第69話
かたんッという小さな物音に、柚月は顔を上げた。
「あの、お師匠さまは……?」
「今、眠ったんだけど……ごめん。何か、用事だった?」
おずおずと局を覗き込んできたのは、宗真だった。
中の様子を見るなり、目を見開く。何故か東雲の寝顔に驚いたようだった。柚月の耳に先刻のやりとりがまだ残っている。
『そろそろ君を帰さないと……』
『いいの』
東雲は、あくまで地球に帰そうとしていた。それを遮ったのは意外にも柚月の方だった。
彼の手に触れ、そっと握る。
『大丈夫。私は、ここにいるから。もう少し眠って』
理由は、自分でもよくわからない。
ただ今は彼と離れたくなかった。この手を離しても、東雲が側にいる。その確信を得られるまでは、帰りたくなかった。
渋る東雲を半ば強引に横にさせ、安静にするよう促す。彼が眠りに落ちるまで、ずっと手を握ったまま。
東雲も、普段のひねくれっぷりは影を潜め、おとなしくまぶたを閉じてくれた。しばらく他愛のない話をして、意識が途切れる寸前に柚月が約束を切り出す。
『お願い。もう一度、私を呼んで』
きっと、もう一度。
自分は、この【月鎮郷】へ召喚される。
いや、自らの意志でここへ来なければならない。
根拠はない。明確な理由もない。直感的に、そう思っただけだ。それでも、東雲も小さく『ああ』とだけ呟いて、眠りに落ちた。他の人なら、ちゃんと聞いていたか疑わしくなるような反応の薄さ。もちろん、以前の柚月なら「ちゃんと聞いてんの?」と東雲をたたき起こしていただろう。
でも、そんなことはしなかった。漠然とした勘だが、きっと東雲は約束を護ってくれる。
何の根拠もなくたって、彼を信じられる。
少しだけ容体が回復してきたのか、東雲の寝息が規則正しいものに変わっていた。
「……薬湯、無駄になっちゃいました」
「ごめんね」
局に入ってきた少年の手の中には、大きな器がある。きっと鎮痛や鎮静の効果がある薬を煎じたのだろう。
今の東雲には、休養が必要だった。宗真によると、火傷によって大半の止血はできていたという。縫合する必要はなくなった。それでも、強引な治療には変わりない。直前まで術を使い続けていたこともあり、失った霊力や体力を取り戻すには時間がかかる。
なのに、宗真は嬉しそうな表情を浮かべた。
「いいえ。むしろよかったです。熟睡してらっしゃるようなので」
「えッ」
「お師匠さま、眠りが浅い体質なんです。体調が悪かったり、怪我の時には薬湯を煎じないと眠れないほどで……治安維持というお役目のせいかもしれません。きっと、お心を休められない状態なんだと思います」
少しだけ困ったように笑う少年に、柚月は何も言えなくなる。
もっと早く気付くべきだった。
「そっか……そうだよね」
また知らされた。
あの眠たげ瞳に、そんな辛い意味が込められていたなんて。
どれだけ強く覚悟していても、絶対に拭えないものがある。きっと夜がくる度に、眠れぬほどの不安に襲われるのだろう。夢を見ても、心が癒されることはなくて。
夜具をかけ直しながら、柚月は眉根を寄せた。
気を抜いたら、また涙があふれそうだ。
(……いつも、どんな気持ちで目が覚めるのかな)
不安だらけの夜が明けても。
疲れすら癒せない心身で見つめる朝日は、すごく辛いに決まっている。それをひとりで抱えて、呑み込んで、自らを奮い立たせて。
そんな気力を絞り出す心境を、柚月は想像できない。兄とそれほど変わらない年齢なのに、東雲はひとりで郷の未来を背負って歩いている。
柚月は、今までの自分を思い返して情けなくなった。
過去に一度でも、東雲を思いやったことがあっただろうか。彼の深い苦しみや痛み、不安、焦燥、憤りなどを考えたことがあっただろうか。いろいろな理由をつけて、柚月の方が拒絶していた。東雲の心に触れる努力を怠っていた。
あげくの果てに、柚月のせいで、彼に一生残る傷をつけてしまった。
目が眩むほどの後悔。
そんな考えばかりが頭の中を占めている。
「でも、柚月さまの側は違うみたいですよ。こんなに安らかなお師匠さまの表情、見たことないです」
にこにこと笑う宗真の言葉で、あっさりと霧散してしまう。
そう。
もっと目を凝らして耳を澄ませば、わかることだった。
昏々と眠り続ける東雲の表情は安らかで、ようやく歳相応の青年に見える。柚月も無意識に気付いていたと思う。いつも飄々としている言動の裏で、どれだけ彼が神経を張り巡らせていたか。
本来、郷の召喚士と【彷徨者】は馴れ合うことなど決して許されない。
掟の真意からすれば、召喚士はいつ寝首をかかれるかわからない。生命を狙い、狙われている状況下で、眠れる人間なんていやしない。
ましてや張本人である【彷徨者】の目の前で。
ようやく、東雲の真意が見えかけた。どれだけ自分を信じてくれているか。わだかまりは、まだ残る。それでも、何か努力すれば結果が変わるかもしれない。
特別な根拠はないけれど、そんな淡い期待が胸の中に存在している。
だから、まずは一歩だけ踏み出してみよう。
「……宗真、ちょっといい?」
「あ、はい」
視線で局の外へ出るように促す。これ以上は、東雲の眠りを妨げたくなかった。
宗真も察してくれたようで、ふたりでそろそろと動き出す。
「…………」
なのに、柚月の動きが止まる。それに気付いた宗真も不思議そうに首を傾げた。
「…………」
一拍おいて、宗真と共に後ろを振り向いた。
両者の視線は、柚月の右手首。東雲が握ったまま、離してくれない。熟睡してはいるようだ。微かに寝息も聞こえる。ただし、がっちり掴まれて動けない。指を引き剥がしたら起きてしまうかもしれないし。
「もう」
柚月は困って、頬を膨らませた。
一応、気を遣ってやったのに。もう構うものか。目の前で訊いてやる。
「……ねぇ、宗真」
「は、はいッ?」
改まった口調で話しかけると、向かいに立ったままの少年はびくりと肩を震わせた。
「さっき、言ってたよね。私は誤解してるだけだって。漣が私について言ったことがあるなら、教えてくれないかな」
夏宮の襲撃を受ける直前。
消沈した自分に、宗真が口にしかけた言葉。
それが急に気になった。思い切って訊ねてみると、目の前の少年は一瞬だけ困ったような表情を浮かべた。
「えぇと、その確か……」
額に手を当てながら、記憶を探る。
どうやら宗真が伝えたかったことは、柚月を【彷徨者】として初めて召喚する直前の東雲の言葉らしい。当時、邸にいる全員を集めて、こう告げた。
『これから、僕が呼ぶ【彷徨者】は異世界より来た娘だ。世界の理も、考え方も違う。君たちには理解し難い行動をすることもあるだろう。けれど、彼女が何をしても迷惑でないかぎり、好きなようにさせてやってほしい』
そう言って、東雲は頭を下げた。
邸の主人である彼なら、宗真をはじめとする目下の者たちに命令すればすむ話だ。わざわざ使用人たちに頼む必要はない。
何より、宗真たちが驚いたのは別のことだった。
「皆、驚いたんですよ。郷の歴史に名を残す【彷徨者】のほとんどが大柄の屈強な男です。お師匠さまの口ぶりで、まず姫君をお迎えする気でいることに驚いて。召喚された後も、お師匠さまより年下で未婚の方だということにまた仰天して……」
早口でまくし立てたものの、後半になっていくにつれて段々しどろもどろになる。話している内に、何を言いたいのかわからなくなってしまったのだろう。
興奮した顔を赤らめ、探るように視線を投げかけてくる。
「ゆ、柚月さま」
おずおずとした態度で、宗真は声を絞り出した。
「ぼく、柚月さまともっと一緒にいたいです」
愛の告白ともとれる言葉だが、柚月は一瞬だけきょとんとして特に勘繰ったりしなかった。かけ値なしの素直な気持ちからくる願いだと知っているから。
けれど、宗真がそれに気付く余裕がない。視線を伏せたまま、再び口を開く。
「ごめんなさい。ぼくの我が儘なんです。郷の掟は、きっと柚月さまを苦しめてるのに……こんなこと口にしても迷惑なのは、わかってます」
「でも」と、続ける瞳は今にも涙があふれそうだった。震える声音のくせに、瞳はとても真剣で強い意志を感じ、目を逸らせない。
「ぼくにとって、柚月さまは郷の未来なんです。貴女を見ていると、気付かされるんです。ぼくたちがしたいこと、しなければならないこと、してはいけないこと……たくさんの問題があって、いっぱい考えることがあって、でも柚月さまの言葉と行動で、少しずつですけれど答えがわかりかけてきて」
柚月は、何も言わなかった。言えなかった。
彼は、ちゃんとわかっている。
郷の問題は、郷が解決すべきこと。その土地に生きる者が、自分たちの未来を選び取らねばならない。いくら力があるとはいえ、異世界から召喚した第三者に委ねてはいけない。
自らの足で立ち上がり、夢に描いた未来へと歩いていく。地道に努力することを忘れず、大きすぎる覚悟と期待を背負って。
柚月は漠然と感じた。
国を治める者に必要な『何か』を彼は持っている、と。
「自由とか平和とか、言葉自体は知っていたけれど、本当の意味は知りませんでした。柚月さまと出会わなければ、それすら気付かなかったんです」
戦乱の世に生まれた少年は、知らなすぎた。過酷な状況は日に日に彼を追い詰めていって。夢とか希望とか。そんなひと筋の光すら信じることを許されなかった。
誰もが安心して暮らせる世界。その尊さを知るのは、皮肉にも実際にその世界に生きる者だけ。
巻き込まれただけの人間は、今を生きるのに必死で、何かに縋ることさえ忘れていく。
置き去りにされた言葉。本来の意味を知るには、遠すぎる世界。
胸を刺すような痛みに耐えながら、柚月は黙って耳を傾けていた。宗真の気持ちを、ほんの少しだけなら理解できる。
世界のこだわりを解いて。矛盾も痛みも弱さも、全て受け入れて。心を傾けたからこそ、わかる今。
「だから……だから……ッ!」
「宗真」
懸命に言葉を紡ごうとする少年の肩に手を置いた。
「ありがと。そう思ってくれてるなら、すごく嬉しい」
顔を覗き込んで、軽く笑ってみせた。我ながら力の抜けた無残な演技だったと思う。対する宗真は、表情をより不安げに曇らせる。おそらく、うっすらと察したのだろう。柚月が言葉の裏に隠した気持ちに。
ごめんね。
まだ、私の答えが見つからないの。
宗真の気持ちは純粋に嬉しい。ただ、それを受け入れることがまだできない。
柚月自身に考えるべき問題がある。その結論を待ってからでなければ、どちらを選んでも宗真を傷つけるだけだ。
それに、決めた答えを一番最初に告げるべき相手は、東雲だと決めている。
何も変わっていない。
でも、何かが変わった。
雨は、いつの間にか止んでいた。局から、わずかに星空が見える。さっきまでは、あんなにも無機質に思えたのに。柚月はそれらを違う気分で眺めていた。
間違いを犯した。
これから一生、消えない傷になるだろう。今も、それを正す方法も直す方法も今はまだわからない。けれど、その代わりに漠然とした不安感もなくなった。
どうしたらいいか。
そればかり考えていた以前とは違う。頭の中の靄が晴れたような心地だった。
もちろん、問題は何ひとつ解決していない。けれど、進展していない今を素直に受け入れることができる。過大も過小も評価していない。諦めているわけでもない。
ただ、ある考えに行き着いただけ。
もしかしたら。
東雲や宗真、朱堂に夏宮でさえも、彼らは自分の信じる『何か』のために戦っているのかもしれない。
各々が考え抜いて、『こうしたい』、『こう在りたい』という信念で動いているとしたら。
温もりが伝わってくる右手に視線を落とす。深く眠り続ける東雲の安らかな表情。ようやく彼が背負ったものの大きさがわかった。ほんの少しだけ心に触れることもできた。
手を強く握り返した柚月が思うことは、
(……決めなきゃ)
これから自分がどうしたいか、どうするか。
東雲のためじゃない。
【月鎮郷】のためでもない。
彼や郷を知り、いろいろな人の生き様を見て、感じて、
何かしたいと思う自分のために。
(決めるんだ。私の意志で)
再び、見上げた星空に柚月は誓った。




