第68話
降り続く小雨の音が、邸の中全体に届く。
じっとりと身体にまとわりつく湿気が、気分を余計に滅入らせる。
柚月は、所在なさげにうろうろと歩く。制服は血と土で汚れ、両手は乾いた血がこびりついている。不快だとは思うものの、洗い流す気にはなれなかった。
「……漣は?」
たまらなくなって訊ねると、宗真の肩がびくりと跳ねる。
「いえ、あの、お師匠さまは……」
もごもごと口ごもる。
その反応に、柚月は違和感を覚えた。意識の戻らない東雲を邸へ連れ帰ってから、彼はずっとこの局で薬草の選別をしている。怪我の手当てや局の支度など、することがいくらでもありそうなのに。
もし、宗真がそうする必要がないとしたら、東雲が姿を現してもいいはずだ。
胸がざわついて、ひどく落ち着かない。
東雲の顔が見たい。
彼と話がしたい。
そんな本音を見透かされたのか、代わりに朱堂が答えた。
「今頃、おまえの傷でグロッキーだろ」
「朱雀さま!」
柱に寄りかかり座る朱堂を、振り返った宗真が
怒鳴る。珍しい少年の大声に、柚月は説明を求めた。
「宗真。どういうこと?」
「あ、あの、その」
何かに気付いたようで、宗真の口はさらに重くなった。話題を逸らそうとする少年。その間を、朱堂が執拗に割って入る。
「隠すな。どうせ、いつかはバレる。どこの世界だって、何の反作用もなしに傷を直す万能な方法なんてない」
座ったままの姿勢で、あくまで話を続ける。
「この世界の治癒術は二種類ある。傷を負った本人の回復力を高めるか、他の誰かが損傷の肩代わりする」
「え……?」
柚月は、目を瞠った。
治癒術にパターンがあるとは考えていなかったからだ。
もともと、どういった仕組みで術が発動するかも知らなかった。この世界の治療のセオリーなども関心を払って見ていなかった。
だから、わからなかった。自分と東雲の身に起きていたことを。
「当然、どっちもメリットとデメリットはあるがな。漣の場合、おまえの怪我を自分に移したんだ。だから、おまえの火傷は消えた」
朱堂に指さす右腕。
今、見てもかすり傷ひとつない。
やっと、東雲が自分に何をしたのか理解できた。夏宮から酷い火傷を負わされたのに、こうして何事もなかったかのように動かせる。
それは、単に受けたダメージを東雲へ移しただけに過ぎない。
一瞬、頭が真っ白になった。
そして、次に思い出されるのは苦痛に歪む東雲の横顔だった。
朱堂が、くっと喉の奥で笑った。
「なに驚いてんだよ。まさか、気づいてなかったのか?」
柚月は何も答えられない。
以前、巨石を殴って受けた傷を治してくれた。あの時、深く追及することもできたのに、しなかった。もっと頻繁に使えばいいのにとすら思ったこともある。
あまりにも短絡的な思考に、柚月は絶句した。彼の言うとおり、何の代償もなしに自然法則を無視できるわけがない。
それでも、東雲は治癒術を使った。
自分のために何もしてくれない異世界の小娘相手に。
全身から血の気が引くような感覚だった。
柚月の青ざめた表情で何を考えていたのか、予測できたらしい。朱堂は長い溜め息をつきながらも、説明してきた。
「じゃあ、漣があえてそっちを選んだ理由を教えてやる。さっき言った回復力を高めるってタイプは、俺たちが本来もっている自然治癒の力を早めてるだけだ。おそらく、時間軸に干渉して細胞分裂のスピードを早めているんだろう。だが、当然デメリットもある。一瞬で心肺機能が停止するほどの外傷には効かないし、自然治癒が望めない損傷やウィルスなんかの感染症も無理だ。例えば、脊髄や脳の欠損、伝染病なんかだな。ましてや、人間が死ぬまでに起きる細胞分裂回数は決まっている。死ぬような大怪我でないにしろ、何度でも繰り返してりゃ、いつか術が効かなくなる」
講義する朱堂の声音は、どこか固い。
生命に関わる内容だからだろうか。先ほど、声を荒らげてまで東雲に術を中断させた理由に察しがついた。自身の怪我と柚月の火傷を、その身に取り込んだら、生命が危うい。
今さらながら、東雲の状態が非常に危険だったことがわかる。そして、彼の横に座る宗真は気まずそうに俯いていた。
柚月はショックを受けた。
否定しないということは、朱堂の言葉は事実なのだ。
柚月の全身が、がくがくと震える。
「嘘……なら、なんで漣は……」
かすれた声は、先を紡ぐことができない。
いまだに、わからないことだらけだ。何が疑問すら柚月には理解できない。
混乱したままの状態で、東雲の真意なんて知りようもない。
それでも、朱堂は笑う。
迷いを見下すように。
無知を嘲るように。
「おまえ、どこまでも漣に頼りっきりなんだな」
だから、何も知らずにいられる。
ふんと鼻を鳴らしながらの皮肉に、柚月は言葉を返せなかった。
雨の音が聞こえる。
確実に弱まっていく気配で、じきに止むだろうと柚月は思った。
ぼんやりと耳にしながら、東雲の寝顔を見つめ続ける。
邸に戻った直後に手当てされ、自身の局で休んでいたようだ。傷の痛みに表情を歪めて、浅い呼吸を繰り返す。額には汗が浮かんでいた。
頭の中で、声がする。
『私がヘマすると思ってんの?』
以前、宗真に告げた言葉。
過去の自分に柚月は嫌気がさした。思慮が浅くて、想像力のない発言だった。
なんて、薄っぺらで傲慢な言葉だろう。
柚月は何も知らなかっただけだ。
召喚の目的も【彷徨者】の意味も、隠された思惑にも気付かず。
利用される『つもり』になっていただけ。
東雲を護る『つもり』になっていただけ。
子供でもできる仕事を、さも立派に遂行してやったといわんばかりの態度だ。自分の無知ぶりに、恥ずかしさを通り越して呆れた。
考えるべきことは、もっと先にあったのに。
誰かを護るということは、傷ひとつ許してはいけないことと同じだ。どんな事情だろうと関係ない。また誰かを護り続けることも、非常に難しいことと覚悟しなければならない。
ずっと長い間、誰もが勝ち続けることができないように。
けれど、柚月はそれを考えていなかった。他人の命運を背負い、敗北した時に訪れるであろう結果を。
(……ちょっと考えれば、すぐにわかることなのに)
唇を噛み締め、東雲の右手に視線を落とす。
前に巻かれていた包帯はない。指の節には、まだうっすらと疵痕が残る。例の巨石を殴った時に、柚月が作った傷だ。あれも東雲が肩代わりしたに違いない。
異世界の人間が受けた損傷だ。彼にとっては重い怪我だったろう。完治するのにも時間がかかるかもしれない。
最初、夏宮と対峙した時にも支障をきたすほど、状態は深刻だったと思う。
(なのに、どうして……?)
ぐるぐると頭を巡る疑問と不安。
東雲の気持ちを考えてみたものの、結局は当て推量だと先を読むことを諦めてしまう。
今さら訊ねたところで。
どうしても、そんな思考で邪魔されてしまう。
そこへ、
「宗真……?」
探るような声に、柚月がハッとして顔をあげる。見れば、東雲のまぶたがうっすらと開いた。それだけで泣きそうになる。
「漣……ッ」
大粒の涙があふれた。
見上げる形となった東雲は、わずかに眉根を寄せる。柚月を視界に捉えたことで不快を覚えたように。
一気に、心臓が凍りつく。
視線を合わせるのが怖くなって、俯いてしまう。あれほど見たかった東雲の顔が、確かめられない。今まで自分のしてきたことが悔やまれる。もう完全に彼の信頼を失っていてもおかしくない。
拒絶されたら、どうしよう。冷たい視線で睨まれ、罵られたら。
火傷した腕を突きつけられ、「おまえのせいだ」、「役立たず」と言われたら。
考えただけで、鼻の奥が痛む。涙が、あふれて止まらない。
「どうし……」
「ごめんなさい」
東雲の声を遮って、謝った。
「私、知らなかった。知ろうともしなかった」
震える声を絞り出す。
押し黙っていたら、涙が止まらなくなりそうだった。
「ごめんなさい」
許されないとわかっていても、口にせずにはいられない。許されたいなんて、思うこと自体おこがましい。
でも、許されたくて。
償いたくて。
やり直したくて。
でも、どう償えばいいかわからない。唯一わかっていることは、自分が間違いを犯したという事実だけ。
ぼろぼろといくつもの涙が零れ落ちる。
頬が濡れても、握る手の甲に滴り落ちても、構わなかった。
どうして、もっと早く自分から動き出さなかったのか。
わからないなら、
知らないなら、
理解するよう努力するべきだったのに。
つまらない意地とプライドを守って、東雲を拒絶して、残ったものは後悔ばかり。
何故、どうして。
意味がないと知りながら、過去を振り返って問いかける。
涙が、枯れない。
我慢できなくて泣きじゃくった。
こんなことをしても東雲には迷惑だし、時間の無駄だ。
早く涙を止めて、現実と向き合わなければ。
そう焦れば焦るほど、涙があふれて止まらない。心底、感情を制御できない自分に嫌気がさした時、
何かが、頬に触れた。
いつの間にか、上体を起こした東雲が顔を覗き込んでいる。何も言わない真剣な表情に、柚月は視線をすぐ逸らした。
「僕を見ろ」
「や……ッ!」
「僕の目を見ろ」
顔をそむけようとすれば、さらに強い力で正面を向かされた。今までにない真剣な眼差しに、柚月は息を呑む。
けれど、東雲の瞳は強い光を放っていた。頬に両の掌を添えたまま、まっすぐに見つめてくる。
「君のせいじゃない。これは、僕が背負うべきものだ」
「でも……」
止まらない涙を、ゆっくりと親指の腹で拭う。柚月を責めず、穏やかな声音で言葉を紡ぐ。
「僕が、決めたんだ。誰に指図されたわけでもない。全てを背負うと自分で選んだ。それによって派生する痛みも責任も、僕だけが引き受ける」
指で涙を拭われ、近付いた唇が目尻に触れる。零れる涙を舌先で舐めとられた。柚月が驚いて、泣き止むまで。
不思議と不快感はなかった。疑問も羞恥心もわいてこず、東雲が口にした言葉の意味だけを考える。まだ両頬に添えられた掌が温かい。
「意味わかんないわよ……」
鼻をすすりながらも、柚月はあくまで譲らない。
「なんで、そんなこと選べるの?」
彼の歩く道は苦痛だらけではないか。
知っていながら、それを選ぶ。柚月は理解できないと呟くものの、当の本人は平然としていた。
「さぁね。他人はどうだか知らないけど、少なくとも僕は自分で選んだ結果がつらいとは思わない。そう感じるとしたら覚悟が足らなかっただけだ」
「なおさら変だよ……どんなに努力したって不本意な結果だってあるでしょ」
ぐずぐずと鼻声混じりで、疑問を口にする。
どうにもならない結末。
努力の程度は問題ではない。
力がない。
手段がない。
選択肢がない。
何もできない。
ただ目の前の現実を受け入れるしかない、絶望の瞬間。
それが怖くて柚月は逃げ出した。今でも床を転げ回りたいくらい恥ずかしい行動だった。
いや、それだけでは足らない。
添えられた頬を指でなぞる。
東雲の腕に触れると、ざらりとした感触がした。
彼の右腕を見る。
包帯が巻かれた、その傷は柚月の弱さが招いたもの。一生をかけて償うべきもの。
柚月も罪を背負った。
自分の甘さが、何もできない絶望の未来を引き寄せてしまった。
あれ以上のつらい現実があるかもしれない。
そんな可能性に気付いて、柚月は迷う。予想した最悪の結末を知りながら、自分はそれを選ぶ気概を持てるだろうか。
頭を横切る疑問を、東雲は軽く一蹴した。
「もっと、嫌なことを知ってる」
柚月の肩が強張る。
素っ気ない短い言葉の裏には、とても深い意味が込められていると思ったから。
「僕の子供の頃は、とても酷い時代だった。燐姫に拾われなかったら確実に死んでいた」
誰もが、その日を家族たちと乗り越えるだけで精一杯。親を失った東雲に構う余裕などあるはずがない。その中で、彼はつらい現実を受け入れてきたのだろう。選ぶことも決めることもできない、流されるだけの世界。
だからこそ、東雲は現状に絶望したりはしない。立って歩ける足、生きていく術や力がある。戦うべき相手に立ち向かっていける選択肢がある。
何もできないことこそが、最大の恐怖だと言い切った。
柚月は神妙な面持ちで、東雲を見つめる。訊ねれば、こうして答えてくれたのだろう。心を閉ざしていたのは、東雲ではなく、自分自身。
「燐姫って……とても、優しい人だったのね」
ぽろりと呟きが零れ落ちる。
縁もゆかりもない東雲を拾い、生きる術を教えたひとだ。きっと優しさの満ちた素敵な女性だったのだろう。東雲は、その素養を受け継いだに違いない。
しかし、柚月の予想は簡単に裏切られる。育てられた張本人からは、意外な言葉が返ってきた。
「いいや。利己的な欲望の強い、性根の腐ったひとだったよ」
あっさりとした東雲の物言いに、ぎょっとする。
「当時、山ほどいた浮浪児の中から僕を選んだ。術者……それも召喚士の素質があるから、修業しろってね。『修業をしてみないか?』って訊かれたんじゃない。初めから、究極の二択しか選ばせてもらえなかった。他の子供は見殺しにして。それが嫌ならのたれ死ねと言われた」
柚月は耳を疑う。
東雲が語る育ての親は、想像を絶する要求を強いていた。
少ない証言で築いたイメージなのだから、当然と言える。驚いて戸惑ったものの、柚月は以前のような負い目は感じなかった。
死者への敬意を忘れないけれど、訊きたいことを口に出してみる。
「でも、漣は術者になったのね」
「自分でも浅ましい子供だと思うよ。当分は衣食住の心配をせずにすむってだけで受け入れたんだから」
東雲が、再び自分の手で涙を拭ってくれた。
その指先は冷たくて、動きもどこかぎこちない。ぐいと強く涙を拭われて、腫れた目元には少し痛い。それでも、柚月は文句を言う気になれなかった。
彼の、とても不器用な優しさが伝わってきたから。
「燐姫のこと、恨んでる?」
「否定はできないけど、あのひとからもらったものも少しはある。この術と『好きに生きろ』ってことだけど」
指が離れた瞬間、途中まで口にした言葉を柚月が引き継ぐ。
「『とっとと引退して、毎日、面白おかしく暮らす』?」
過去に訊ねて返された答え。からかうように再び訊ねると東雲が横目で笑った。
「それは当分、先の話だな。ここはまだ貧しすぎる」
その表情は、とても彼らしい。ひねくれてて、飄々としていて、ぶっきらぼうで。
でも、とても強くて無上の優しさを持つひと。
自分が傷ついてでも、他人の苦痛を減らそうとする。背負おうとする。強い覚悟と際限のない労りの心で。
彼が、したいこと。
きっと東雲は、何も変哲もない日常を穏やかに暮らしたいだけなのだ。
その障害となる内乱や貧困を処理したいと考えている。
自分さえよければいいなんて、彼は思わない。見捨てても構わない他人に、分け隔てなく平穏を与えようとする。
ずっと隔てていた東雲との距離。
たった一歩、踏み込んだだけでクリアに見えてきた。




