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宿屋


 第一に、自分はシオンと呼ばれている。

 第二に、予期せぬ事故により、記憶喪失になっている。

 第三に、向かいに腰を下ろす青年は知り合い、らしい。


「改めて自己紹介をするよ、シオン。僕の名はスフェノス。記憶がなくて不安だろうけど、遠慮なく頼ってくれて構わないからね」

「はい……。ありがとうございます……」


 らしい、と言うのは。その事実が彼女にとって、いささか受け入れ難い事実であるからだ。

 目の前に並んだ食事にも手をつけず、シオンは彼を眺めていた。食欲がない訳ではない。むしろ、先ほどまで腹の虫が鳴りやまず、宿の女将に笑われてしまった。その女将が腕を奮った料理は、どれも見た目と匂いだけで、空腹を満たしてくれそうな出来栄えである。

 しかし、シオンはスプーンを手にしたまま止まっていた。視線は金の髪を揺らす青年から離れない。


「始めから説明しないといけないね……。僕たちは旅の途中で嵐に合ってしまったんだけど、その際に君は不運にも記憶を失くしてしまったようだ……」

「はい……」


 眠気は去ったにも関わらず、口をつくのは生返事ばかり。


「この町はシュティアと言う国の端にある、宿場町だよ。シュティアはアテラス大陸の北西。高原が広がる牧草地帯で…………」


 緩やかに流れる金髪の長髪。柔らかな対の碧眼。肌は指先まで白く、細身の長身でありながらも、華奢ではない。

 声は子守り歌を紡ぐように鼓膜を撫で、絶えぬ微笑はすれ違う女たちの目を誰それと構わず惹きつけた。

 そんな美男を体現した男が、なぜ自分と2人きりで旅などしている。


「だからこの先は都へ向かって……。シオン……? 大丈夫かい?」

「……え? あ……。ご、ごめんなさい……」


 慌てて背筋を伸ばすシオン。

 彼は眉を下げた。動きに合わせ、右耳の耳飾りも揺れる。彼が一挙一動する度に、その周辺が輝いて見えた。錯覚であろうか。


「まだどこか具合が悪いのかい? 僕の見立てでは、記憶以外に問題はなさそうだったけれど、町医者にも診てもらおうか……?」

「い、いえ! 具合が悪いとかではなくて……! 今のはただ、ちょっと……ぼーっとしていただけで……。すいません……」


 彼、スフェノスの対応は実に誠実で親切だ。

 宿や食事の手配はもちろんのこと。献身的にシオンの側に寄り添ってくれている。下着も含めた着替えを一式、手ずから持ってきてくれた時はさすがに、顔から火が出そうになった。そんな少し抜けているところもあるが、彼はシオンの看病に嫌な顔ひとつしない。それでいて、この美しい容姿だ。病み上がりで弱っている心身ではついつい、舞い上がってしまう。

 シオンの心中を知ってか知らずか。彼は椅子から立ちあがり、目元を緩ませた。


「遠慮はしないで、シオン。念を入れて困ることなんて、ひとつもないのだから。宿の人に、町医者を紹介してきてもらうよ。シオンは落ち着いて、ゆっくり食べていて」


 金の長髪をきらめかせて、彼は店の奥へと向かう。見れば、革のブーツの底には土すらついていない。留め金に施された金細工も、細やかながら優美だ。彼の長く美しい両脚をより引き立たせている。足もとだけではない。白のスカーフにも、きっちりと止められた袖口にも、汚れひとつ、埃ひとつも見当たらない。

 2人旅をしている身なりには到底、見えなかった。魔術とやらを使っているのだろうか。何にせよ、そんな男の姿に視線が惹かれるのは女に限った話しではなかった。


「……職業は、王子様、だったり」


 そんな冗談も冗談にならない。

 シオンは一人になったテーブルでようやく一息ついた。手にしていたスプーンを思い出し、目の前の白いシチューをすくう。


「何の味だろ……。美味しい……」


 魚か、肉か。はたまた野菜だろうか。記憶はないが生活は体に染みついているようで、慣れない味にスプーンくわえたまま首を傾げた。


「肉の味がする……魚……?」


 そんな所だ。

 シオンは不思議な味を口へ運ぶ。白いパンは柔らかく、穀物の香りが鼻を抜ける。シチューとは良い食べ合わせであった。

 香ばしいパンを咀嚼しながら、シオンは改めて辺りを眺める。中央の柱時計はちょうど昼時を過ぎていた。宿の入口は人の行き来が絶えず、食堂は客と活気に溢れている。

 注文がてらに給仕と談笑する者。カウンターの端で、小麦色の発泡酒をジョッキへ注いでいる老人たち。料理を分け合っている親子。数人の麗しい女性陣に囲まれる美男。

 彼は背中越しに、こちらを気にかけている。何度も彼の碧眼と目が合った。

 女たちに囲まれているスフェノスを遠目に、シオンはパンを千切る。彼女らはテコでも離れそうにないが、どうするつもりなのだろうか。しなやかな腕に手を取られても、嫌がる素振りはない。慣れているのだろう。あの容姿では無理もない。

 シオンは皿へ目を落とす。パンもシチューも、すっかり平らげていた。

 着替えの件も含め、後で女将へお礼を言わなければ。シオンはスプーンやフォークを纏め、にぎやかな喧騒と満腹感にまどろむ。


「食欲はあるようだね。安心したよ」

「あ……はい……」


 束の間の食後の安らぎだった。彼がテーブルへ戻ってくると、途端に空気が重くなる。

女の視線が一斉にこちらへ向けられていた。シオンは冷や汗を覚える。品定めの目が上から下まで降り注ぐ。


「女将に一番良い町医者を紹介して貰ったから、シオンが良ければこのまま向かおうか」


 スフェノスが絡んでいた腕をやんわりと払う。シオンは生唾を呑んだ。


「着替えもそれだけでは困るだろう。せっかくだから、シュティアの民族衣装でも着てみるかい?」

「そ、そこまで、あなたのお世話になる訳には……」

「スフェノスで構わないよ、シオン。君がかしこまる必要なんて無い」


 突き刺さる視線が問いかけている。

 シオンは首を横へ振るしかない。

 一刻も早くこの空気から解放されたい一心で、シオンは椅子から立ち上がった。


「でも、あなたは私より年上の方ですし……。記憶が戻るまでは、その……」

「僕への気遣いは一切、不要だよ。シオン」

「…………?」


 おもむろに、スフェノスはシオンの前に膝を折った。彼の行動に呆気に取られているのはシオンだけではない。テーブルの周りが静まり返る。

 金糸の髪は、風も無いのになびいていた。


「僕は君の従者だ。僕は君の心のままに従う。君の願いを叶えるのが、僕の使命だ」


 胸に手をあて、深く頭を垂れる。唇は朗々と告げる。


「僕の愛しいヒト。僕の愛しい主」


 冷たい指がシオンの手をすくい上げ、指先へと接吻を落とした。


「この器は、貴女様のためだけにあります。我が主」


 シオンの頭は呼吸ひとつ遅れて、彼の言葉を反芻している。

 つまり……この人とは、どんな関係、なのだ……。

 唇が声も無く呟いた。

 彼の微笑みは絶えない。その指も、割れ物へ触れるかのように、シオンの手を包んでいる。

 視界の隅に、期待に満ちた眼差しが見えた。我に返ったシオンが見回せば、店中の注目が自身へ集まっている。賑やかだった店内は妙な静けさに包まれていた。

 置かされた状況を、頭が徐々に理解していく。シオンの手に、汗が浮かぶ。

 シオンはスフェノスの手を掴んだ。そうしてテーブルの合間を縫い、もつれる足で宿を飛び出した。


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