第86話
攻撃のチャンス。
柚月は躊躇いもせず、膝をついたままの敵に駆け寄った。言われた通り、顔面を狙うつもりで拳に全霊力を込める。
ドゴォッ!!
突き出した腕がひび割れた地面に食い込む。想像とは違う手応えに、視線を這わせれば左後方へと跳んだ夏宮の姿を捉えた。
(……やっぱり、避けられるか)
いくら柚月が身軽でも、夏宮の回避能力が勝っていては意味がない。もっと早く攻撃するか、拘束するか、気を逸らすなりして、逃がさないようにしなければ。
ガッ!
柚月がかかとを打ち鳴らすと裂けた地面が隆起する。
それを蹴り上げ、掌底で殴りつけ、夏宮を狙う。高速で向かってくる岩盤にも臆することなく、敵は紅蓮の炎で振り払う。土も砂も灼熱に溶かされ、火の粉を散らす。夏宮の実力となれば、不用意に距離を詰めるのは自殺行為だ。確実に火傷するであろう間合いは、炎の結界と言ってもいい。柚月の周囲に輝く朱色の粒子が視界に入る。
(……これがなきゃ、近付く前にお陀仏だわ)
朱堂の援護がなければ、とっくに勝負はついている。最低でも彼の炎に対抗できなければ、勝利はありえない。
もちろん、そんなことはおくびにも出さない。敵に見せるのは勝利への確信。その一点のみ。当の夏宮はというと、不満を隠しもしない。しかめっ面のまま、柚月に問いかける。
「てめぇ……これから先、漣チャンの面倒を見るつもりかよ」
「何のことよ」
夏宮の動きを追いつつ、そっけなく返す。
「惚れた弱みで、ずっとあいつのいいなりか?」
「いいえ。漣のすること全てを肯定する気なんかない」
崩れた足場を跳んで避ける。こともなげに柚月はすっぱりと否定した。
東雲は他人だ。
信頼の問題ではない。
信じていても、尊敬していても、いつか目指す道を違える日が来るかもしれない。
それでも、
「今、あんたのしていることが、正しいと思えない」
だから、阻む。
澱みなく告げられた答えに、夏宮は歯ぎしりした。
「このクズが……ッ」
急に立ち止まった柚月が、ぴたりと指さす。夏宮の心臓を狙うように。
「単純な話よ。漣とあんたを比べて、マシだと思える方に手を貸す」
強烈な光を瞳に宿し、言い放つ。
正義のヒーローとは違う。相手の真意を知り、願いを叶えたい、支えたいと思う方に協力する。きっと、正しいことなんてない。けど、全て間違っているわけでもない。
必要なのは、自分で考えて答えを出すこと。そうでなきゃ、柚月は選べない。道を歩くのは自分自身。傷つくことも、戦うことも、代わりなんて誰にもできない。肩代わりさせるつもりもない。
その言い分が気に入らない夏宮の声音には、ますます苛立ちを募らせる。
「チビジャリが……この俺を、他の男と比べる気か?」
「なに。自分が、いい男だと思ってんの?」
柚月は、小馬鹿にするように笑った。
「あんた、つまんないのよ」
「――――ッ!!」
わざと意地悪く詰る言葉に絶句する。
夏宮ともあろう者が、一瞬でも黙らされた。いや、彼だからこそ柚月の意図を察し、言葉を失った。
痛烈な批判。
能のない男。
ただ壊すだけなら、子供にだってできる。誰が魅力的に思うものか。荒れた土地を癒やすわけでもなく、災難に喘ぐ人々を助けるわけでもなく。ただ己の渇きだけを潤すだけ。最も楽で、安易で、底の浅い、奥行きのない生き方。柚月は、そう断言する。おまえなんか、東雲の足下にも及ばない。彼よりも苦難の道を選んでいるのか。自分の思い通りにならないから、他人に当てつけているだけだ。そんな破滅的な男に、柚月は関心を寄せない。従わない。屈服しない。価値も認めない。邪魔をするなら、全力で叩き潰す。
夏宮にとって、これ以上ない屈辱だった。
「こ、の小娘がぁぁぁぁッ!!」
より強い輝きを放って、襲いかかってくる。おびただしい数の蛇が縦横無尽に這い回った。
柚月は横に跳んで、まず直線的に向かってきた炎を避ける。着地してすぐ、弧を描きながら夏宮へと駆け寄った。側面か背後へ回り、再度、攻撃を仕掛けるためだ。力も経験も桁違いの相手に、わざわざ合わせる義理はない。常に全力でぶつかっていく。それで、やっと倒せるかどうか。柚月の霊力が尽きる前に、夏宮を動けなくするしかない。
ほんのわずか、最後の瞬間が不安に翳る。
その一拍後、紅蓮の炎が消失した視界の中に。突如、夏宮が現れた。
「あッ!」
柚月の首を掴み、引き倒す。とっくに動きは読まれ、先回りをされていたのだ。
「ッ!?」
陽炎の空を背に、夏宮を見上げる。
どくり。
あの時の恐怖が蘇る。
火傷の痛みと死への恐怖。
足掻くことのできない無力感。
反射的に抵抗してしまう。呼吸もできないからこそ余計に混乱を深める。強く首を絞められ、失神寸前だった。
「死ね」
短く告げられた言葉に、過去の影が重なった。
それでスイッチが入ったかのように、柚月の中で憤怒の感情が爆発した。
(……あんなの、もう二度と繰り返したくない!)
柚月は、必死にもがく。この男の思い通りになんかならない。してやらない。なるものか。もう絶対に、諦めたりしない。
ゴッ!
朱色の炎が眼前を通り過ぎる。大量の火の粉をまき散らして、巨大な火柱が夏宮をかき消した。
「ぁッ!!」
開放された空気が一気に喉へ入り込んでくる。柚月は上体を起こして激しく咳き込んだ。真横から、ザッと靴底の音がする。相手は朱堂だった。
「次が来る。さっさと立て」
「はいッ……!」
急いで立ち上がる。若干ふらつくが気合いでごまかした。
隣に立つ朱堂には、普段の気遣いもお節介もない。それだけ夏宮が油断できない敵であり、柚月を足手まといとして扱っていないことを示していた。いつの間にか夏宮は、数十メートルも離れた場所にいる。軽く後方に跳ぶ敵を白夜が追いかけていく。
きっと朱堂と白夜の炎で引き剥がされたのだろう。柚月は、改めて気を引き締める。
(わかってたけど、とんでもなく強い……!)
いつ殺されても、不思議はない。
肩で息をする。
指先が細かく震えた。
それでも、一瞬だけ瞳を閉じてこらえる。まぶたを開いた後は、じっと前だけを見据えた。
ああ、本当になんて世界だろう。一瞬でも力を抜けば道は開けない。
さっきの攻防で、わかった。朱堂も全力でサポートをしているが、柚月のお守りをしてはいない。ダンスのエスコートのように、何から何まで面倒を見てくれるわけではない。夏宮の炎に対して、必要最低限の防御しかしていない。最高速度の攻撃をぎりぎりで見積もり、柚月の援護をしているだけ。言い換えれば、柚月が少しでも気を抜いたり、スピードを緩めれば、夏宮の攻撃をまともに受けてしまう。ここで朱堂を責めたくなったら、お門違いというものだ。彼自身も攻撃をしなければ、柚月ひとりでは夏宮の不意をつけない。また防御に長けた能力といっても、ここ一番という場面でのみ有効なのかもしれない。常に護られていては柚月に油断が生まれるかもしれないし、朱堂の霊力も長時間は保たないかもしれない。
いくつもの考えが頭に浮かんでは消える。どれも確信的な根拠はないが、柚月の勘が『短期決戦で勝負を決めろ』と告げていた。
「――――十分だ」
囁かれた小声に、柚月が顔をあげる。
「十分で漣が術を解除する。それまで、負けなきゃいいだけの話だ」
前を見たまま、朱堂は視線すら寄越さない。
全神経を夏宮に向けても、頭の中では冷静に打開策を練っていた。やはり、別行動をしている東雲が重要な鍵を握っている。
夏宮の目的は、地球と【月鎮郷】に接点を作ること。その場を作るため、四カ所に術式を編んだ巨石を置いた。
それを今、東雲が解除している。柚月たちの役目は、夏宮を釘づけにすること。東雲に手出しをさせなければいい。術が解除できるまで。
でも、
「いいえ」
柚月は否定した。
「漣ばかりに格好つけられちゃ、たまりません。術を解除する前に片付けちゃいましょう」
戦意に満ちた表情で、ぐっと拳を握る。ちょうどいいタイムリミットができた。東雲ばかりに頼っていられない。
こっちこそ、夏宮を動けなくして待っていればいい。術を解除してから「あら。やっと終わったの?」と言えば、鼻をあかしてやれる。柚月が本気でそれを実行しようと決めた時、隣からブフッと奇妙な息が洩れた。
「いいな。それ」
横に並ぶ朱堂が肩を震わせ、とても楽しげに笑った。嫌いではないらしい。




