逃亡セシ蝶 前編
街灯のない暗闇の中、月明かりだけを頼りに何かが駆け抜ける。息一つ乱さず、口元に微かに笑みさえ浮かべながら、彼女は只ひたすら前だけを見て走っていた。
突然夜の闇に銃声が響く。1秒前まで彼女がいた所に銃痕が残っていた。続けて2発、耳をつんざく様な音がするがどちらも外したようだ。
辺りにあるのは壊れた住居と焼け焦げた地面だけで、隠れられそうな所などない。もっとも隠れる気もないのか、彼女は視線をさ迷わせる事も足を止める事もしなかった。
4発目の銃声がして漸く彼女は立ち止まり、確かめるように少し離れた場所に立った木立を視線を向ける。
その後の行動は素早かった。
何のモーションもせず、彼女は両手から大きな炎の塊を出し木立に向かって打ち出す。そのままそちらには見向きもせずにその場から立ち去った。彼女の去った後、闇に響いたのは凄まじい悲鳴と重みのある何かが落ちる音、そしてパチパチと炎の爆ぜる音だけだった。
軽やかな足取りが止まり、彼女は目的の場所に到着した。
月の光が皓々と差すこの丘は、遮る物がなく何処よりも月を近く感じる。先端に立ち見下ろすと、先程燃やした木がまだ赤々と燃えていて目に眩しかった。
ピンと伸びた背筋とは裏腹に、彼女の纏う空気は柔らかい。
風が吹き、彼女の長い髪が浚われる。ザワリと木々が揺れ、それに紛れて背後に気配を感じた。
「来ると思ってた」
そう言い、彼女はゆっくりと振り返った。
「私を殺しに来たの? 煉」
薄い笑みを浮かべながら彼女は言った。
対して、少年―――煉は無言のまま彼女を見つめている。
見合ってどのくらいたっただろうか。微動だにしなかった煉がおもむろに口を開いた。
「何故、ここに?」
「見付けやすかったでしょう?」
「えぇお陰様で。斥候が幾人か無駄になりましたが…」
「あら残念ね」
「そうでもないですよ。おかげで貴女とサシで殺り合える」
「『殺り 合う』ねぇ…ちゃんと合えれば良いけど。退屈させないでね?」
にこりと笑みを深めると同時に、彼女は地を蹴った。
風を切る音がして彼女の蹴撃が左側から迫る。煉は片手で蹴りを受け止め、空いた脇腹に拳を繰り出す。その攻撃を軽く避け、彼女は振り向きざまに回し蹴りを加えた。
受けた両腕がビリビリと痺れる。間髪入れずに膝と頬に衝撃を食らい、煉は微かに苦痛の声を漏らした。すぐさま体勢を立て直し、続けて来るだろう攻撃に備える。
しかし突然攻撃が止み、煉は訝しげに彼女のいた方へ目を向けた。
「どこを見てるの?」
瞬間、背後から首筋を掴まれゾクリと背筋が粟立つ。
「殺ってる最中に相手から目を逸らすなって、何度も言ったじゃない」
彼女の口調は静かで、それどころかどこか楽しそうですらあるのに、煉は放つ殺気に押し潰されそうだった。
「楽しませてくれるんでしょう?」
ぐいっと煉の首を引き寄せ、彼女は耳元で囁いた。
「無論…」
右手を後ろに振り抜き、彼女と距離を取る。
予測していたのか、彼女は軽く地を蹴りそれを避けて音もなく着地した。
「…これからです」
鼻につく蛋白質の焦げた臭いがする。彼女の長い髪が僅かに燃えていた。
「炎の派生が速くなったね」
「貴女がいなくなった後も鍛錬してましたから」
軽く息を吐き、煉の右腕に紅い炎が燈る。
「いきます…」
今度は煉から仕掛けた。炎を帯状に繰り出し、彼女がそれを避けた所に間合いを詰め、すかさず顔を蹴り上げた。
ぐらりと彼女の上体が傾く。尚も攻撃を続けようとした瞬間、蒼い炎に足を止められた。
「くっ」
自らの紅い炎で相殺し、再び彼女と向き合う。彼女は既に体勢を立て直していた。
「俺を殺すのも躊躇しないんですね… 沙羅師匠」
彼女―――沙羅の左腕に纏い付く蒼い炎を注視しながら、煉はぽつりと漏らした。
「今はまだ死ねないから」
「そうですか」
「次で終わりにしましょう」
そう言った彼女の表情に、もう笑みは無かった。
ゆらゆらと炎が揺れる。蒼と紅、二つの 焔が混じり合い重なり中空に溶けていった。
ぶつかり合うは二人の炎術士。一人は長い黒髪を靡かせて、もう一人は何か堪える様な表情を湛えて。
互いに引く事はない。各々信じるものがあるから。
これは死合。決着が付く時、それはどちらかが息耐える時あるいは双方が力尽きた時。
死合の終わりは突然やってきた。
煉が体勢を崩したのだ。ぐらりと揺れた視界いっぱいに蒼い炎が広がる。
――――――ダンッ
叩き付けられた拳は地に伏した煉の顔の横だった。炎すら纏っていないそれに驚いた様な目を向け沙羅に尋ねた。
「何故止めを刺さないんですか?」
「別に…?」
「同情ですか?貴女に生かされるなんて真っ平御免ですよ」
(貴女 に生かされるんじゃなくて、貴女 と生きたいから)
続く言葉を呑んで、煉は沙羅を睨み上げる。小さく息を付き沙羅は答えた。
「別に同情なんかじゃない。ただ…こんな面白い死合に茶々を入れられんのが嫌だっただけ」
「………?」
沙羅の言ってる事が分からず、煉は目を顰める。
「さっきからそこに居るヤツ、いい加減出てきたら?薄汚い殺気が漏れてきてんのよ」
そう言って彼女は近くの藪を睨め付けた。
はじめまして、聖 樹です。
読んでいただきありがとうございました。
この『炎術士フタリ』は私の初投稿作品となります。かなり未熟な点も多いです。
一応、前中後三部作となるこの作品。良ければ中・後編とも宜しくお願いします。
ではまた、後書きでお会い出来る事を祈って…