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第80話






 ぱたぱたと駆ける自分の足音に耳を傾ける。

 一心不乱に、足を動かした。


 頬が熱い。

 身体中が熱い。

 何かに集中していないと、さらに熱が上がりそうだった。


(私、い、いま……今、れ、漣と)


 頭の中は、とっくに沸騰を通り越している。ぐらぐらと血が煮えたぎって、どうにかなりそうだ。

 柚月は、ひどく狼狽えている。時間が経つにつれて、先ほどの記憶を別の視点で捉えることができたからだ。東雲の真意を知り、柚月も答えを出して、共に在ろうと決意した瞬間。


(……私、あいつとキッ、キッ、キッ)


 思考の中でさえ、その行為を言葉にすることができない。それくらい柚月にとっては恥ずかしい出来事だったのだ。別に、彼への言葉はでまかせだったとか、誓いが揺らいだわけではない。戦うと決めた気持ちは今も変わりない。ただ、どうしようもない羞恥心が身体中を駆け巡っている。今だって、この庇の上を転げ回りたいくらいだ。


 何故、あんなことになったのか。突然すぎて追いつけないし、抵抗しなかった自分が不思議で仕方ない。彼を受け入れたこと自体は、後悔していない。恐怖も嫌悪もない。東雲との距離を縮めたいと思った。彼の気持ちを知りたいとも思った。

 けれど、あんな形での確認を望んでいたのかと思うと、柚月は首を傾げるしかない。


(は、初めてだったのにッ)


 東雲の仕草は、あまりにも自然で唐突で、ふたりの関係性を決定づけるには性急すぎる。その誓いだけで判断できないはずだ(実際に、柚月は盛大に迷っている)。ましてや、ろくに異性を知らない初心の少女としては、もっと目先のことしか考えられない。


(……初めてだったのにッ)


 少し、恨みがましくなってしまう。ファーストどころか、セカンドもサードも奪われてしまった(と、思う。たぶん。よくわからないが)。こんなことは、もっと先の未来だと思っていた。側にいる誰かを異性として意識して、恋に落ちて、両想いになったら、時を重ねて、触れ合うような一回だけの口づけ。


 ぼんやりとした輪郭のない期待があった。それなりに夢を持っていたんだと苦笑する一方、柚月は気付く。


 もし、東雲と出逢わなかったら。彼以外の男性に、これ以上の気持ちを持てるだろうか。東雲へと寄せるのは、尊敬と信頼の心。折れることのない信念の強さと、無上の優しさを知ってしまったから。彼の想いを支え、願いを一緒に叶えたい。

 そして、今にも心臓をつき破るような、甘く痺れる、この熱情。

 地球だけの世界で生きているかぎり、この想いは手に入らなかった。東雲が異世界の人間だからこそ、証明できる。そして、これから生まれた地で彼以上に想いを寄せる人物が現れるだろうか。


(……そんな人、いない気がする)


 熱に浮かされた少女は、想いに酔いしれる。

 その感情に名前をつけることもせず、ただ持て余すだけ。東雲の気持ちすら、考える余裕はない。または、彼が柚月を軽んじてはいないと信じきっている無意識の自惚れだった。

 触れた唇をなぞり、確かめる。柔らかくて、熱を帯びたそれで塞がれた。


 今、わかったことがある。学校で春日に抱き締められた時、


 ここじゃないと思った。


 幼馴染みの腕の中にいた時、胸がざわついて落ち着かなかった。知らない温もりや匂い慣れていないことはあるだろう。それ以上に、心が知っていた。


 家族とは違う。

 友人とも違う。

 もっと、強い気持ち。

 胸を締めつける甘い痛み。


 欲しかったのは、きっと東雲の



「ッ!!」



 ボンッと爆発するように、頬に熱が集中する。あまりの急激な変化に、額やこめかみから湯気が出そうだった。


(そ、それってつまり……)


 ようやく、東雲との距離を正確に捉えた。あとは、のたうち回るだけである。


「いやぁぁぁーッ! なんか、いろいろ早まった気がするーッ!」


 熱の冷めない頬を押さえながら、叫ぶ。わかったところで、どうにでもなるものではない。皆無と言いきれるほどしか経験のない少女は、ひたすら狼狽えて混乱するしか道は残されていないのだ。








「来たぞ。来たぞ」


「来たね。来たね」


 ひそひそと囁くような声音が聞こえた。鈴を鳴らすような可愛らしい笑いと一緒に、柱の影から子供ふたりが現れた。どちらも同じ顔で、角髪(みずら)に結い、狩衣を身につけている。見た目からして少女がわざわざ男装しているようだった。柚月は不思議ないでたちの双子をまじまじと見つめてしまう。

 すると、その片割れが唐突にふんと鼻で笑った。


「ふん。雪兄め。姫さまの言いつけを破ったな」


 黒目がちで大きな瞳には強い好奇心を宿し、口調もすっぱりとしている。


「うん。だから、早いのね。戸惑ってるのね……」


 もう片方は困ったような上目遣いで、弱々しい声音で後に続ける。


「大丈夫だよ。柚月」


 小さな励ましと共に軽く指先を握られた。


「あなたたちは……?」


 目を瞠った柚月が訊ねてみても、不思議な答えが返ってきた。


「おまえを待っていた」


「私の姫さまに会いにきたの?」


 すっぱりとした物言いと、自信なさげな問い。しかし、『姫』という単語が正体を探るヒントになった。


「りっ……じゃなかった。あなたたち、苑依姫の?」


 ひょっとして、彼女の弟子だろうか。もしそうなら、さっきの謎な言動も頷ける。

 普通の子供とは違う。

 他の『何か』が視えているとしたら。そこまで考えつくと同時に、威勢のいい少女が笑ってみせた。


「妾は、(なぎさ)!」


「わ、私は、(なつめ)……」


 歌うように名前を明かす少女は、妙におどおどしている。自信がないのか、ものすごい人見知りかは判別できない。そこで、渚にも手を握られた。


「妾の姫さまに会わせてやる!」


「こっち。こっち……」


「あ、ちょ……ちょっと」


 なかなか強引だった。ふたりがかりで、ぐいぐいと柚月を導く。動きにくい中腰で追いかけていると、突然、くるりと後ろを向いた。


「出てこい」


「え」


「言うべきことがあるのだろ? 早くしろ。柚月は、妾の姫様に呼ばれているのだ」


 厳しい渚の言葉で、向かいからおずおずと姿を現す。顔に覚えのある三人の娘たちだった。以前に着替えを手伝ってくれた女性たちに混じっていた……

 南都から流れてきたと耳にしたけれど。


 何故、彼女たちはここにいるのだろう。渚のいうように、自分に用があるのだろうか。


「言った方がいいよ」


 棗が、側に寄って話しかける。


「勇気を出して。大丈夫。柚月は、あなたたちを傷つけない」


 弱々しい口調なのに、言葉自体には迷いがない。とっくに全てを見抜いているような、妙な説得力がある。それを娘たちも察したようで、そろそろとではあるが柚月の前へ歩み寄った。まさに、眼前まで距離を詰めた時。きゅっと唇を一度だけ引き結んでから、


「……ありがとう」


「えッ」


 唐突のお礼に柚月が面を食らう。彼女たちに感謝されることをした覚えはないのだが。柚月が戸惑っていると、少女が握っていた右手を差し出してきた。渡すものがあると視線で告げられ、おもむろに掌を見せると。


「これは……」


 柚月の手に落ちてきたのは、制服のリボンだった。昨夜、負傷した老人を介抱した時に包帯代わりにしたもの。顔をあげれば、少女がぶっきらぼうに呟く。


「……あなたが助けてくれたの、あたしのじいちゃんだから」


 ありがとう。

 蚊の鳴くような声音で、二度目のお礼を言われた。


「わたしの弟も助けてくれて、ありがとう」


 継いで、お礼の言葉を口にするのは別の少女だった。

 すぐに何のことか思い至る。同じ昨夜の出来事だ。夏宮に襲われた少年を助けた。その彼の姉らしい。偶然すぎる奇妙な縁に、柚月は戸惑った。彼女としては、普通の行動を取っていただけだ。見返りなんて期待していなかったし、夏宮と対峙したことも後悔していない。

 なのに、向かい合う少女たちの顔が苦しげだった。柚月は、そちらの方が辛い。


「だから、あの……」


「いいの。気にしないで」


 躊躇いがちの謝罪を柚月は遮った。

 他意はない。悪意からでもなく、彼女たちが負い目を感じる必要はないと思ったからだ。返してもらったリボンを襟に通し、結び直す。

 そして、思ったことがするりと口から零れ落ちた。


「私、頑張るよ」


 言葉少なに宣言すれば、少女たちはぽかんと惚けたような表情を浮かべる。口にした意味がわからなかったようだ。


「あなたたちが何の気兼ねもなく、自分の幸せを考えられるようになるまで。この郷に争いがなくなるまで」


 戦うよ。

 こともなげに吐かれたセリフに、少女たちは目を丸くした。その表情を不思議に感じつつも、柚月は笑みを浮かべる。これ以上に負い目や責任、無力感などを残さないために。


「……どうして」


 だが、少女たちはあくまで繰り返す。


「どうして……そんなこと言うの?」


 あなたは、異世界の人なのに。

 柚月の方こそ、何故、それを訊ねてくるのか『わからない』。彼女たちといい、長谷川といい、そんなこと『意味もないこと』を。


「私が、そうしたいって思ったの。だから、そうするって決めたの」


 他に、理由はない。

 全ての事情も感情も受け入れて、常識や偏見や諦めを捨てて。最後に残ったものを柚月は選ぶ。自分自身が『そうしたい』から。本当の気持ちを無視して、ごまかしても、救われることなんて何ひとつない。

 胸にある本心が、いいとか悪いとか、許されるとか許されないとかは、関係ない。柚月は、それだけでは納得できない。

 傷ついても、それを取りに行く。試してみたいから。


 他の人間も似たような結論を得ているのではないか。柚月は、自分自身が非常に稀有な経験をしていることを失念している。だからなのか、目の前で驚愕する少女たちの真意を理解できない。


「もういいだろう。行くぞ!」


「あッ」


 待ちきれない子供たちが、柚月の手を引っ張る。そのまま連行されそうなので、慌てて振り返った。


「きっとよ! 約束するから!」


 柚月の張り上げた声に少女たちは戸惑っていた。


 それでもいい。

 いや、それがいい。

 これから証明していけばいい。


 柚月が自ら選んだ道を。









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