出立
男は茫然と自身の腕を眺めている。男の腕は、あらぬ方へ曲がっていた。もっと言えば捻じれている。絞られた雑巾の様に。肘から先が反対を向いていた。
一瞬の静寂の後。男の悲鳴が通りに響く。男は折れ曲がった腕を押さえてうずくまった。痛みを訴え、状況が理解できず支離滅裂に喚いている。
何が起きているのかサッパリ分からないのはシオンも同じだ。額から冷や汗が噴き出す。シオンだけではない。それまで威勢の良かった男たちは声を引きつらせた。
「あ、あんた、まさか魔術師……!」
「あんな品位のない連中と、一緒にしないでほしい。君たちはつくづく無礼だな」
物腰は相も変わらず、柔らかだった。もう一度、スフェノスは空を撫でた。すると、後退りしていた男たちの顔から、瞬く間に血の気が失せる。喉を押さえ、次々とその場に崩れていった。
腕を抱えて喚く男を通り過ぎ、先ほど詰め寄ってきた男の手前で、スフェノスは足を止める。
「あと30も数える間に、君たちは呼吸が出来ずに、意識を失う」
むせ返る男たちを見下ろし、彼は静かに微笑んだ。
「僕の主へ、誠意ある謝罪が出来た者から許してあげよう。できないようなら、そのまま死ぬといい」
最後の一言で、ようやく我に返った。
シオンは慌ててスフェノスの腕を引く。
「ま、待って下さい……!」
「え……? だけど……」
「そこまでしなくても、良いですから……」
「……君がそう言うのなら」
スフェノスは渋々、仕方なく。見えない何かを払った。
ひゅう、と。深く息を吸い込む音がいくつも重なる。1人がもつれる足で逃げ出した。2人、3人と。つられて細い路地へと逃げ込んでいく。最後に悪態をついて、腕を抱えた男の背が、曲がり角に消えた。
気まずい空気は、ほんのひと時の間。次にはのどかな喧騒が戻っていく。先ほどまで足を止めていた人々は我関せずと、足早にその場から立ち去る。
シオンの手には冷や汗が浮かんでいた。
「シオン?」
スフェノスの腕を掴み、彼女は大股で歩き出す。肌寒いせいだろうか。掴んだ手首からは体温が感じられなかった。
名を呼ぶ声も振り払い、黙々と歩く。宿にたどり着く頃には、夕暮れが星空へと装いを変えていた。
宿の食堂には酒気が漂い、昼時以上の活気が籠っている。賑やかな食堂を横目に抜け、シオンは階段を上がり、廊下を進み、部屋の扉へ手をかけた。
部屋の扉を閉ざすと、月明りで辛うじてスフェノスの表情が伺える。今だけは、絶えない微笑みが薄気味悪く感じた。彼は首を傾げ、シオンへ問いかける。
「怒っている?」
「怒っては、いませんけど……」
「何かいけなかった……?」
「いけない、と言うか……」
彼は目を伏せた。薄暗がりでも、彼の碧眼は光を孕んで煌めいている。
シオンは一息おいて、深呼吸を繰り返した。つい、見入ってしまいそうになる。
スフェノスの返答は冷ややかだ。
「ああいう輩は、痛い目をみないと、何度も繰り返す。君が心を痛める価値は無い」
「でも、あそこまでする必要はない、と思います……。あなたが人殺しになってしまったら、大変だし……」
助けて貰った身で、このようなことを言うのは心苦しい。けれども、止めずには、言わずにはいられなかった。元来、そのような性分なのかもしれない。
言葉を濁すシオンに、スフェノスは目を瞬いている。
「僕を心配してくれているの?」
「だって、スフェノスは私を助けてくれて……」
言葉はそこまで吐き出されて、残りは喉で詰まった。2本の腕に引き寄せられ、胸に顔が埋まってしまっている。
この部屋で目覚めてから、驚くことばかりだ。
長い沈黙が続き、時間の進みも分からない。
「今度から、気を付けるよ……」
今にも消えそうなか細い声だった。その声には聞き覚えがある。失くした記憶の一部だろうか。
反応に、困ってしまう。
「夕食を貰ってくるから、シオンはこの部屋で待っていて」
口を挟む暇もなく、彼はシオンを残して部屋を出て行った。生憎と、前髪で表情は見えない。シオンは喉に詰まっていた言葉を、ため息へと変える。
一人残された暗い部屋の中を、月明りを頼りに歩いた。テーブルへたどり着くと、中央にランプが置いてある。が、火をつけるものは見当たらない。
シオンは重力に身を任せ、椅子へ腰を下ろした。窓の外には雲が一つもないようで、月明りは絶えず部屋を照らしている。テーブルへつっぷすと、どっと疲れが全身を巡った。
そう、自分は病み上がりではなかったか。
今さらそんなことを思い出したシオンは、重くなる瞼に従い、瞳を閉ざした。
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「すいません。何から何まで、お言葉に甘えてしまって」
「なに言ってんだい。お題なら十分過ぎるほど、彼にいただいてるよ」
何度も頭を下げるシオンの背を、女将が気さくに叩く。
翌朝も雲一つない快晴。目覚めもよく、用意されていた朝食もするりと収まった。
「昨日の夕食も、せっかく用意してもらったのに……」
「お連れさんが代わりに食べてくれたから、なぁんも問題ないって言ったでしょう? それより、この先そんな調子で大丈夫なのかい?」
女将の心配は最もである。シオンがぎこちなく入口を見ると、スフェノスが荷物を纏めて手を振っている。
「た、たぶん……大丈夫です……」
「アルデランに行けば、腕のいい魔術師や医者もたくさんいるからね。どうしても治らないようだったら、早めに診て貰うんだよ」
「はい。ありがとうございます」
「良いヒトが一緒なんだから、寄り道もほどほどにね」
「お、お世話になりました……」
にんまりと笑う女将。シオンは頭を下げ、そそくさと宿を後にした。
「顔が赤いけれど、大丈夫かい?」
「何でもないです……」
「?」
自然、顔を背けてしまう。足早に進むシオンの横を、スフェノスが歩調を合わせて歩く。荷物を全て持たせては悪いと思ったのだが、彼はやんわりと。しかし断固として、シオンに荷物を持たせてはくれなかった。
日差しが程よく体を包み、風は穏やかに頬を撫でる。町の入口では荷車や馬に荷物を積んだ人々が溜まっていた。馬や荷車には、どれも同じ。緑の地に、金の雄牛の紋章が施された装飾品がつけられている。何かの印だろうか。
あちらこちらへ目を奪われるシオンの手を引き、スフェノスは一台の馬車へ声をかける。馬車には親子と思わしき男女が、出立の準備を整えている最中だった。その内、娘と見られる女はスフェノスが視界に入るや否や顔を輝かせる。
「すいません、お嬢さん。お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ。こちらも終わったところよ。あなたのおかげで、馬たちも嘘みたいに元気になったわ」
「それは良かった。お父上も、お言葉に甘えさせていただき、感謝します」
「馬の具合を治してくれたんだ。お互いさまさ」
「荷台を開けておいたから、適当な所へ乗ってちょうだい」
馬を撫でていた娘がスフェノスに駆け寄り、荷台へと導く。
首を傾げるシオンへ、スフェノスはそっと耳打ちをする。
「ちょうど彼らが目的地の脇を通ると話していたからね。具合の悪そうな馬の調子を看てあげたんだ」
「魔法で治してあげたんですか?」
「そんな大層なものじゃないよ。半分は、彼女がお父上に口をきいてくれたおかげかな」
スフェノスは微笑み、口元へ指を立てる。
女はスカートの裾を翻す。荷台の天幕をあげ、嬉しそうにスフェノスの手を取った。とっさにスフェノスから手を放したシオンは、彼女の視界にすら入っていないらしい。
「狭いけれど、大丈夫かしら」
「十分だ。お気づかいありがとう」
「何かあったら声をかけて。私も父も、前にいるから」
「助かるよ。短い間だけれど、よろしく」
「ええ。それじゃあ出発しましょう」
名残惜しそうにスフェノスの手を放し、彼女は馬の元へと戻っていった。足並みも軽く、実にご機嫌だ。スフェノスは先に荷台へ上がり、荷物が入った皮の鞄を隅へ置く。
「アルデアランまで歩くと、シオンが大変だと思ってね。君が起きる前に足を探しておいたんだ」
おもむろにハンカチを取り出し、スフェノスは自身の手をハンカチで拭う。なぜ、とは。触れない方が賢明だろう。シオンは黙って荷台に足をかけた。
差し出されたスフェノスの手に引かれ、荷台へ上がる。天幕で覆われた荷台の中には木箱や藁が積まれている。ここにもやはり、雄牛の紋章が入った布が被せられていた。
座り心地が良い藁の上に2人で腰を下ろす。鞭が馬を打ち、馬車が揺れ始めた。
天幕の隙間から、町並みが遠ざかっていく。
「これから向かうのはアルデラン。シュティア国の首都だよ」
「ここから、どれくらいあるんですか?」
「馬車なら、半日もしない内に着くかな。今日は天気も良いしね」
スフェノスは微笑んでいる。シオンは相槌を返し、思い出す。
昨夜は睡魔に負けてしまい、話しを途中でうやむやにしてしまった。けれど、何と切り出していいものか。
横目でスフェノスを盗み見ると、天幕の間から小鳥が入ってきた。鳥は彼の差し出した指に止まり、彼を真似ているのか、同じ方向に小首を傾げる。たまにさえずり、羽ばたいた。会話をしているようにも見える。実際にそうだとしても、もう驚きはしない。
これから先、失った記憶がいつ戻るかは、彼にも分からないそうだ。シオンの身の上や、彼自身のこと。スフェノスはまだ、全てを話してくれてはいない。一から消えてしまった他人の記憶を埋めていく作業は、我ながら考えただけでも気が遠くなる。ひとつ、ふたつ、忘れてしまっていたとしても、彼を責める気にはなれない。
もしくは、意図的に彼が黙している。とは、あまり考えたくはなかった。
ぼうっと。シオンは地平線まで続く丘を眺める。道の両脇には緑の稲穂が垂れ、風に遊ばれていた。
「広い畑と、畑、ですね……」
「農業と牧畜が主な産業の地域だからね。とても良い土地だ」
彼への同意なのか。小鳥が可愛らしいさえずりを返す。
藁や荷物を積み上げた荷馬車と何度かすれ違う。時おり、地面の凹凸にはまって荷台が大きく揺れた。馬の蹄が、一定の感覚で小気味良い音を立てる。
風と蹄の音に揺られながら、青空の下。流れていく景色を飽きもせずに眺めていた。