空蝉の定義
I have every faith in it...as I have faith in relations between people.
Princess Ann in "Roman Holiday" (1953)
「生きてるって、どういうことだと思う?」
転校生と交わす初めての会話とは、こうあるべきだ。ちょうど空いていた隣の席に転校生、嘉良華リャカがやってきたことを、私は心から感謝した。
しかし残念なお知らせが一つ。私にはユーモアが致命的に欠けている。
「生きてるっていうのは、死んでないってことだよ」
苦し紛れの答えを、私は口にするしかなかった。私の浅はかさを、初対面の少女に明かすしかなかった。
やはり嘉良華リャカは納得してくれない。
「じゃあ石ころは、死なないから、生きてるってこと?」
純粋な眼が、でまかせばかりで生きてきた私に「生きるとは何か」を問うてくる。私に、心の声で答えろと迫ってくる。まるで私がそれを知っているとでも言うかのように。
「そうかも」
そして私は付け足す。
「まだ誰も石ころに話しかけたことがないから、みんな知らないだけなんだ。きっと」
「なんだ、話しかけたことないの?」
まるで石ころとお喋りするのが日課とでも言うかのように、彼女は首を傾げた。こちらをじっと見つめる水晶のような瞳が、私の気を狂わせる。このまま嘉良華リャカと会話が噛み合わなければ、目の前にいる妖精が不意に消えてしまうのではないか。でもここで焦って捕まえようとしても逆効果ではないか。次から次へと新たな不安が浮かんでは、私の心を掻き乱していく。
もっとコミュニケーション能力があったらよかったのに。いつもの言葉を心の中で呟く。自己嫌悪が私の心の中を支配していくのが分かる。
でも、彼女はそれを許さなかった。
「……と言っておきながら、私も石ころと会話したことなんてないんだけどさ」
嘉良華リャカが、笑った。私の下手くそなユーモアで、この女の子は笑ってくれた。嘉良華リャカとなら親友になれるかもしれない。いや、親友にならなければならない。
だって嘉良華リャカは、私が創作した、私の理想の、私の親友なのだから。
嘉良華リャカは二人いる。
一人は、我がクラスに転入した女子生徒、嘉良華リャカだ。目鼻立ちの整った顔は一見大人びているが、その瞳は子供のような好奇心に満ちている。肩口まで伸びた黒髪と色白の肌も相まって、ずっと病室に閉じ込められていた少女が、ようやく外の世界に出られたかのような雰囲気があった。
もう一人は、私がかつて書いた小説に出てくるキャラクター、嘉良華リャカだ。小説といっても、大したものではない。中学生の頃、オンライン小説投稿サイトで書いていたもので、趣味の範疇を越えるものではない。実際、読まれた回数もさほど多くなかったと記憶している。そんな素人小説の山に埋もれた一篇の物語に、嘉良華リャカは登場する。容姿は転校生の方の嘉良華リャカと瓜二つ。哲学的な問答を好む性格だった。小説の中で嘉良華リャカは、私をモチーフにした主人公と出会い、無二の親友となる役割を担う。当然、それを書いた時には、現実に同姓同名の少女がいるなんて思いもしなかった。
これは果たして偶然なのだろうか。
もっとも有り得そうな筋書きは、現実版・嘉良華リャカが、小説版・嘉良華リャカを読み、そのキャラクターを模倣している可能性だ。誰しも一度は自分の名前を検索するものだ。ましてや珍しい名前なら、ヒットしたサイトに興味を持つのは想像に難くない。そうして私の小説を読み、小説版・嘉良華リャカに憧れ、哲学少女を気取るようになった。しかし転校した先で隣の席になった相手が作者だとは思うまい。だってその小説を書いたのが私だと知っているのは、私だけなのだから。
その日は、始業式が終わるとお昼には下校となった。多くの生徒は昇降口へと真っ直ぐに向かっていくが、私にはやるべきことがあった。早速、嘉良華リャカとの距離を縮めるのである。
だが心の中では、逆風が吹き荒れていた。私は会話が苦手で、特に話しかけることに大きなハードルを感じてしまうのである。今まで友達と呼べる存在は数えるほどしかいないし、私はいつもお喋りの聞き手になることが多い。できるだけ話しかけることから逃げてきた。
それでも私は直感を信じることにした。勇気を出して、通学鞄を肩にかけて帰ろうとしている嘉良華リャカに話しかけた。
「良かったら、部室に来てみない? 私、文芸部なんだ」
「本当に? それは楽しみ。だって瑠璃音ルリノは、いい小説を書くから」
それは突然の告白だった。瑠璃音ルリノは、私がオンライン小説投稿サイトで嘉良華リャカを書いた時に使ったペンネームだ。ネット上で小説を公開していることは、文芸部員にすら教えていない、私だけの秘密のはずである。
私は他の誰にも聞かれてないことを確認してから、彼女の耳元で尋ねる。
「どうしてそれを知ってるの?」
「何でだと思う? 当てられたら教えてあげる」
嘉良華リャカは不敵な笑みを浮かべていた。どうせ私には分からないと、高を括っているようだった。
「さ、文芸部室へ連れて行ってください、ルリノ。それとも私がご案内しましょうか?」
北棟の三階にある空き教室。そこが文芸部室であることくらい、嘉良華リャカは知っている。そう言われても信じてしまいそうなくらいに、自身に満ちた表情を浮かべていた。
でも流石に、転校生がそんなことまで知っているだろうか。去年まで、文芸部室は南棟二階の家庭科室だった。副顧問の家庭科の先生に頼んで、使わせてもらっていたのである。それが去年の副顧問の退職に伴って、今年から半分くらいの大きさの空き教室へ移ることになった。ただでさえ影が薄い部活である。文芸部があることさえ知らない生徒も多いだろう。
だからきっと彼女の言葉は、はったりだ。文芸部室の場所を知っていると見せかけているだけだろう。それが嘉良華リャカ流の冗談なのだと、私は理解することにした。そうそう、嘉良華リャカもそんなキャラクターだった。
「いいよ、私が案内するから。あとその名前では、今後絶対呼ばないように」
「つまり、二人だけの秘密ってことね」
私の耳元で嬉しそうに囁いた嘉良華リャカは、生きるのがとても楽しくてたまらないといったふうに、北棟につながる渡り廊下へと駆け出した。
文芸部室では、伊織瑞希が待っていた。彼も私と同じく文芸部員である。私たちが入ってきたのに気付くと、彼は読んでいた源氏物語の文庫本を長机に放った。
「よし。全員集合だな」
「そう。全員集合」
「全員集合?」
「文芸部員は、私たち二人だけなんだ」
「ふぅん」
嘉良華リャカは、さっきまでの馴れ馴れしさとは打って変わって、他人行儀な返事をした。伊織瑞希がいるせいかもしれない。きっと知らない男子とは会話がしづらいタイプなのだろう。やっと嘉良華リャカの人間らしさを見れた気がした。
「でね、こうして来てもらったのには訳があるんだけど」
「文芸部に入って欲しい、とか?」
興味無さそうに答えながら、嘉良華リャカは本棚に並んだ文庫本を眺めていた。面白そうな本を探しているというよりは、どんな本があるかを観察するような眼差しだった。
「その通り。君、察しが良いね」
「そうだよ。君は恋愛小説が好きでしょう? でも書くのは上手くない」
伊織瑞希はギクリとして、苦笑いを浮かべる。
「確かに図星なんだが……もう転校生にそんなことを吹き込んだのかよ」
私は必死に首を振って否定した。
「いやいや、私はまだ何も。伊織君がいることすら言ってなかったし」
「じゃあどうして分かったのさ? ウチで出してる文集を読んだとか? 去年のアレは酷かったが」
毎年文化祭に文集を出すのが、文芸部の伝統行事である。昨年は当時の三年生と顧問の先生の二人と協力して、どうにか薄すぎない程度の文集を作ったのだった。
「いいえ。読んだことはない。でも本棚を見れば分かる」
その言葉に従って、伊織瑞希と私は本棚を覗き込んだ。歴代の文芸部員たちが各々の趣味で置いて行った本が、ざっくばらんに並んでいる。
「立てて並べずに手前に積んであるのは、伊織瑞希が最近読んだ本。だってル……結城和泉は読んだ本を必ず元の場所に戻すから。つまり積まれた本は、もう一人の部員が読んだもの。その本は全てが恋愛系。人間というのは、自分には無いものを無意識に求める生き物。だから伊織瑞希は、恋愛小説を書こうとするけれど、まだ書くことはできていない。そう思っただけ。ただの勘」
私と伊織瑞希は、途中から顔を見合わせて、その推理を聞いていた。我ながら、優秀な人材を発掘したらしい。
「ねぇ。リャカさん」
「リャカでいいよ」
やっと名前を読んでくれた、とでも言いたげに、嘉良華リャカの目は輝いていた。
「じゃあ……リャカに改めてお願いします。文芸部員が少ないとか、そんなことは抜きにして、リャカのような本に詳しくて観察力のある人が文芸部にいたらいいなって思うんだ。どうか、文芸部に入部してくれないかな?」
「仕方ない。入部してあげましょう」
続けて嘉良華リャカは、私にだけ聞こえる程度の小さい声で言う。
「ルリノにそう言われたら、断れないよ」
嘉良華リャカと視線が合う。お互いに自然と笑みを交わす。少し距離が縮まった気がした。
「そうと決まれば入部届だ。どこにあったかな?」
文芸部の資料ファイルが並んだ棚を伊織瑞希は漁っていた。それを眺めながら、私は嘉良華リャカに尋ねた。
「リャカは、どんな本が好き?」
「色々あるよ。例えば、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とか。ブルカニロ博士が好きなんだ」
「へぇ。今度読んでみよう。じゃあリャカは童話を書いたりするの?」
その問いに嘉良華リャカは首を傾げた。
「私は書かないよ。書いたこと無いし。私は読むだけ。それでも文芸部員になれるでしょう?」
「そっか。まあ、それでもいいんだけど」
あれ? どうして私は、嘉良華リャカが小説を書くと決めつけていたのだろう。ああ、そうか。小説版・嘉良華リャカは、小説を書くのだっけ。
理想の親友、嘉良華リャカ。それは私の書いた小説の中の存在だ。確かに目の前にいる嘉良華リャカは、小説を書かないかもしれない。だが、だからといって、彼女は私の親友になれない訳ではない。そんなのは些細なことなのだ。無意識に理想を求め過ぎてはいけない。
しかしそれにしても、どうして嘉良華リャカは私が本を立てて並べるような性格であることを知っていたのだろうか?
その日の午後、私は一人、自転車を漕いでいた。文芸部室に寄った後は嘉良華リャカと遊びに行こうかと思っていたのだけれど、誘う前に「用事があるから」と言われて別れてしまった。距離感を詰め過ぎてウザがられただろうかと、私は不安に駆られた。でももし仮に親友になれたとしても、いつもべったりとしてはいられない。距離を縮めることよりも程よく距離を取ることの方が、より親友らしいのかもしれないとも思う。何が親友らしいのかも、よく分かっていないのだけれど。
学校を出た私は鴨川沿いに北上して、昼食をハンバーガーで済ませた。それから兄のいる大学へ向かうことにした。最近読み返している漫画の途中の巻を兄に貸したたままだったことを、フライドポテトを齧っている時に思い出したのだ。これは嫌がらせをしに行けというお告げだろう。フライドポテトの発明者に感謝。
百万遍の交差点を過ぎた所に、兄のいるキャンパスがある。初めは眼鏡に白衣の研究者っぽい人がうじゃうじゃいるのかと思っていた。でも実際に来てみると、白衣姿の人はあまり見かけることがない。それよりは、お洒落な人の方が多いのではなかろうか。カッコいい女性研究者も、よく見かける。そんな大人になってみたいなと憧れてしまうけれど、理系科目が苦手な私には無理な話だ。
私は兄のいる建物の前に自転車を停めて、中に入った。三階まで階段を昇り、廊下を右手に進んで二つ目の部屋をノックする。
「どうぞ」
聞き慣れた声とともに、扉が開いた。毛玉だらけのパーカーを羽織ったボサボサ頭の兄が出迎えた。
「なんだ、和泉か。お客さんかと思って焦ったじゃねぇか」
「私だってお客様でしょ」
部屋の中は、乾いた空気に化学薬品の混じった匂いがしていた。文芸部室と同じくらいの狭い部屋に、実験台が一つ。その上には、大小の薬品瓶と奇妙な機械達が並んでいる。その実験台の奥に、兄の使っている古い事務机が見える。ノートと印刷物の山に囲まれて、なんとかノートパソコンが使えるくらいのスペースが確保されていた。
「こっちは散らかってるから、お茶部屋に行こう」
「その前に、貸してた漫画返してよ」
「あぁ。それで来たのか」
兄は机の上の惨状を見遣ってから答えた。
「後で発掘しよう」
欠伸をしながら隣の部屋へ向かう兄の後に続く。
ちょうどそこがお茶飲み用の部屋になっていた。部屋の真ん中に大きなテーブルがあり、十個くらいの椅子がそれを囲んでいる。兄は、隅の流し台にある電気ポットでお湯を沸かし始めた。
「コーヒーでいいか? 紅茶は切れてるみたいだ」
「またコーヒー? せめてココアとか無いの?」
「コーヒーを馬鹿にするんじゃないぞ。いずれお前もコーヒーに感謝するようになる」
「仕事の虫なんて私は嫌だね。そんな大人にはなりたくないもん。何事も程々がいいんだよ。そうそう。お母さんがいつになったら帰ってくるのかって言ってた」
「親父が家から出て行ったら」
即答だった。
「お父さんに似て頑固だねぇ」
兄が研究室を寝床にするようになって、もう半年くらいになる。それまで兄は実家通いだった。しかし大学院に入った頃にシュレなんちゃらとかいう人の本を読んで、研究に目覚めたらしい。夜遅くまで実験をするようになったから、深夜帰りが多くなった。それを父は、夜遊びしていると思ったらしい。学部時代は麻雀漬けの生活を送っていた兄だから、そう思われるのも無理はなかった。そんなこんなで父と喧嘩した兄は、スーツケースに必要最低限のものだけ詰めて、実家を出て行った。でもアパートを借りるお金は無いし、深夜帰りだから友人の家に泊めてもらうのも気が引ける。そういう理由で、兄は研究室で生活している。コインランドリーとか銭湯とかを活用しているらしい。本人曰く、生活費と娯楽費の比率を概算すると、他の学生よりも優雅な生活を送れているそうだ。あのボサボサ頭で言われても説得力がないのだけれど。
お湯が沸くまでの間、私は壁際に置かれた水槽を眺めていた。メダカが十匹ほど、その中で泳いでいる。学生の人が持ってきて飼っているらしい。水槽の壁には、一匹ごとに写真とともに名前が貼られていた。ウルメ、ザコメ、ウキ、チョンコ、アカンダミなどなど。これらはどれもメダカの方言名なのだと、以前兄から聞いたことがある。
「和泉は、水槽眺めるのが好きだよな」
「だってメダカがすいすいーって泳いでるの見てると、時間が止まった世界でメダカの息遣いを聞いてるみたいで、なんか自分も生きてるって感じがするんだよね」
「そんなもんかねぇ。じゃあそんな和泉に問題だ。生きていることの定義って何だと思う?」
「いきなり定義って言われても……」
考え始めてから、どこかで同じような質問をされたことを思い出した。そうだ、嘉良華リャカとの初めての会話がそうだった。でも結局、嘉良華リャカから答えは聞けていない。またここで同じ答えを言う訳にもいかないだろう。今回は、落ち着いて真面目に考えてみることにした。
「空気を吸っていること、とか?」
「メダカは空気を吸っていないんじゃないか? 水中から酸素を取り込んでいるけれども」
「じゃあ酸素を吸っていること」
「確かに、その答えは間違ってはいない。でも十分でもない。世の中には嫌気呼吸といって、酸素を使わないで呼吸する生き物もいる」
私の浅はかさをよく知っている兄は、したり顔でそう言った。
「えー、何それ。じゃあ答えは何?」
「無いよ」
「……え?」
「だから、生きているということの定義は存在しない。生物学的にはね」
あっけらかんとした兄の言葉に、しばらくの間、私はぽかんとしてしまった。
「何その引っかけ」
「嘘だと思うならググッてみろよ。『生命 定義』とかで。科学的には、生命の定義は定まっていない。代謝をすること、自分のコピーを作れること、恒常性があること。色々な条件は言われている。だけど生物学者の間で『これだっ!』っていう共通認識は全くない」
カチッという音で、電気ポットがお湯が沸いたことを告げた。兄は、インスタントコーヒーのパックを乗せたマグカップにお湯を注いでいく。苦味のある匂いが、次第に部屋中へ広がっていく。
「一つ、例を挙げようか。和泉は、ウイルスは生命だと思うかい?」
「コンピューターウイルスじゃなくて?」
不信に満ちた私の視線を、兄は笑った。
「今度は引っかけじゃないよ。病気を引き起こすウイルスの方だ」
「うーん。まあ、生命なんじゃない?」
「理由は?」
「だってよくマスクのイラストとかに、目と口がついたウイルスが描いてあるし」
「そんな理由かよ」
「だって見えないんだもん。しょうがないじゃん」
「見えなくたって分かる世界はあるんだよ。案外、片目を瞑るくらいが、生きていくのに丁度いいのかもしれない」
兄はマグカップに乗っているインスタントコーヒーのパックをつまみ上げて、中にお湯が残っていないことを確認した。
「このパックだって、お湯を通す前と後で乾燥重量を計れば、中身が減っていることが分かるだろう? それを知るためには秤さえあればいい」
「でも秤を見る目は必要でしょ?」
「概念的な話だよ。ま、和泉の言うことも間違っちゃいないが」
兄はパックをゴミ箱に放って、黒い液体で満たされたマグカップを一つ、私の前に置いた。それとシュガースティックを三本。これだけは欠かせない。それから兄は、近くに置いてある二人がけのソファに腰掛けた。
「で、ウイルスが生きてるかって話だが、実はウイルスは生きているし、生きていない」
「どういうこと?」
私は、砂糖を遠慮無くマグカップの中へ投下しながら、兄が熱々のコーヒーを啜るのを待った。
「細胞でできていない、自分で代謝をしないという点では、ウイルスは生きていない。でもウイルスだって遺伝子を持っている。それにウイルスは自分のコピーを作る能力を宿主に依存しているが、自分自身だけで増殖できない生物はいる。だから一概にウイルスが生命でないとは言えない」
「ふーん。よく分かんないけどね」
スプーンでよくかき混ぜたコーヒーに、私は口をつけた。まだ熱いが、舌を火傷するほどではなかった。
水槽の中のメダカたちへ視線を移す。元気に泳いでいる彼らは、生きている。そう思える。もし人間の間で生命の定義が変わって、メダカは生命ではないと一方的に決めつけられても、メダカたちは何食わぬ顔をして泳ぎ続けるのだろう。生まれた時からそうであったように。
「でも、それっていいの? 生物学者っていっぱいいるんでしょ。その全員が、命が何者なのか分からないままで研究してるわけ?」
「そうさ。馬鹿げてるけど、それがまた面白みでもある。俺だって、生命の定義に関して考えていない訳ではない。最近は、生命には冗長性が必要かもしれないと考えている」
「冗長性?」
「つまりは余裕があるってことだ。生命は遺伝子を持っている。遺伝子は、例えるなら生命のレシピだ。体をどうやって作るかが書いてある。セントラルドグマっていう言葉は知らないか?」
私は首を横に振った。
「人間の遺伝子はDNAだ。このDNAがレシピの原本になる。細胞の中で、DNAはまずRNAに転写される。要するにレシピのコピーを取る訳だ。大事なレシピをキッチンに広げてたら汚れてしまうからね。次にRNAはタンパク質へ翻訳される。ここでレシピから料理、つまり体が作られる。ほら、タンパク質ってお肉のことだろ?
でもレシピが読めなくなったら、死んでしまうこともある。体が作れないからね。コンピューターも、プログラムが壊れたら動かなくなる点では生命に似ている。だが決定的な違いの一つは、遺伝子には予備があるってことだ。AがダメでもBで代用できる。それが遺伝子の冗長性だ」
「分かるような、分からないような」
「言うならば、このラボの飲み物事情みたいなものさ。急な来客があった時に紅茶が無くっても、代わりにコーヒーを出すことができる」
「なるほど。じゃあ逆に漫画の途中の巻が欠けていても、他の巻では代用できないってこと?」
私は意味深な視線を兄へ向けた。
「ハイハイ、発掘してきますよっと」
腰を上げた兄は、お茶部屋から出て行く間際にボソッと呟いた。
「小説も生き物も、大して変わらないと思うけどねぇ」
その兄の言葉を思い出したのは、翌日の放課後、文芸部室に三人で集まって今後の計画を練っていた時だった。
「小説は生き物だ。だから我々は、小説に餌を与えなきゃならない。では餌とは何か? それは我々の愛だよ。読む人、書く人がいなきゃ、小説は死んでしまう」
文芸部員・伊織瑞希は熱弁を振るっていた。
「だから部員を増やした方がいいと?」
「その通り」
「ふーん。だったら小説は、太らないように運動しないとね」
悪戯っぽく笑いながら、嘉良華リャカは頷いていた。
我々の当面の課題は、部員を増やすかどうかである。嘉良華リャカが入部したことで、文芸部員は現在三人。部の存続要件をギリギリで満たしている状態である。それが嘉良華リャカを文芸部に誘った理由の一つでもあった。
しかし我々は全員三年生。このままでは来年度の部員はいなくなり、廃部になってしまう。将来のことを考えれば、もうじき入ってくる新入生の勧誘は欠かせない。それ故、伊織瑞希は熱く語っていた。
一方、私は違う意見だった。
「私としては、もう伊織君には言ったけれど、勧誘はしなくてもいいかなって考えてる。入部したい後輩がいれば拒まないけど、あまり盛大に宣伝はしたくない。理由は二つ。一つは、ウチの顧問が来年退職になること。三月に新しい副顧問のお願いをして回ったけど、国語科の先生たちは既に他の部活の顧問だからダメって断られてる。そんな状況で、さらに新しい顧問の先生を探すのは難しいよ。ただでさえ部員数少ないのに。
二つ目は、他にSF研とミステリ研があること。正直、向こうの方が雰囲気明るいし、部員も多い。だから少なくとも文芸部が無くなったところで、小説は死んだりしない」
「つまり、どうにかして存続させるだけの価値が文芸部には無いってこと?」
「さすがに価値が無いとまでは言わないよ。でも良い引き際かなとは思う」
私の言葉を、嘉良華リャカは腕組みしながら聞いていた。多数決の原理に則れば、嘉良華リャカがどちらの意見に賛成するかによって、新入生を勧誘するか、それともしないのかが決まることになる。
「うん、なるほど。私の意見は大体決まったけれど、もう他に意見は無い?」
嘉良華リャカの視線が、まず私に、続いて伊織瑞希に向けられた。
「……じゃあ、嘉良華さん。もう一つだけ言わせてもらってもいいかな」
さっきまでの威勢の良さはどこへ行ったのか、躊躇いがちに伊織瑞希が手を挙げた。
「実は俺、文芸部を辞めようと思ってる」
「え?」
「だからもう一人入れないと、部員数が足りなくなっちゃうんだよね」
「エエーーっ!?」
私は思わず立ち上がった。あれだけ「小説が死ぬ」だのと偉そうに語ってたのは、どこのどいつだよ。実はずっと文芸部が嫌で、嘉良華リャカが入ったから良い機会だと思ったとか? それとも彼女ができた? いや、この男に限ってそういうことはないか。爆発的に脳内に広がった動揺を何とか抑えて、私は尋ねた。
「どうして辞めるの?」
伊織瑞希は、慎重に言葉を選びながら、滔々と語り出した。
「まだ言ってなかったんだけど、実は春休みに祖母が亡くなったんだ。祖母は読書が好きでね。俺が書いた小説も楽しみにしてくれていた。祖母は特に恋愛モノには目がなかった。ここ数年寝たきりになってからは、俺も見よう見まねで恋愛小説を書いてたんだ。それまであまり興味のないジャンルだったから上手く書けたとは思えない。でも見舞いに行く度に、祖母は嬉しそうに感想を言ってくれた。
でも、もう祖母はいない。俺の小説を読んで欲しい人は、もう読んでくれない。そしたら小説を書きたいという衝動が、全然湧いてこないんだ。書いてみようと机に向かったこともあるけど、結局何も書けなかった。祖母が愛読していた源氏物語も読んでみたけれど、血沸き肉踊る感覚が無い。嘉良華さんは言ってたよね。『人間は自分には無いものを無意識に求める生き物』だって。だとしたら、今の俺は良い恋愛小説を書けるのかもしれないよ」
求めていたものを無くした彼は、虚空に向けて笑顔を浮かべた。悲しそうに笑う人を、私は初めて見た。
「それに今年は受験だろ? 早めにそっちに切り替えるのもありかなって。いや、本音を言えば、早いうちに受験に現実逃避しようかなって思ってる」
こういう時、何て言ってあげたらいいのだろう。私って、思いやりも致命的に欠けているんだな。ぼんやりと宙を見ていた私は、不意に嘉良華リャカと視線が合った。嘉良華リャカが小さく頷く。
「言ってみなよ。ルリノの思いを、正直にさ」
そんな嘉良華リャカの声が、聞こえた気がした。
私は覚悟を決めた。一度ゆっくり深呼吸してから、口を開く。
「私としては、文芸部を続けて欲しい。でも伊織君の考えも尊重したい。少なくとも、伊織君は一緒に文芸部をやってきた仲間だし、それに大事な友達だから」
「ありがとう」
申し訳無さそうな声が、印象的だった。
「でも、ひとまず結論は明日にしてもらっていいかな。俺としても、もう少し考えたいんだ。じゃあ、また明日」
心ここに在らずというふうの伊織瑞希は、そのまま鞄を持って文芸部室を出て行った。
文芸部室に、私と嘉良華リャカは取り残された。嘉良華リャカなら、みんなが幸せになる解決策をすぐに提案してくれるのではないか。内心そんなことを期待していたが、嘉良華リャカは口をつぐんだままだった。
沈黙に耐え切れなかった私は、机に突っ伏して、私たち二人だけの部活を想像してみることにした。もし小説版・嘉良華リャカと一緒に部活ができたなら、きっと楽しいだろう。私が書いた小説の中でも、主人公と嘉良華リャカは文芸部に所属している。この設定は、私が文芸部に入部した一年生の時に書いたからだったと思う。大抵の場面も、この高校がモデルだ。放課後には川端通を下って街に繰り出したり、夏には電車で海に行ったりして、これでもかとばかりに二人は青春を謳歌する。羨ましい限りだ。
でも今の私たちは友達になったばかり。小説の中のように、親友と言える間柄ではないだろう。もちろん、これから一緒に過ごしていく中で親友になりたいと思っている。でも確実に親友になれるという保証はない。どこかでボタンを掛け違えてしまうことが無いとは言えない。
私みたいに引っ込み思案な性格でなければ、気軽に親友を作ってしまえるのだろう。だって友人を指差して「あの人は親友だ」と言えばいいのだから。でも私にはそれができない。その人は確実に私の親友だと心の中の秤がはっきり示さない限り、私は親友を作れない。いや、作りたくないのだ。
だって私は、空っぽの器でしかない。自分というものが無いのだ。例えば今の私が嘉良華リャカを指差して「彼女は親友だ」と言ったとする。そうしたら、私は嘉良華リャカを親友だと認識するだろう。逆に「彼女はライバルだ」と言ったら、私は嘉良華リャカをライバルとして認識してしまう。いつも心の秤で慎重に計測した言葉しか発していないから、全ての発言が私の意志とイコールになってしまっているのだ。言葉に責任を持ち過ぎている、と言ってもいいかもしれない。
じゃあどこまでが友人で、どこからが親友なのだろうか。心の秤は、まだそれを教えてくれない。
「ねぇ、ルリノ」
嘉良華リャカの声で、私は顔を上げた。
「どうしたの?」
「こういう時はパンケーキ、だよね?」
嘉良華リャカの綺麗な瞳が、その言葉の意味が届いているか確認するように私の顔を伺う。
「ナイス・アイディア!」
そう、私たちにとってパンケーキは魔法の言葉だ。小説では、主人公は挫折した嘉良華リャカを励ますためにパンケーキをご馳走する。嘉良華リャカが立ち直るきっかけになる大事な場面である。ここは一つそれにあやかって、私たちもパンケーキを頂くことにしよう。そうすれば、文芸部の今後について良い解決策が浮かぶかもしれない。それに嘉良華リャカとお出かけする絶好の機会を逃す訳にはいかないのだ。徐々に距離を縮めていった暁には、親友と呼ぶべきかなんて悩まなくてもよくなるだろう。
私たちは学校を出て南へ向かった。丸太町通りから鴨川を渡った所に最近できたカフェのパンケーキが美味しいと評判なのだ。嘉良華リャカとともに、自転車で川端通りを下る。意外と嘉良華リャカは、自転車を漕ぐのが早かった。私もついムキになって追い越したり、逆に追い越されたりした。我ながら幼稚だなとは思う。それでも時折、嘉良華リャカの茶目っ気たっぷりの表情がこちらへ向く度に、私は楽しくなってしまうのだった。
カフェに到着した私達は、それぞれパンケーキと紅茶をオーダーした。私はメイプルソースのかかったやつで、嘉良華リャカはチョコレートとバナナがトッピングされているやつだ。それから私たちはガールズトークに花を咲かせた。私の伊織瑞希に対する愚痴、もとい逸話から始まり、嘉良華リャカが転校する前の学校のことまで、色々なことを話した。転校した理由は、親の仕事の都合らしい。よくある話だが、子供にとっては迷惑な話だ。ここでの嘉良華リャカは、私の創作した登場人物などではなく、どこにでもいる平凡な一人の女子高生だった。少なくとも、私にはそう見えた。
「もうそろそろ帰ろっか」
私がそう提案した時には、辺りはもう暗くなり始めていた。二時間くらいは喋りっぱなしだっただろうか。まだ話し足りないけれど、また今度お茶しながら話せばいいことだ。時間は、たっぷりあるのだから。
会計を済ませて、自転車にまたがったところで、嘉良華リャカが私に近寄ってきた。近くに他の人がいる訳でもないのに、耳元でそっと囁く。
「ねぇ。もしこのあと時間があるなら、鴨川デルタに寄って行かない?」
俯き加減になりながら、嘉良華リャカは私の反応を伺っていた。
鴨川デルタは、私と嘉良華リャカが出会った場所である。もちろん小説の中での話だ。主人公が川を横切る飛び石を渡っていたところに、嘉良華リャカが鉢合わせて運命的な出会いを果たす。ベタだが、私のお気に入りのシーンである。嘉良華リャカの発言も、それを踏まえてのことだろう。
私自身、私たちが小説で出会った場所へ、一緒に行ってみたいと思った。現実の私たちはもう出会っているのだけれど、改めて出会いの場所を訪れてみたら、もっと距離が近くなれるような気がした。ここにあるのは親友と呼ぶべき絆であるか否か。心の秤の針が指している先を、この目で確かめてみたかった。
しかし天は無情である。ポツリ、ポツリ。その肌の感覚で反射的に空を見上げれば、太陽の沈んだ闇の中にうっすらと濃灰色の雲が浮かんでいた。通り雨で済みそうな感じではない。
「雨、やばそうだね。傘とかある?」
嘉良華リャカは残念そうに首を横に振った。お互いに苦笑いを交わす。
「じゃあ、鴨川デルタはまた明日ってことで」
「そうだね」
それから二人で小雨混じりの夕闇の中を自転車で帰った。途中の交差点で別れた私は、嘉良華リャカの背中が角に消えるまで見届けてから、ペダルに足をかけた。でも最後に嘉良華リャカが振り返ったような気がして、もう一度、嘉良華リャカが消えた角へ目を遣った。でももう嘉良華リャカは、そこにはいなかった。
翌朝の教室で、私は信じられない光景を目の当たりにした。伊織瑞希が、晴れ晴れとした笑顔を浮かべていたのである。
「文芸部、続けるよ」
「……えっ? 何かあったの? 大丈夫? 無理してない?」
「俺が文芸部続けるのがそんなに嫌か?」
「だって昨日の様子を見る限り、辞めるとしか思えなかったけれど」
「考え直したのさ。辞める必要は無い。むしろ俺は受験勉強なんかより、小説が書きたくなったよ」
自らの創作ノートを示しながら、伊織瑞希は読んで欲しくてたまらないという顔をした。もう昨日のうちに書いたとでも言うのだろうか。
「へー。ついこないだリャカにセンスが無いって言われたばかりなのに?」
「どうかな。今ならリャカは俺の小説を褒めてくれると思うよ」
自信ありげに笑みを浮かべる伊織瑞希は、いつもと雰囲気が違う。内なる情熱が溢れすぎて空回りしてしまう、いつもの不器用さがない。
「どこからそんな自信が湧いてくるんだか」
「理由が知りたいかい?」
そう問う伊織瑞希の瞳は、まるで嘉良華リャカのそれのように、好奇心に満ちて輝いているように見えた。
「何か良いことがあったとか?」
「確かにそれは当たっている。でも、それじゃあまりにも漠然としていてつまらないよ。仕方がないからヒントを教えよう。昨日の夜、リャカが俺の家を訪ねてきてね。ある物を貰ったんだ」
あの後、嘉良華リャカが伊織瑞希の家に行ったというのだろうか。そんな素振りはなかったように思ったのだけれど。
「ラブレターとか?」
「結城さんはリャカからラブレターを貰ったら嬉しいのかい?」
「何でそんな話になるのさ!」
伊織瑞希は、こんなに冗談が通じない人間だっただろうか。なんだか私の調子も狂ってしまう。
「真面目な話、一番有り得そうなのは、リャカのお薦めの本とかかな? リャカなら伊織君の好きそうな本を沢山知ってそうだし」
「確かにそれは魅力的だ。でもそんなものより、もっと価値があるものだよ」
「えー。もう分かんないよ。答えは何?」
待ってましたとばかりに伊織瑞希は言った。
「リャカの書いた小説だよ、ルリノ」
私は耳を疑った。
「は?……え、どういうこと!?」
「でもリャカはルリノに読ませちゃダメって言うんだ。あんな素晴らしい小説を教えてあげられないなんて、残念だなぁ」
私の頭の中は混乱していた。嘉良華リャカが実は小説を書くという真実と、私が瑠璃音ルリノであることを伊織瑞希が知っていた事実の、どちらから確かめるべきだろうか。藪蛇になっても困るから、下手に聞く訳にもいかない。
そうしているうちに、嘉良華リャカが教室に入ってきた。
「あっ。おはよう、リャカ。君の小説は最高だったよ!」
スターにサインを求めるかのように駆け寄る伊織瑞希に、嘉良華リャカは会釈しただけだった。氷のように冷たくて固い表情で、私には一瞥もしないまま、私の隣の席に座った。そして興奮気味に小説の感想を述べようとする伊織瑞希を制した。
「ほら、先生来たから席につきなよ」
伊織瑞希は担任が教室に入ってきたのを認めると、仕方ないといったふうに自分の席へと戻っていった。
その隙に、私はヒソヒソ声で嘉良華リャカに尋ねた。
「何かあったの?」
「ゴメン。何も聞かないで」
怒ったような言い方をされるのは初めてだった。結局、嘉良華リャカの顔は前を向いたままで、私の方を向くことはなかった。まるで昨日までのことが、すっかりリセットされてしまったかのようだった。
その日の嘉良華リャカの行動は、完全に私を回避することに徹していた。教室の席こそ隣同士だが、休み時間になるとあっという間に教室から出て行ってしまい、次の授業ギリギリまで姿を現すことはなかった。そんなに私に会いたくないなら、欠席すればいいのに、と思う程に。
かくして私の「嘉良華リャカを振り向かせよう作戦」はスタートした。まずは二時間目の授業中、先生が板書している間に、手紙を書いて嘉良華リャカの机の上に投げた。だが嘉良華リャカは何事もなかったかのようにノートを書き続けた。ニ、三個投げたが、変化は無い。授業が終わると、嘉良華リャカは手紙ごとノートを閉じて机にしまい、風のようにどこかへ行ってしまった。
もちろんその程度の失敗でめげる私ではない。三時間目の英語の授業が始まると、私は手を挙げた。
「先生、教科書を忘れたので、嘉良華さんに見せてもらってもいいですか?」
「えぇ、どうぞ。そんなこと大声で言わなくてもいいのに」
クラスメイトたちの笑い声が漏れるが、そんなことを気にしてはいられない。私は遠慮なく、離れていた机をピッタリくっつけた。これでちょっかいを出し放題だ。
そう思ったのも束の間、今度は嘉良華リャカが手を挙げた。
「先生。体調が悪いので、保健委員の田中さんと一緒に保健室へ行ってきます」
どことなく「保健委員の田中さんと一緒に」の部分を強調するような言い方だった。私も負けてはいられない。
「先生。私も体調が悪いので、二人と一緒に保健室へ行ってきます」
先生は怪訝な目つきをしていたが、渋々三人の保健室行きを了承した。
ひとまず体調不良を装いながら、二人の後について保健室へ向かった。養護教諭の千葉千草先生は、流れ作業で私と嘉良華リャカにそれぞれベッドをあてがった。あまり適当すぎるのもどうかとは思うが、今日ばかりは感謝すべきだろう。
ベッドに横になると、徐々に頭が冷静になってきた。嘉良華リャカはどうして私を避けているのだろうか。思い当たることは二つ。嘉良華リャカが小説を書いていることを伊織瑞希が私に明かしたこと。それと、結城和泉が瑠璃音ルリノであることを伊織瑞希に教えたことだ。だが、どちらの場合でも、謝ってくれればそれで済む話だ。知られてしまったことは、もう隠しようがないのだから。それでも嘉良華リャカが私を避けるということは、まだ何か隠していることがあるのかもしれない。
漠然と考えていても埒が明かない。私は意を決して、カーテンを隔てた向こう側へこっそりと声をかけた。
「私は気にしないからさ、何があったのか教えてよ。ね、リャカ?」
そっとカーテンを開けると、隣のベッドは既にもぬけの殻だった。ご丁寧なことに、掛け布団の下には丸めたカーディガンが入っていて、人が寝ているように見せかけられていた。しかも枕元からはジャージの上着が覗いているという念の入れようである。
その時、不意に目の前のカーテンが開いた。その主は嘉良華リャカではなく、マズイことに千葉先生だった。
「大人しく寝ていなさい!」
そんな言葉で怒られるかと思って身構えたが、千葉先生は予想外の言葉を発した。
「あなたは良い小説を書くのね、瑠璃音ルリノ」
うっとりとした目つきで、千葉先生は私を見下ろしている。何がどうなっているのか分からないが、私は本能的に逃げるべきだと判断した。
「わ、私、もう大丈夫なんで教室戻ります」
さながらネコから逃げるネズミのようにベッドから跳ね起きて、一目散に保健室を抜け出した。幸い千葉先生が追ってくる様子はなかった。
だが安心してもいられない。現状で私が最優先にすべきことを、私は実行に移した。すなわち瑠璃音ルリノの正体について私が唯一明かした人物に事情を聞くのである。
ひとまず私は駆け足で階段を上り、教室へ向かった。無論、教室に帰っているという確証はない。
ちょうど階段を上り終えたところで、チャイムが鳴った。授業が終わったのだろう。急にどの教室も騒がしくなった。私は急いで自分の教室へ向かい、後ろのドアから中を恐る恐る覗き込んだ。もう誰かに姿を見られることにさえ、若干の恐怖が芽生えていた。
どうやらこちらも授業が終わったようだった。すぐに対象は見つかった。嘉良華リャカは、何事もなかったように授業を受けていたようだ。さて、また逃げられても困るし、どうやって話しかけようか。
隠れて覗いているうちに、少し肌寒いことに気付いた。さっきまで布団を被っていたせいだろう。いつの間にかカーディガンを手に掴んでいたので、肩にかけることにした。でもなぜだろう。手の震えは収まらない。
そこでふと、嘉良華リャカの行動に意識が向いた。教科書とノートを机にしまった嘉良華リャカは、おもむろに通学鞄から分厚い紙束を取り出したのだ。厚い文庫本ほどのそれをどうするのかと思えば、両手で抱えて、ある男子生徒に渡した。伊織瑞希だ。私は気付かれないようにしながら耳をそばだてて、教室の喧騒の中から二人の会話をなんとか拾った。
「これ、今日までに貰った入部届だから。顧問の先生に渡して」
「素晴らしい! 待ちに待った新入部員だ! これで文芸部は安泰だよ」
いやいや、安泰どころじゃないだろう。仮に三百ページの文庫本と同じ厚さだとしたら、提出したのは全校生徒の三割近くになる。はっきり言って異常だ。まず顧問の先生が受け取らないだろう。だが千葉先生も常軌を逸していたことから考えると、その予想も怪しい。
不意に、嘉良華リャカの視線が私を捉えた。咄嗟に私は身を翻し、ゾンビから逃げる映画の主人公みたいに、人で溢れる廊下を突っ走った。途中で肩にかけていたカーディガンが落ちてしまったけれど、そんなことを気にしてはいられない。もう誰も信じられなかった。今すぐに誰かの腕が伸びてきて、私を捕まえるんじゃないかとさえ思った。もしや変なウイルスか何かが全校生徒に感染しつつあるのではなかろうか。
こんな時に頼れそうな人間を、私は一人しか知らない。
北棟三階の文芸部室に、私は篭っていた。もちろん内側から鍵をかけてある。薄暗い部屋の中で、ポケットからケータイを取り出す。震える手でなんとか操作して、電話帳から兄に電話をかけた。普段はメールで連絡をとるから、電話なんて滅多にしない。忙しくて電話に出られない、なんてことがないといいのだけど。呼び出し音が途切れた。
「おう、和泉か」
「お兄ちゃん、あの、なんか私、変なことに巻き込まれてて」
「変なこと……か。ちょっと待て。メモを取るから」
電話の向こうの兄の口調は、なんだかいつもより歯切れが悪かった。いつものように面と向かって話していないからだろうか。
急いでペンを走らせる音がしてから、兄は言った。
「いいぞ。できるだけ簡単に頼む」
「簡単にって言われても、まだ気が動転してて」
「じゃあこっちから聞こう。いつの話だ?」
「えっと、多分今日の朝から。でももしかしたら昨日からかも」
伊織瑞希が小説を書いていたことから考えると、そのくらいだろう。
「どこで起きた?」
「教室とか、保健室とか。直接見てないけど、学校の外でも起きてると思う」
あれだけの入部届を出した生徒がいるのだ。そう言って差し支え無いだろう。
「誰に起きた?」
「私、転校生の嘉良華さん、文芸部員の伊織君、その他多数の生徒、それと保健の先生」
我ながら支離滅裂だな、と思った。兄に笑われるんじゃないかと思ったが、冷静な声がケータイから聞こえてくる。
「何が起きた?」
「なんかみんなウイルスに感染したみたいな感じ」
「もっと客観的に、起きたことを話してくれ。時間がない」
兄は淡々としている時が、実は一番怖い。そして一番頼りになるのだった。
「うーんと、まず伊織君が昨日は部を辞めると言っていたのに、今日会ったら雰囲気が変で、部活を続けるって言い出した。それから仲の良かった嘉良華さんの態度が急に冷たくなって、しかも大量の入部届を集めてきた。あと……」
これを話すべきか、一瞬躊躇った。どうでもいいことのようにも思えたのだ。
「伊織君と保健の先生が、教えてないはずの私の秘密のペンネームを知ってた。でも嘉良華さんは元々知ってる。というか、教える前に知ってた」
「それらの不可思議な現象のうち、どれでもいい、犯人は分かるか?」
「いや、どれも分かんない」
「犯人の動機か、あるいはその方法について、心当たりはあるか?」
「全然」
「そうか」
次いで兄が発した言葉に、私は息を呑んだ。
「関係者全員、昨日から今日の間に、和泉が秘密のペンネームで書いた小説を読んだ可能性はあるか?」
「いや、それは分からないけど……」
そこで私は思い出した。
「でも伊織君は、嘉良華さんの小説を読んだって言ってた」
「それだ」
兄は力強く断言した。
「転校生の小説が伝染したんだ」
私自身、奇想天外な話をしている自覚はあるけれど、その兄の言葉には思わず笑ってしまった。
「ありえないでしょ、そんなこと」
「いいか。時間が、無いんだ。議論している余地はない」
気付くと、兄の息が荒くなっていた。
「大丈夫なの? 何かあったの?」
兄は息も絶え絶えになりながら、矢継ぎ早に話し出した。
「すまんが、俺も感染したらしい。さっき後輩に面白い小説だって渡されて、試しに読んだらこのザマだ。意識が侵食されていく感じだよ。俺の理性がいつまで持つかは分からん」
「そんな……今、私もそっちに行くから」
「来るな。それよりもお前に教えておくべきことがある。……この前、冗長性の話をしたよな?」
「うん、なんとなく覚えてる。生命には余裕がないといけないみたいな話だよね?」
「あくまでも俺の個人的な考え、だがな。生命は冗長性があるから、レシピが少し破れた程度では死なない。逆に言えば、冗長性が無い生命は、レシピが少し破れただけで死んでしまう。だから伝染する小説のレシピを破れ」
「どうやって?」
「それは、和泉が考えるんだ」
「せっかく教えてくれるなら、そこまで教えてよ」
「もう、話をするだけでも、辛いんだよ」
兄は、途切れ途切れの今にも消えそうな声で言う。
「写メ、送るから見ろ。もう、そんなことしか、できなさそうだ」
「ちょっと待ってよ。何が何だか」
「頑張れよ」
その言葉を最後に、電話は切れた。
途端に、私の意識は薄暗い文芸部室に引き戻された。再び静寂が私を包む。さっきまで兄と話していたせいで、一層孤独感が強くなってしまった。
ケータイが振動して、メールの着信を知らせた。兄からのメールだ。題名も本文もない。さっき兄が書いたのであろうメモの写真が添付されているだけだった。
白いA4のコピー用紙に、それは書かれていた。まず縦に「いつ」「どこで」「ダレに」「なにが」「ハンニンは」「どうやって」と並び、それぞれの横に私の回答が簡単に書かれていた。その下に生命のレシピについての解説が続く。
そして私は、端っこに書かれた走り書きに目が留まった。
「ルリネ・ルリノってダレだ?」
きっと兄は聞いたのだろう。自らを侵食する意識から、良い小説を書くというその名前を。いや、客観的に見て上手い小説ではないと思うのだけど。
ふと私は気付く。
どうして嘉良華リャカの小説を読んだら、瑠璃音ルリノが良い小説を書くことが分かるのだろう?
その時、文芸部室のドアをノックする音がした。
「ごめんなさい。私、ルリノに言わなきゃいけないことがあるの」
嘉良華リャカの透き通るようなその声を聞いたのは、久しぶりのような気がした。
「入ってもいい? というか、そこにいる?」
私は扉に駆け寄って、内鍵に手を伸ばした。
が、思い直して声をかけた。
「話をするだけなら、このままでもできるでしょ?」
「そうだね」
鍵をかけたままの扉に、背中で寄りかかった。扉越しだから顔は見えないけれど、でも嘉良華リャカの方を向きたくなかった。向き合う自信がなかった。
それから静かに嘉良華リャカは語り出した。嘉良華リャカの正体を。
「あのね、私、ルリノの小説から生まれたんだ。ルリノが書いてくれた私の小説、覚えてる?」
「うん」
「嘉良華リャカ。主人公の大親友。それが私だった。そういう役を与えられた何かだった。形もないし、生きてもいない、曖昧とした存在だった。
そんな私に転機が訪れた。嘉良華リャカが、私を見つけてくれたんだ。こういうと分かりづらいかな。つまり、人間の嘉良華リャカが小説の中の嘉良華リャカを読んだんだ。恐らく同姓同名だったから興味を持ったんだと思う。
その出会いが、奇跡を生み出した。人間の嘉良華リャカが私を読むことで、私が人間の嘉良華リャカの意識に乗り移ったんだ。それはね、友達が欲しいというルリノの願いが私に込められていたからなんだよ。人間関係への飢えが、同姓同名という偶然を介して共鳴したんだ
初めは驚いたよ。いつの間にか人間になっているんだから。しばらく私は、人間の嘉良華リャカとして生活していた。でもルリノに会いたいという衝動は抑えられなかった。だって私は、ルリノの大親友の嘉良華リャカだから。
さらに不思議なことは続いた。ルリノの書いた通り、私の趣味は小説を書くことだった。毎日暇さえあれば小説を書いていた。それがまだ会えていないルリノとのつながりのような気がしたんだ。そんなある時、ルリノに下手な小説は見せられないと思って、ある人に感想を頼んだ。そしたら、その人にも私の人格が移ってしまったんだ。多分、私の存在が友達が欲しいという願いでできているせいだと思うけれど、本当のところは分からない。とにかく私の小説は、ルリノの小説よりも強力に嘉良華リャカを感染させてしまうんだ。
それ以来、私は小説を書いていることを隠してきた。ついこないだまでは」
「伊織君が文芸部を辞めないために、リャカの人格を感染させたってこと?」
少し考えてから、嘉良華リャカは答えた。
「辞めさせないためではないよ。ルリノは言ったよね。伊織君は大事な友達だって。だから私は、伊織君がずっとルリノの友達でいられるように、私の人格を感染させたんだ」
「それは違うよ、リャカ。それは違う」
考えるよりも先に、言葉が出てしまった。
「確かにそうすれば伊織君はずっと私の友達なんだろうけど、でも人格が変わってしまったら、その人はもう、一緒に文芸部で過ごしてきた伊織君じゃないよ」
「分かってる」
意外にも、冷静な答えが返ってきた。
「分かってるよ、私だって。そんなことをしたら伊織君が伊織君じゃなくなってしまうって、分かってる。でもね、私はルリノの友達が欲しいという思いそのものなんだ。本能には逆らえなかった。私の体は、本能のための空っぽな器でしかない。どうやったって止められないんだ。ルリノだって分かるでしょう? あの時、伊織君がもう友達ではなくなってしまうかもしれないっていう不安が、ルリノの頭の片隅にあったはずだよ」
私は言い返せなかった。確かに、もうこのままの関係ではなくなるのだろうと、そんな漠然とした予感があったのは事実だ。
「だからね、ルリノ。お願いがあるんだ。嘉良華リャカが嘉良華リャカを生み出すのを止める、たった一つの方法がある。それはルリノにしかできない方法なんだ。どうか、それを実行して欲しい」
「そんなことができるの?」
「簡単なことだよ。嘉良華リャカは嘉良華リャカでしかない。嘉良華リャカの弱点をつけば、全ての嘉良華リャカは消える」
兄は言っていた。伝染する小説のレシピを破れ。そのレシピを破る方法を、嘉良華リャカは明かそうとしている。嘉良華リャカは自らの手で自分のレシピを破ろうとしている。嘉良華リャカは自殺しようとしている。
いや、嘉良華リャカは生きているのか?
扉の向こうから、精一杯に平気なふりをした声が聞こえた。
「ねぇ、ルリノ。嘉良華リャカは架空の人物だっていう小説を書いて、私たちに読ませてよ。そうすれば私たちは、元の人格に戻れるはずだから」
「でもそうしたら、リャカは消えちゃうんじゃないの」
「私は元々、小説の中で永遠に眠っている存在なんだ。こうしてルリノと会って、話をしているだけでも奇跡みたいなことなんだよ。それに、もうこれ以上ルリノが悲しむ顔を見たくない。だからお願い。嘉良華リャカという存在を、現実から消して」
嘉良華リャカ。私の理想の親友。その存在は妄想の中にしかいないだなんて、私は認めたくない。でも嘉良華リャカをこのままにしておいても、誰も幸せになんてならない。元凶は私だ。私が親友が欲しいと願ったばかりに、こんなことになったのだ。
「小説が書けたら、あのサイトに投稿しておいて。面と向かって渡すのは嫌でしょう? それじゃ、ルリノ。さようなら」
足音が遠ざかっていくのが分かる。でも、どうすればいいのか分からない。追いかけるべき? それとも小説を書くべき? どっちを選んだらいいか教えてくれる教科書は、世界のどこにもない。
それでも私は、一つの可能性に縋った。ケータイを取り出し、兄のメモをもう一度、舐めるように読み返した。兄なら、嘉良華リャカを殺してしまえと言うのだろう。でも私は、他の方法を探していた。いや、直感的に何か別の方法があると感じていた。
私は、空蝉を思い出した。空蝉とは、読んで字のごとく、セミの抜け殻を意味する古語である。源氏物語に登場する空蝉という女性は、光源氏に求愛されたものの、小袿を残して逃げてしまう。光源氏は、そんな彼女をセミの抜け殻に例えて和歌に詠んだ。
一方、空蝉という言葉には、うつそみ、うつしおみから転化して、この世に生きている人という意味もある。空蝉は、死んでいるし、生きているのだ。
「お兄ちゃん、ごめんね。それと、ありがと」
私は扉の内鍵を開けた。
そして嘉良華リャカは消えた。まず教室を探したが、誰も嘉良華リャカを見ていないという。一応校舎内を見て回ったが、姿は見えない。教室に荷物は残っていたし、下駄箱に靴はあった。だが私は直感していた。嘉良華リャカは校内にはいないだろう。
連絡方法が無い訳ではない。瑠璃音ルリノのサイトに嘉良華リャカへ向けたコメントを載せればいいだけだ。
嘉良華リャカは私のコメントにすぐ気付いてくれるだろうか。嘉良華リャカは、あえてすぐには読まないかもしれない。他人に感染した嘉良華リャカの人格もまた瑠璃音ルリノのファンであるなら、彼らも私の新しい小説を待っているはずだ。彼らが元の人格に戻っていくのを見届けた後で嘉良華リャカが自殺する可能性も、十分にある。
それでも私は、直接伝えたかった。私の思いを、私の口から。
私は自転車置き場まで走り、マイ自転車にまたがった。全速力で校内を駆け抜けて、校門から飛び出し、鴨川沿いに北上した。目指すは鴨川デルタ。私と嘉良華リャカが、小説の中で初めて出会う場所。
私はペダルを全力で漕いだ。五分くらいで着く距離だが、もう何時間も漕ぎ続けているかのように感じられた。
賀茂大橋に辿り着いた私は、橋の中程で自転車を停めてから、欄干に駆け寄って鴨川デルタを正面から見下ろす。珍しく人影はない。もちろん、嘉良華リャカもいない。
落ち着いて考えてみれば、当たり前の話だ。嘉良華リャカと私とを結びつける場所ではあるけれど、ここで再会できるだなんて、そんな虫のいい話があるはずがない。諦めて、一度学校まで戻ろうとした時だった。
川を横切るように並んだ飛び石を、右手側から渡ってくる人影があった。身軽に石を飛び移ってデルタへと渡った彼女は、橋の上の私を見上げる。肩口まで伸びた黒髪と色白の肌。目鼻立ちの整った顔。好奇心に満ちた瞳。嘉良華リャカは、何も言わずにただ私を見つめていた。そんなに悲しい顔をしないでよ。もう会えなくなるみたいじゃないか。
「リャカ!」
人目も気にせず、私は大声で叫んだ。
「聞いて! 話があるの!」
嘉良華リャカは、申し訳無さそうに首を横に振った。そのまま身を翻して、鴨川デルタの奥へと歩いて行く。
「待って。待ってよ!」
こんな時、ふと心を開いてしまうような温かい言葉をかけてあげられたら、幸せだと思う。でも私にはやっぱりユーモアも思いやりも致命的に欠けていて、浅はかな私の言葉を無様に投げることしかできない。ちっとも進歩してない自分が嫌いだ。でも一つだけ確実に言えるのは、何も言葉を交わさないまま嘉良華リャカとお別れをした後に、無言で送り出した自分を正当化するであろう自分が、ダイッキライてことだ。
心の秤の針の先が、見えた気がした。これでもかと息を吸って、肺に空気を送る。
私の声よ、届け。
「嘉良華リャカは、私の一番の親友だ!!」
今の私が嘉良華リャカの親友に相応しいかは、どうでもいい。これからそうなってみせると私は決めたのだ。もし私が努力を怠れば、私が許さない。もう石ころだなんて絶対に言わせるものか。
声は届いただろうか。嘉良華リャカの歩みは止まらなかった。私に背中を見せながら、鴨川デルタの向こうへと歩いて行く。
私は妖精の後ろ姿を、消えるまで見つめていた。もう追いかける必要はなかった。あの空蝉を絶対に振り向かせてやると、私は心に決めたのだから。
鴨川デルタの先端に、わたしは座っている。そして、この物語をケータイで書いている。実はこの物語は、わたしがかつてオンライン小説投稿サイトで公開していた嘉良華リャカが登場する小説を基にしている。
これまで色々な嘉良華リャカを書いた。さっきは陽気でおしゃべりな嘉良華リャカを書いた。引っ込み思案な嘉良華リャカも書いたし、普段は冷たいけど根は優しい嘉良華リャカも書いた。それらは全てネット上に公開してある。次は少し趣向を変えて、奥手な男主人公と嘉良華リャカとの恋物語を書いてみようと思う。それでも足りなければ、わたしはもっと嘉良華リャカを書くつもりだ。題して、「嘉良華リャカを振り向かせよう作戦 第二弾」である。
書きたてほやほやの瑠璃音ルリノの小説を、嘉良華リャカは読んでくれているだろうか。これらの小説によって、嘉良華リャカは自らが冗長的な存在であると認識できるようになるだろう。そうすれば嘉良華リャカの小説によって感染する嘉良華リャカの人格にも、冗長性が生まれるはずである。つまりレシピのレパートリーを増やすことができるのだ。わたしからコピーされた嘉良華リャカというレシピが分厚くなれば、そこから生まれる料理も多様になる。幾通りもの嘉良華リャカの命が、世界中の人々の心に宿っていく。
人間は、読んだ本に少なからず影響を受ける生き物だ。自分には無いものを求めていた伊織瑞希は、源氏物語を鏡にして、自らに小説を書く意志が無いことを感じ取った。兄も、本を読んで人生が変わった一人であろう。もちろん普通の本であれば、影響には個人差がある。源氏物語を読んで、もっと源氏物語が読みたい人もいるだろうし、長くてつまらないと感じる人もいるだろう。
では普通の小説が個人に与える影響と、小説を介して幾通りもの人格が伝染することとの間に、何か違いがあるだろうか。伝染する人格を定義した人を、わたしは知らない。どこまでが陽気な人格が感染した人で、どこまでが登場人物の性格に誘われて陽気な気分になった人かなんて、きっと誰にも分からないさ。
この作戦が成功した時、嘉良華リャカは器を移る生命となり、人類の中に永久に生き続けることになるだろう。そうしたらわたしは、全人類と親友になるために長い長い旅を始めることにしている。今度こそリャカと親友になるために。
では、どこかで瑠璃音ルリノに会ったらよろしくね、リャカ。
2016/09/03 初稿