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冬の日常

作者: こくま

「あした雪降るんだって。やだね寒いのに」

週末に出かけた帰り道、駅から自宅アパートまでの一本道を、僕と並んでのろのろ歩いている彼女が小さな声を出した。彼女のアパートまではあと五分くらい。僕のアパートまでは、そこからさらに十分くらいだ。

まもなく午後十時になろうかという頃、彼女の口元には、白っぽい空気の塊が生まれては消える。白いマフラー、白いコート、寒いとか言いつつ丈の短いグレーのスカートに、黒いタイツと膝まであるブーツ。脚が綺麗だから僕にとっては見ていて気分が良いけれど、大丈夫なんだろうか。

「雪だよ、雪。知ってる?」

雪が降るというのに、どういうわけか嬉しそうな顔をしている彼女に向けて、僕はなるべく歓迎していないという表情が見えるように首を振る。これに限ったことじゃないけれど、彼女はいろいろな情報を得るのが僕よりも早い。

「え、知らないの」

「初めて聞いた」

天気予報なんて見ていないから……と続けようとした僕の背中を叩き、彼女が笑った。

「いい?雪っていうのはね、冬になると雨の代わりに降ってくる白いやつのことだよ」

「雪がなんなのかは知ってるよ……」

「あれあれ、ほんとに?」

よくあるパターンのやつだ。

彼女はいつだって妙なところから変な話をはじめる。どういうわけか普通の会話を良しとしないみたいなので、基本的に話が脱線してしまう。話をしていて退屈しないから、それは彼女の好きなところのひとつだ。

「……あした、雪降るんでしょ?天気予報見てないからそれは知らなかった」

彼女の不思議な会話運びは置いておくとして、雪が降るのはあまり好ましくない。寒いのは嫌いだし、雪のせいで通勤の電車が乱れるのはもっと嫌だ。

彼女も僕が明日の電車を気にしているのが分かるのか、ちらりと後ろを振り返った。

「朝の電車、終わったね」

視線の先には、ほとんど乗客を乗せずに走っていく電車が滑る高架がある。僕が利用するあの路線は、ちょっとした雨や風でもすぐに遅れる。雪なんか降ったらもう、十分や二十分の遅れでは済まないだろう。

「嫌だなぁ……」

彼女の視線を追うのをやめた僕は、ため息をついて正面に向き直る。

「なんで雪なんか降るんだろうね」

寒いというだけでかなり冬が嫌いだけれど、それでも雪が降ったりして交通に影響がなければ、僕としてはギリギリ許せる。けれど、雪が降るならもうダメだ。寒いし、雪だし、電車遅れるし、電車が遅れれば予定が狂うし。

「めんどくさい……」

またため息がでる。

電車が遅れるのを見越して予定を立てるのは、本当に面倒だ。雪が降るだろうという予報を知っている鉄道会社がなんとか対策して、運行に影響がないような手段を講じてほしい。

「まあまあ。ほら、雪が積もったらまた散歩しようよ」

つい憂鬱な気分に沈みそうになると、彼女の暖かい手がコートのポケットに入ってきた。

「散歩ね……」

ポケットのなかで指を絡ませつつ、真っ白になった川沿いの道を思い浮かべる。

アパートの近くを流れる川を挟んだ土手は、毎年雪が降ると眩しいくらい白く染まる。彼女とそこの雪面に足跡をつけるのは、今年で何回めだろうか。

「積もるかな」

「積もるでしょ。あしたじゃなくても、一回は積もるくらい降ると思う」

「まあ、平日じゃなきゃいいや」

そもそも、僕は冬にあまり出歩かない。というか、冬でなくても出歩かない。基本的にそういうタイプだからだ。

それなのに、彼女はよく僕をどこかに連れ出そうとする。電車に乗って遠出だったり、近くの土手や神社までのちょっとした散歩だったり。僕ひとりなら絶対に行かないところでも、彼女と一緒に何回も行った。

「あたしあれやりたいんだよ、あれ」

「あれ?」

唐突に、彼女が僕のポケットから手を抜く。

「うっすら雪が積もってるくらいのところでほら、こう……」

そう言いながら、両手をひらひらとゆっくり縦に動かす。羽根みたいなジェスチャーだ。

「あぁ……それね」

言いたいことはなんとなく分かる。いつだったか、ふたりで見た映画でやっていたやつだ。雪の降る地面に寝そべって、自分の身体で天使の姿の跡をつくるというシーンがあった。それのことだろう。

「寒いからやめときな」

雪の降るなか地面に寝そべるなんて、風邪を引くに決まっている。

僕がそう言うと、彼女は「本当にはやらないよ」と笑った。

「ちょっとやってみたいけどね、寒くなかったらやる」

「寒くなかったら雪なんか降らないよ」

「冬じゃなくても降るじゃん、氷みたいなの」

「雹だね。死んじゃうけど、やるの?」

「うひょー、命をかけてまでやりたくない」

笑いながら、また彼女が僕がのポケットに手を入れてくる。けっこうどうでもいい話だったけれど、わざわざ手をポケットから抜く必要があっただろうか。これもよくあることで、彼女はちょっとした話でも大袈裟なくらい身振り手振りで伝えようとする。見てて退屈しないから、彼女の好きなところのひとつだ。

「そろそろバイバイですね」

駅から三つ目の信号を渡ったあたりで、彼女がぽつりと呟いた。

彼女のアパートは、目の前の角を曲がったらすぐだ。

「おつかれさま。今日もありがとうね」

今日は、日曜日だからと少し遠くまで出かけた。彼女に誘われると、僕の移動範囲はどんどん広くなっていく。

「じゃあこのへんで」

そう言って立ち止まる彼女。ポケットのなかで、僕の手が少し引っ張られる。

「うん?」

いつものことだからなんとなく分かるけれど、僕はわざとらしく振り向いた。

彼女が僕を見上げるようにして、顔をこちらに向けている。

「ほら、早く早く」

いつの頃からか、なんとなくお決まりの流れになっているやつだ。ふたりで夜に帰宅するときは、彼女のアパートまであと少しというこの曲がり角でキスをする。ちょうど電柱や塀の陰になっているので、周りの家からは見えないのだ。

「ムードがないね」

いつもしていることだから、ここでのキスにどきどきすることなんてなくなった。とはいえ、やらないと落ち着かない。ここでしなくても、結局は耐えられなくなって、彼女のアパートの前ですることになる。

僕はポケットから手を出して、彼女の唇に軽く指で触れる。それから、柔らかい唇に小さくキスをした。

どちらかの部屋でするようなキスに比べるとかなり短い、一瞬だけのキスのあと、彼女がふんと鼻を鳴らして呟く。

「静電気チェックしたでしょ」

「よく分かったね」

キスをする前に唇を触ったのは、静電気を逃がすためだった。以前ここでキスをしたとき、唇どうしでバチっときたからだ。冬は乾燥するので、僕は静電気に悩まされることが多い。それは彼女もよく知っている。

「触ったときにバチっときたらどうするの?」

彼女が口を尖らせて抗議する。

そうなったら、僕は指、彼女は唇だ。彼女のほうがダメージは大きい。

「そしたら慰めてあげる」

「またテキトーなこと言って」

「お互い様だね」

いい加減なことを言うのは、彼女も一緒だ。

「さ、帰ろうか」

僕はそう言って、彼女の手をとるために自分の手を伸ばした。

触れた瞬間、指先に鋭い痛みが走る。

「……ここで静電気か」

手を振りながら呟くと、どうやらバチっとなったのを感じなかったらしい彼女が笑った。

「バチが当たってバチっとなったんだね」

「面白い?」

「ばっちりだよ」

得意げな顔で微笑む彼女を見ると、なんだか安心する。

いつものことだけれど、こんな風に、いつものことがいつも通りというのが、僕にとってはいちばん大事だ。

そういうのを与えてくれるから、僕は彼女が世界でいちばん大好きだと胸を張って言える。

「それじゃあ、またあとでね」

「帰ったらメールするから」

「うん」

アパートの扉の前に立って、彼女が僕の顔に手を伸ばす。

頬に指先が触れたとき、彼女は小さく悲鳴をあげた。

「ちくしょう、最後に静電気きた」

僕はなんともなかった。彼女だけにバチっときたらしい。

「あーあ、まったく。またね」

手を振りながら、彼女がぐいっと背伸びをして僕にキスをした。

何年か前ならお互い真っ赤になるところだけれど、挨拶程度のキスなら、もう何ともない。

これが普通。

普通にいつも通りだからこそ、いつも安心して一緒にいられる。

一緒にいて安心できるのがいちばんだ。

自分のアパートを目指して歩きながら、軽く触れただけの唇がほんのり暖かいのを感じた。

当たり前のように一緒にいるから、いなくなるのを想像できないくらい、絶対に離れたくないと思うほど、彼女が愛しくてたまらない。

そう思える相手に出会えたことが、普通に生きている僕にとっては、普通では考えられないくらいの幸福だった。


おしまい




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