第78話
信じてるよ。
本当は、ずっと前から。認めたくなかったんだ。だって、気付いちゃったら、すごく怖いことだから。
利用されてもいい。
そんなの、普通の発想じゃないと思った。
あなたを信じて傷つくのも怖かったし、斬り捨てられるのも怖かった。だから無理して否定してたけど、すぐに認めちゃえばよかった。そうしたら、私の気持ちなんて簡単にわかったのに。
利用されたり、裏切られるのを恐れる理由。
そんなの、ひとつしかないね。
早く、気付きたかった。
悩みながら歩く道の途中、振り返って、あなたの元へ駆け寄って。顔を覗き込んだ、今なら。
あなたの気持ちが、よくわかる。
言えなかったよね。
事実を必要としてない人間に理解を求めたって、受け入れてくれるはずないから。
優しくできなかったよね。
中途半端に対等な関係を築いてたら、あなたを好きになってたかもしれないから。
それも、きっとうわべだけ。郷も、地球も、あなたも、私も、どうでもよくて。あなたと一緒にいたいって、あなた以外はいらないって。ずるずると身勝手な愛情だけを欲しがるだけ。
郷の掟を知った時、疑うだけの私にひと欠片の弁明もしなかったね。
あなたは振り返らなかったけど、すごく苦しかったでしょ。郷の歪んだ掟まで背負って、ありのままの異世界を見せることが、当時のあなたにできる最大限の誠意。泣いて難詰する私から目を逸らさなかったのは、罪悪感がないとかじゃなくて。私の気持ちを全部、受け止めようとしてたんだよね。一瞬たりとも見逃さないように、取りこぼすまいと神経を研ぎ澄ませて。
『……言いたいことは、それで全部か』
あの言葉も、拒絶の意味じゃないでしょ?
言いたいことがあるんだろ。全部、残らず吐き出せ、って。
私に考えるきっかけをくれたんでしょ?
全ての責任、あなたひとりだけで引き受けるつもりだった?
ごめんなさい。
いつまでも気付かなくて。謝ったって時間は戻らないって、わかってる。
もう、やめるから。
自分の足で立ってみる。
歩いてみる。
走ってみる。
戦ってみる。
あなたに頼りたくない。
傷ついてもいいんだ。
他に、怖いことがあるってわかったから。
あなたのことも、あなたの気持ちも、わかってるよ。
本当は、ものすごい面倒くさがりなんだよね。他人と会うの、嫌いなんでしょ。
身体を動かすのも好きじゃないし、手先を使う仕事なんか大嫌い。
口が悪いのも元からで、上品な会話なんかしてると疲れちゃう。
できることなら、穏やかで平凡な生活をしてたいんだよね。猫みたいに自由気ままに毎日、起きて、食べて、寝て。日なが一日、書物を読んでたりしたいんでしょ。
いいよ。それ。
その夢、一緒に叶えようよ。
何かを壊すより、奪うより、傷つけるより、ずっといい。
でもね。
ひとつだけ聞いてほしいんだ。私の我が儘。
あなたのこと、全部わかってても訊かなきゃいけないこともあるんだ。
局に降り立った柚月は、しばらく庭を眺めている。
この景色を初めて見た時、驚いて寄りかかった縁から転げ落ちた。
あの頃は思いもしなかった。彼への想いが、こんな形で変化するなんて。
「ありがと。約束、守ってくれて」
後ろに控えているであろう東雲は何も言わなかった。
きっと、いつもの仏頂面なんだろう。でも、柚月は気にしない。気にならない。
召喚してくれたことも、それを待ってくれたことも、感謝している。まず、それを素直に伝えたかった。
「ね、漣」
柱によりかかり、短く名前を呼ぶ。踵を返してから、ゆっくりと口を開いた。
「訊きたいことがあるの」
ふわりと春の風が吹く。暖かくて、心地いい。
柚月も同じ気持ちだった。
それでも。
「教えて。あなたが【彷徨者】を召喚しようと思った理由を」
振り返って、柚月は知らなければならない。
これからの道を歩くために、避けては通れない。東雲の口から直接、聞かなければ選べないと思った。
彼も予想していたらしく、わずかに視線を落とす。何から話すべきか、悩んでいるようだった。
「……正直、僕は郷の未来なんてどうでもよかった。世界は、僕のために何もしてくれなかった」
訥々と、過去を語り出す。
内乱が長引き、子供ひとり生きていくには過酷な状況だった。泥水の上澄みをすくい、虫や鼠……生きているものは何でも口にして。頼る者も、守ってくれる者もいない。通りすがりの貴族たちは、汚い目で東雲を見る。
彼は、憎んだ。
郷も、掟も、人間も。
自分を取り巻く存在全てを憎んだ。
そんな時、燐姫に拾われ、術者を目指す。 安易に生きる道を選んだ彼は気付く。このまま進めば、いずれ自分が憎んだ存在になることを。
それを認めたくなくて、変えたくて、燐姫に反抗した。彼女も、郷の召喚士だ。東雲が嫌う存在であり、呼び寄せた【彷徨者】など異形の怪物も同然だった。
荒れる郷に耐えきれず、師匠と袂を分かつ。それが永遠の別れになることなど知るよしもない。
燐姫が亡くなると同時に、内乱は鎮静化する。東雲には彼女の生命と引き替えのように思えたという。
だが、彼を苦しめたのは別のことだった。有力な術者や貴族が死に倒れ、戦場と化した政局を動かせる者がいない。空に凶星を詠んだ東雲が御門家へ乗り込んだ時、全ての責めは燐姫になすりつけられていた。
あげくの果てには、弟子である東雲も同罪だと言われ罵られる。償いに、その身を郷に捧げろと要求してきた。
腸が煮えくり返るような憎悪が芽生えた。
自分たちが引っ掻き回した郷を他人に後始末させるつもりだ。怒りを通り越して呆れるしかない。それでも、東雲は憎しみとは正反対の選択をした。
すぐ気付くことだ。
「ここで僕が役目を断れば、もっと若く未熟な術者が新たな犠牲となる」
誰もが予想できる未来だ。
あんな吠えるだけの畜生どもに政を任せていては、今度こそ郷が崩壊する。未熟な術者が【彷徨者】を召喚したら、また終わりのない戦が始まる。
理不尽な掟に異世界の住人が利用される。あるいは、私欲に目が眩んだ【彷徨者】が郷を支配しようと目論むかもしれない。
そうなれば、互いに討って討たれて。
螺旋の殺戮がいつまでも続き、果てるだけだ。
「僕の手が届かないところで、また同じことの繰り返しになる。異世界から召喚された【彷徨者】を利用し、際限のない破滅の争いが続く。燐姫が……僕の姉ともいえるひとが生命賭けで、護ろうとした世界だ。それだけは、どうしても避けたかった。断ち切りたかった」
始まりすら残っていない郷の掟。
歪んでしまった理を禁じたところで、いつかはきっと誰かが封印を破る。禁じられた意味も知らぬまま、術に頼り、己の身どころか周囲も巻き込んで反動を受ける。
そんな悲劇に我が師匠は生命を賭して、歯止めをかけた。複雑な感情は胸の中に潜んでいるけれど、無視もできそうにない。
彼女の死を明確に感じとった瞬間、東雲は気付いた。自分は、きっと燐姫のようにはなれない。
生きていたら、彼女が歩いたであろう道は永遠に閉ざされた。知る術がない。
暗澹たる世界に立ち尽くすも、東雲はある時ひと筋の光が見えた。
燐姫ではないからこそ、選ぶ道の先は全く違う結果になるのではないか。邪魔者扱いされた自分だからこそ、今までにない未来を描けるのではないか。
その可能性が、東雲の心を動かした。
「問題は、当然あった。僕は【九衛家】の血筋ではないから、最大限に行使できる権限は治安維持の任しかない。郷の事情など知らない第三者……【彷徨者】を呼び入れることが前提条件だったんだ。同時に、わかってもいた。利用するには善人も悪人も、利己的な人間でも、郷の未来は変えられない」
善人では、理不尽すぎる郷の掟を理解できない。
悪人では、最初から扱いが難しいし、契約自体を反故にされる恐れもあった。
歴代の召喚士たちは気付いていたのだ。
利己的な人間は、扱いやすい。望むものを与えてやれば、大抵の指示には従う。恩を着せれば、なおのこと。わざと地球との縁が切れかけた人間を選ぶ。そして、郷の術者はこぞって【彷徨者】に無制限の快楽を与える。
利己的な人間なら、生命を賭けて戦うだろう。だが、先を見通す目を持ち、順応力に優れた朱堂ですら、郷に変革をもたらすことはできなかった。
東雲が唇を噛む。
伏せていた顔は苦悶に歪んだ。腹を裂かれ、中身を掻き回されて激痛に耐えるような表情。
「僕は、諦めきれなかった。他に、もっと違う道が残されていないか考え続けた」
実に、酷い、醜い理由だ。
郷の掟と東雲の血筋では、思うように動きが取れない。政治の中枢に食い込むには、召喚士でなければならなかった。
役職を奪うために、異世界の住人を利用する。
本末転倒の矛盾した考え。
だが、行き着いた途端に、東雲は別の道が見えてきた。
違う条件で探せばいい。
力でもなく、恩を売るわけでもなく、情に縋るわけでもない。
朱堂や夏宮とは違う、理不尽や不公平を許さない、
弱い者の心を思いやり、自らの意志で道を歩く、新しい【彷徨者】を選べばいい。
東雲が立ち上がる。
ゆっくりとした足取りで、こちらへ向かってきた。
「君だけが、僕の希望だった」
両の掌を見せ、柚月を求めるように彷徨う。ただし、すぐに立ち止まる。
息を呑むほど真剣な表情で訴える。自分には、まだその資格がないということに。
柚月も、まだ決められない。受け入れるか否かを考える前に、確認するべきものがたくさんあるから。
「どんな理不尽な事実からも目を逸らさず、弱者の心に寄り添い、現状に満足せず、よりよい未来を模索する」
東雲には、それだけでよかった。
それだけが、欲しかった。
夏宮のように、全てを叩き潰す力などいらない。
朱堂のように、全てを見通す目などいらない。
今、側にいる人たちの手を握り、理想の世界を夢に描き続ける。
常に上を目指し続ける、不屈の精神。それさえ、あれば。
絶対に、郷の未来は変わる。
「だから、君を選んだ」
他の人間では無理だった。
柚月でなければならなかった。
それが、東雲が選んだ答え。




