分岐路
あれからしばらく、夢を見なくなった。
僅かに開いた窓から心地よい風が吹き込み、白いカーテンを揺らしている。シオンは風と戯れているカーテンの様子を日永一日、眺めていた。真っ白なこの病室から出て行きたいのは、彼女自身も山々である。しかし、部屋から一歩出ようものなら、扉の外に控えている無口な見張りに、前方を阻まれてしまう。何を聞いても、彼らは答えてくれない。シオンは渋々、部屋でぼうっと椅子に座り、数日前の出来事を反芻することくらいしかできないでいた。肝心の体調は心身共にすっかり回復しており、むしろ、このままでは運動不足で不調をきたすだろう。
スフェノスも、側にいることは感じるのだが、姿は見せない。散々ここから離れようとしていた彼が、今になって沈黙を守っているのは嵐の前の静けさではなかろうかと。不安すら覚える。
スフェノスからは、ここが病室だと言うことしか聞かされていない。あの後、自分と彼の処遇がどうなったのか。アーネスたちがどこにいるのかも。彼は「分からない」と首を横に振る。自分があの場で倒れてから、5日は経っているらしい。
これから先、自分は彼と、どの様な立場で付き合っていくべきなのだろうか。眠りにつく間際、決まってソコへとたどり着く。そうして何度も、同じ答えへと至るのだ。
目覚めてから初めて、病室の扉が叩かれた。シオンは我に返り、椅子から立ち上がる。
扉を開いたのは、背の高い麗人だった。遠目に何度か見ていた彼女は、実際にはシオンの頭ひとつ以上、背が高かったようだ。スフェノスとそう差異もない脚の長さや、冷ややかな面持ちでは、彼らの隣に並んでも全く遜色ないだろう。
意外な訪問者に、シオンはぎこちなく挨拶を口にする。彼女は頷き、単調に返した。
「あなたと2人で話しを」
「アダマスがいなければ、僕が許すと思ったのかい」
間髪入れずに、シオンの隣へスフェノスが現れた。美しい金糸の髪が、久しくさえ思える。側にいても姿を見せなかったのは、気遣いだったのか。それとも、別の理由があったのか。
フルゴラとの合間に入るスフェノスを、シオンは静かになだめた。
「スフェノス、私も彼女と話したいです」
「この魔術師は、君の側についていた魔術師より信用できないよ」
スフェノスはシオンの腕を引き留める。シオンは足を止め。スフェノスを見上げた。相も変わらず、彼の表情は柔らかく、声は穏やかに彼女を諌める。
シオンは一度、目を閉ざした。生唾を呑み込み、ゆっくり、深く、息を吸う。
「話しをさせなさい。スフェノス」
スフェノスはその場から動かない。繰り返し目を瞬いて、シオンを見下ろしている。
いつまで経っても、開いた口から反応がない。シオンは気恥かしくなって苦い顔をした。
「……お願いです。少しでいいから、話しをさせて下さい……」
慣れないことをするものではない。
シオンは耳まで熱くなって、結局は普段の自分に戻った。
「……何かあれば、すぐにお呼び下さい。我が主」
しかしスフェノスはシオンへ深く一礼し、彼女の頼みを承諾した。まぶしい微笑みを残して、彼は姿を消す。
一呼吸おき、シオンは振り返る。
「すいません、お待たせしました……。あの……」
「気遣いは不要です、楽になさい。私のことは、フルゴラ、と」
フルゴラは扉の前から動かずにシオンを見下ろしていた。
シオンは姿勢を正し、ぎこちなく頷く。
「まずは体調ですが、問題ありませんか」
「はい。もう大丈夫そうです」
「でしたらアーネスとジェドネフに感謝をなさい。あなたが目覚めるまで看病を続け、今ではまた、あなたのため、有力者に口利きをして回っています」
「分かりました……。必ず、そうします」
どこの誰とも分からない人間に、どうしてここまでしてくれるのだろうか。シオンは素直に彼女の言葉を受け取った。
フルゴラは目を伏せ、続ける。
「次に現時点での、あなたとスフェノスとの処遇について」
シオンは唾を呑み込み、服の下に隠れた冷たい石へと触れた。
「アーネスから報告は逐一、受けています。先ほどの様子からしても、スフェノスからの申し入れ、との事実に偽りはなさそうです」
「でも、私は魔術師ではないどころか、自分自身が誰かも分からないですし……。スフェノスは、私を選んだ理由を、教えてはくれないそうです」
「それらも承知しています」
無機質な会話のやり取りに、居心地が悪くなる。フルゴラは乾いた靴音を立て、シオンの脇へと歩み寄った。長い髪が風に波打つ。
「あなた自身はどう考えているのですか。シオン」
「私ですか?」
「自身に関する記憶もない。魔術師でもない。スフェノスの目的すら分からない。今回のように、命の危険性もある。あなたは現時点で、彼の申し出を受け入れる覚悟はあるのですか」
「覚悟……」
シオンはフルゴラの言葉を反芻する。
そんな大層な言葉が出てくるとは思わなかった。考えれば、大袈裟でも何でもない。薬を盛られ、数日間、昏倒した身だ。そうでなくても、うっかりローズやスフェノスの魔術に巻き込まれる可能性も十分に有り得た。
悩ましい。シオンは自身の指先を見つめる。
「私が断っても……きっとスフェノスは、私について来るだろうし……」
「それを受け入れるのかと、問うているのです」
「スフェノスがどうしてもと、言うなら……」
堪らず、苦笑が零れた。
覚悟も何も、彼に選ばれた自分に、彼をすでに選んでしまった自分に、今さら選び直す選択肢はないのだ。
「恨まれてでも、憎まれてでも守ると、言われてしまいました……。今さら私が拒んだ所で、もうどうしようもないと思います」
「あなたがスフェノスを拒むとの決断をすれば、私たちが手を貸します。スフェノスをあなたからひき剥がすのは、不可能ではありません」
「でも、そしたらまたスフェノスが、無理をするので……」
「あなたと彼はあかの他人であり、そもそも彼は人間ではありません」
「これでも、友だち。と言うことになっていて……」
「友人とは、自身の身を脅かす存在ではありません」
「私の身は守ると、言っていました」
「…………」
沈黙。視線は痛いが、そこに侮蔑はない。あの悪意に満ちた広間の席でも、彼女は淡々と語り、無表情を張り付けていたが、それを不快とは感じなかった。
シオンは顔を上げ、返答を待つ。
「分かりました」
フルゴラは頷き、踵を返す。
「あなたからスフェノス石を受け入れるとの了承が得られた以上。スフェノス石はシオン、あなたへ委ねることにします」
「……え?」
空いた口が塞がらず、間の抜けた声を返してしまった。
ここまできて、随分と呆気ない。今までの経過は一体、何だったのか。
フルゴラは背を向けたまま、やはり淡々と告げる。
「あなたの保護を依頼してきたのはスフェノスと同じ、フューカスの傾玉であるラドラドルと言う傾玉です」
「あ、はい……。アーネスさんから聞いています、けど……」
ラドラドル。舌を噛みそうな名前。形のない男。スフェノスと共に、帰らない主を待っていた宝石。
夢の中の、黒い影が脳裏を過る。
「スフェノス石の処罰に関しては、事が事だけに致し方なしと。ラドラドル石は判断を協会側に任せていました。しかし、あなたについては一貫して譲らず、現状でも保護の上、身柄の引き渡しを要求しています」
「私を引き取りたい、と言うことですか?」
「ラドラドルはあなたの身の上に、心当たりがあるのやもしれません。私たちが非の無いあなたを拘束し、あまつさえ昏睡状態に陥っているとのアダマスの言伝に、大層、立腹したようです」
フルゴラは足を止め、息をつく。初めて見た彼女の感情は、呆れだ。
「そこから、彼は我々、魔術師協会へ圧力をかけてきました。つい昨日のこと。さる方々から、元老院の元へ直々のお言葉があり、あの場であなたを批判的に見ていた者たちは皆、すでに掌を返しています」
「大人の事情、と言うやつでしょうか……」
「誰よりも大陸の行く末を案じる者の善意を無下にした、当然の結果でしょう。もしくは、ラドラドル石は始めから我々をアテにするつもりはなかった、とも」
フルゴラは元の冷めた表情へと戻った。
彼女であれば、役者としても上手くやっていけるのではないか。シオンは仮面に覆われた彼女の表情にそんなことを思った。
「ですが私は、彼の要求を全て呑むわけにはいきません。前例がある以上、彼らが間違いを犯さない確証もない」
「前例……? スフェノスのこと?」
「スフェノスだけではありません。彼らは人間でないとは言え、数え切れない年月を人間と共に歩んできました。肉体の衰えはなくとも、人間に寄せて創られた心が病むのは、必然」
「彼らも、心の病気にかかるんですか?」
「私は傾玉の一、主として。そして傾玉たちの管理を任された最高責任者として、スフェノス石の先行きを見据えた決断をしなければなりません。彼が、あなた以外を認めないと主張し、あなたが彼の主として責任を負える間に限り、あなたをスフェノス石の、仮の契約主として認めます」
質問の答えを濁された。答える気はない、と言うことだろうか。
色々と、納得のいかない部分が多い。質問をし出したら、キリがないだろう。そして、今の自分には受け入れる他に道が無い。
シオンがフルゴラへ頭を下げると、冷たい感触が胸に染み渡った。
「……ここで、スフェノスと別れて、一番後悔するのは、きっと私だと、思います」
「あなたがそう決断したのであれば、これ以上、私は口を出しません。ラドラドル石、および元老院への取次ぎを始めます」
「はい。よろしくお願いします」
フルゴラは静かに扉を閉ざした。靴音が足早に去っていく。
靴音が聞こえなくなると、シオンは息を吐き、椅子の上で膝を抱えた。肩から力がどっと抜けていく。
「本当にいいのかい」
「あなたがそれを聞くんですか……?」
姿のない問いかけに、シオンは笑ってしまった。そのしおらしさは正に、親から叱られた子どもだ。
「私に恨まれても、守って下さるんでしょう?」
「この命に代えても」
返答は短く、鋭い。
彼は本気だ。彼はやり切るだろう。彼はそのためなら、言葉通り、命を引き換えにするのだろう。
シオンはペンダントを取り出した。透き通る碧の石は、陽の加減で表情を変える。握ったその石はいつまでも冷たく、彼女の手の平を冷やした。




