来たんだよ」
スフェノスは微笑み、シオンの手を取る。手の冷たさも、相変わらずだ。
「あの魔術師たちから、くだらない話しは聞かされたね? このままだと彼らの思う壺だ。今の内に、彼らの手の届かない場所まで行こう」
「……でも、それじゃあ、本当に悪いことをしたみたいです」
「君に罪が有ろうと無かろうと、彼らはどうでもいいんだ。肝心なのは、僕を手籠めに取ることであってね。そんな野蛮な連中と、まともに取り合っても意味がない」
「理由を、教えて下さい」
シオンはスフェノスの手を解く。わずかに、スフェノスの眉が持ち上がる。
「どうしてあなたは、私が良いんですか……?」
「君が主であって欲しいと思ったからだよ」
「私は魔術師じゃないんでしょう?」
「そうだね。でも、それは僕には関係ないことだ」
「ねぇ、スフェノス……」
スフェノスの笑みは変わらない。シオンはため息をついた。その微笑みには見覚えがある。ジェドネフの言葉を思い出し、シオンは視界に彼の碧眼を入れぬよう、うつむく。
「とても、感謝しています……。助けてくれたのは事実だし、あなたは私にとても親切にしてくれる。でも、隠し事ばかりされては、力になれません……」
「シオン」
穏やかな声は小さく、静かに諭す。
「君は優しい。優しい君が、僕も好きだ。でも、僕を気遣う必要はない。僕は君のモノであって、君のために使うモノなんだ」
「そんなこと、私にはとても……」
冷たい手の平が頬を撫でる。途端に体が動かなくなり、シオンは息を呑んだ。2本の腕が体を包んでいく。
「優しい君が、また彼らのくだらない争いに巻き込まれて、危ない目に遭うのは我慢がならない。僕の力がまだある内に、彼らの手が届かない、遠くへ逃れてほしい」
「それじゃあ、何の解決にもなりません。私は何も知らないままだし、スフェノスはあの人たちに追われ続けるんでしょう……?」
「何も知らないままでいい。君の求める真実なんて毒にしかならない」
「スフェノス……!」
引いても、押しても、力が入らない。スフェノスに抱えられて、シオンは馬車の外へと出た。冷や汗が背筋を伝う。先ほどまでいたはずの人影が見当たらない。
周囲に風が巻き上がり、スフェノスの体が浮かび上がる。増していく浮遊感に、シオンは声を張り上げた。
「アーネスさんは力になるって言ってくれています……! 私は、あの人ともう少し話してから、この先のことを決めたいです……!」
「魔術師は約束を守らない生き物だよ、シオン」
唇に長い指があてられ、声まで出なくなってしまった。
さすがのシオンもふつふつと怒りが湧く。この男は、始めから自分の話しを聞く気がないのだ。
睨みつけて抗議するシオンに、スフェノスは苦笑を浮かべている。
「あんな連中、二度と関わらない方が、君は幸せだ」
「それを決めるのはお前じゃねぇだろ」
「っ……!」
息を詰めるスフェノス。シオンの耳にも届いた、ため息交じりの声は気だるげだ。
シオンの視界に深碧の瞳が浮かんでいた。大きな手に腕を引かれて、シオンの体が宙に漂う。
「シオン……!」
スフェノスはシオンへ手を伸ばした。必死に伸ばされたその手を、ためらったシオンが取ることはなかった。それでも彼はシオンの手を追いかける。その体を、地上から放たれた一筋の閃光が貫いた。